かぶ

Goodbye To You, My Love : Clive - 04

「ねぇ、クライブ。南部女は情熱的ってよく言われるけれど、それは本当の事よ。でもね、同時に彼女たちはとても敬虔なクリスチャンでもあるの。だから遊びに誘うつもりなら、深入りさせない努力が必要になるわ」
 ようやく三回目となる正式なデートの帰り際、車内に落ちた沈黙を壊したのはジョージーナのこんな言葉だった。
 それはクライブがゲオルグの元で働き始めてから五年と半年と少し、ジョージーナと出会ってから四ヶ月足らずの春の夜の事だった。
 唐突に与えられた言葉を慎重に噛み砕き、その真意を探るように問いかけた。
「つまり、遊びなら付き合わないって事かい?」
「うーん、難しいところね。割り切れると思えば付き合うかもしれないけれど、無理だと思ったら付き合わないかもしれないわ。だって本気になった後に捨てられたりしたら、どんな事をしてしまうかわからないもの」
 くすくすと笑いながら答える彼女はいたずら好きの子供みたいに無邪気で、まるで自分がどれだけ物騒な事を口にしているのかわかっていないように見える。しかしそんな笑みも、程なくかき消された。
「私が生まれ育ったところはかなりの田舎だから、娯楽の種類は五十年前とほとんど変わってないわ。精々携帯電話とインターネットが割り込んできたくらいかしら。だから若い子たちは、退屈に飽かせて退廃的な悦びに浸るか、もしくは両親や祖父母から叩き込まれた古き良き貞操観念を守り抜くかのどちらかに、面白いほどきっぱりと分かれるの。そして私は――」
「――後者だ、という事か」
 言葉を引き継いだクライブにそっと頷き、彼女は恥ずかしげに視線を窓の外へと逸らした。
「実を言うとね、うちの両親はできちゃった結婚だったの。だけど二人とも幼馴染で一緒にいる事が当然のように育ったらしいわ。本当は父さん、結婚するまで待つつもりだったらしいのだけれど、母さんがインターンシップで生まれて初めて、それも二ヶ月もの間都会に出る事になったその前日に、名残を惜しんでいるうちにそうなってしまったんですって。……だから、順番こそ間違えてしまったけれど、時期も予定していたより早まってしまったけれど、何も変わらなかったんだっていつも言ってた」
「……」
「母さんも、よく言ってた。貞節を守るのは確かに大切だけれど、それ以上に心の声を聞く事も大切だから、この人になら全てを預けられると思うのであれば、預けてしまっても構わない。ただ、後悔だけはしない事。何があっても自分で決めた事なのだから、無理に責任転嫁をしたり、他の人に重荷を背負わせてはいけない。そう言い聞かされて育ったわ」
 ジョージーナの話がどこへ向かうのか、クライブは正直図りきれないでいた。内心の混乱を隠すためにも、変わらず沈黙を保ったまま、正面を走る車のテールランプにじっと視線を当てる。
「ミッシャが言っていたのだけれど、あなた、いずれは上院議員の後継者として政界への進出を望んでいるんですってね。……なのに、私なんかと出かけていて構わないの?」
 本来誘うべきはミッシャなのに。それが彼女が本当に口にしたかった問いかけだろう。
 正直なところ、その言葉を突きつけられずにすんだ事に、クライブは内心で深く安堵していた。ステアリングから右手を外すと、膝の上で握り締められているジョージーナの手にそっと重ねる。
「確かに僕は、ほんの三ヶ月ほど前までミッシャと出かけていたよ」
 手の平の下の拳に更なる力が加わる。その、自分のそれより一回りは小さな拳を包む込むように握り、クライブは続けた。
「だけど最後のデートは、ミッシャに乞われたからのものだし、それ以降はこちらから連絡を取ってさえない。頬へはともかく、唇へのキスもした事はない。――ああ、そうだ。君が指越しにくれたキスが、僕がゲオの元で働きはじめてから初めて女性と交わしたキスになる。それ以前については、あんまりにも昔過ぎて記憶が実にあいまいなんだ。だからもしかすると、あれが僕のファースト・キスかもしれない」
「クライブ……」
 驚いたように見つめてくる恋しい女性の視線をまっすぐに受け止めたいと衝動が走る。けれど今はハイウェイを走行中で、確かに彼女と一緒に天国を見れたらとさもしい欲望を抱えてはいるが、それはまた別の状況での事だ。思いがけない告白のせいでか緩められた手にそっと指を絡ませ、柔らかな手の平に指先を滑らせる。
 ひくん、と、隣の身体が甘く震えるのが、繋がれた手越しにもわかった。そんな自分の反応に対するジョージーナの動揺さえもが如実に伝わってくる。
 思い返せば、出会った頃のジョージーナは、整った顔立ちに恵まれた身体を持ってはいたものの、どこか野暮ったさを隠し切れずにいた。さばさばとした口調や性格のおかげで、フォルトナー一家に仕える護衛や使用人たちとも、男女を問わず実にあっさりと打ち解けていたが、そこに色が混じる様子はほとんど見られなかった。
 彼女が女としての顔を――その片鱗を覗かせたのは、彼が知る限り、クライブに対してだけだった。
 二人の、系統は違うけれど美女と言って差し支えない女性に恋する目で見つめられて、自尊心が擽られなかったわけではない。事実、クライブはミッシャのそれを利用するつもりが、確かにあったのだ。
 初めて出会った頃、ミッシャはまだジュニア・ハイの少女だった。当時から彼女はクライブへと、実にわかりやすい憧れの視線を送っていた。それは七年近い年月が経つにつれて、幼い憧れからはっきりとした恋情へと緩やかに変化を見せた。
 元々政治家を志してはいたものの、生まれ育った地域はボストンでも比較的中流よりほんの少し下の人間が住まう地域だったし、当然親戚のどこを探しても高尚な家柄なんてものを持った者はいない。
 なんだかんだと言いつつも、政治の世界は候補者の家柄や、その後援者の持つ権力とカネが物を言う。本気で政界に打って出るには妻帯が必須条件であり、政財界に何らかの影響力を持つ家の娘を娶るべきだとされている。つまるところ、いずれは政治家として身を立てたいと望みながらもけっしていい生まれとはいえないクライブにとって、父親が上院議員であり、かつボストン大学のロー・スクール入りを目指しているミッシャはまたとない妻候補だった。
 だからこそクライブは、雇い主の機嫌を損ねないようにと細心の注意を払いつつ、実に紳士的にミッシャをデートに誘い、いくつかのパーティでは彼女をエスコートしては対抗馬に牽制をかけていた。今時プラトニックは流行らないと知っていても、こういった場面で焦ってしまっては逆に追い詰められる可能性もある。だからこそ、もっと先を望んでいるのだと態度で知らせてくるミッシャには、君を大事にしたいからと繰り返して納得させていたのだ。そしてそれは実に上手く働き、軽々しく身体を求めてくるような男たちとはやはり違うのだと、ミッシャの恋心を深めるに一役買っていた。きっと何事もなくそのまま物事が進んでいれば、ミッシャが大学を卒業すると同時に、フォルトナー家では大々的なウェディングが計画されていただろう。
 けれどその未来予想が現実にならないだろう事を、今のクライブは他の誰よりも一番よく知っていた。
「ミッシャの事は好きだよ。ただ、長く交流しているせいもあるだろうけれど、どうしても家族のような感覚が抜けてくれないんだ。彼女の気持ちは嬉しいと思っても、同じ気持ちを返す事はできない」
「だったらどうして、デートになんか誘ったの?」
「その答えは、あんまりにも情けなすぎて口にはしたくないのだけれど……」
 当然過ぎる問いかけに、クライブは僅かな罪悪感を目に浮かべてジョージーナの横顔をそっと盗み見る。しかし咎めるような視線が痛くて、すぐに正面へと視線を戻した。
「多分、君の予想どおりだと思うよ。例え僕が彼女に恋をしてなくても、兄妹の真似事を延長させれば家族を作る事は難しくないだろうと考えたんだ。……ゲオとエレンがそうだったようにね」
 言い訳めかした言葉に、無言のまま新たな非難の視線が向けられる。綺麗に整えられた柳眉がすっとつりあがるのは、彼女が何か苦言を呈したい事があるというサインだ。さすがに運転中に辛らつな言葉を投げられるのは不利が過ぎると判断し、機先を制するためにも口を開く。
「わかってる。僕は、ミッシャに対して酷い事をしようとしていた。だけど目の前に連邦議会まで続いているかもしれないレッド・カーペットに乗るチャンスがあるのなら、仮にも政治家を志す身としては飛びつかないわけにはいかないじゃないか」
「ならそのままカーペットの上を真っ直ぐ歩けばよかったんじゃない」
「それを、君が言うのか?」
 拗ねたような口調に、思わず小さな笑みが漏れた。何が面白いの、と詰め寄る女性の手を持ち上げ、何気ないそぶりでその手首に唇を押し当てる。
「クライブ!」
「これくらいの事で怒られるってのは、正直心外だな」
「どうしてよ」
「だって僕に、目の前のカーペット以外にも道があるんだって事を教えてくれたのは、他の誰でもない君じゃないか」
 さらりと告げた言葉への反応は、十数秒の沈黙だった。
「心当たりが、ないわ」
「酷いな。人の目を覚まさせたくせに」
「だって本当なんだもの。私の何が、あなたに栄光の殿堂に続くカーペットから目を逸らさせたって言うの?」
「だから、君がくれたあのキスだ。あの日から僕は、都合のいい夢でなく目の前にある現実を見続けてる。何度も繰り返し自問して、はっきりと悟った」
 深く吸い込んだ呼気を長く吐き出し、意識的に平静を保ちながらクライブは告げた。
「ミッシャとなら、穏やかで理想的な家庭が築けただろう。政治家の夫に献身的に尽くす理想の良妻賢母になってくれるだろう」
「――そうね、あの子なら、きっとそうなるわ」
「だけどその夫は、必ずしも僕でなければならないわけじゃない。そうだろう?」
 寂しさを滲ませながらも気丈に返したジョージーナは、しかし続けられた言葉に対するリアクションを持ってなかった。耳にした言葉が理解できないとでも言うようにこちらを呆然と見つめる彼女に、クライブはそっと笑った。
「他に換えられるものがそっちを選べばいい話だ。恋人でも、将来の伴侶でも、仕事でも、野望でも。だけどもし換えられないと思うものがあるのなら、僕は全力でそれを追いかける」
 正面のテールランプをじっと見つめたまま、クライブはジョージーナの手を強く握り締める。
「僕にとって他に換えられないものは、何が何でも手にしたいと望む唯一は――君だよ、ジョージーナ」
 うそ、と、掠れた呟きが耳を掠める。そこには驚きだけでなく、確かな喜びの色が混じっていた。嘘じゃない、と囁き返してジョージーナの手を握る右手に力を籠める。この手でさえ放したくはないのだと、行動で告げる。しばらくの間をおいて握り返された手は、彼女の言葉にできない思いを、確かに伝えてきた。
 ――その翌朝食べたジョージーナ特製のトマトチーズオムレツの味を、クライブは一生忘れないだろう。