かぶ

Goodbye To You, My Love : Mischa - 01

 行ってしまう。
 あの人が、行ってしまう。
 私の手の届かないところへと行ってしまう。
 行ってしまって、二度ともう、手を伸ばす事さえできなくなる。
 できるだけ「いつか」であってほしいと願っていた未来が現実になってしまう。
 彼女のためだけの男性に、なってしまう。
 行儀が悪いだとか年甲斐もなく、なんて事を考えもせず広い屋敷の中を走り抜けて自室に飛び込んだミッシャ・フォン・フォルトナーは、後ろ手に閉めた扉へと背中をつけたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。
 心臓は、走ったからだけでない理由でばくばくと音を立てている。だというのに身体は、自分自身でもわかるくらいはっきりと体温を失っている。
 行ってしまう。
 彼が、彼女の元へ。
 離れていこうとしている恋人を、妻として迎えるために。
 あの人が――行ってしまう!
「ああ……!」
 どうしてだろう。どうしてこんなにも、心臓が苦しいのだろう。恋は甘くてどきどきして楽しいものだって思ってた。好きになった人のちょっとした言動で一喜一憂する、それを楽しむもののはずだ。なのにどうしてこんなにも……こんなにも、辛いのだろう。
 初恋は実らない。そんな陳腐な言葉が脳裏を過ぎる。
 そんなはずない。私の初恋はエレメンタリースクールで終わってる。残念ながらキスまでも行かなかったけれど、学校の課題を口実に、二人きりで手を繋いで、フリーダム・トレイルを踏破した。その時の発表は、当然のように私たち二人のが一番出来がよくて、学校から表彰されたのだ。頬を赤く染めてはにかんだ幼い少年の笑顔を、今でもこんなにはっきりと覚えている。
 だけど、本当に? あれは、本当に恋だった? あれが本物の恋なら、ならこれは? これは何なの?
 ――ええ、そうね。認めるわ。これが、これこそが恋なのだ。この、苦しくて、身を焼くような、この想いこそが。
 一度は触れる事ができて幸せだった。だけどチャンスを逃してしまった。それ以来私は届かないと知りながら、ずっと手を伸ばし続けてきた。いずれあの人が熱情から醒め、理性を取り戻して、本来の目的のために私の手を取るだなんて都合のいい未来絵図を一人で描いて、ただただ待っていた。
 待つだけ、だった。
 あの人の目が、心が、どこに向いているのかを知っていたのに。
 ……私に遠慮した彼女が、あの人の野望を知っていた彼女が、いずれ身を引くだろうと知っていたから。だから、待っていた。いつか彼女が姿を消して、あの人が私を思い出す、その日を。
 そんな日が、来るはずがないと、どこかで知りながら。それでもただ、待っていた。身勝手に期待して、し続けて。そして――
「馬鹿、みたい。あなたも、あの人も、私も……みんな、馬鹿みたい――!」
 衝動に任せて床を殴りつける。やわらかなラグのせいで、打ち付けた拳は痛みを覚えない。現実感の乏しさに、ミッシャはこれが現実なのか、それとももしかして夢なのだろうかなんて更に馬鹿げた事を考える。考えて、自分の愚かさをヒステリックに笑い飛ばした。
「……本当に、馬鹿みたい……」
 隙間風に揺れて消えた蝋燭の残り火のように呟いて、彼女はくずおれた姿勢のまま、そっと目を閉じた。
 立ち聞きをするつもりなんかなかった。ただ、部屋の窓から外を見ていたら、父親の車が戻ってくるのが見えたから、もしかしたら少しでも話せるかもしれないと期待して、階下に下りたのだ。
 元々忙しい父親に付き添うのが彼の仕事だったから、元からそう会えるわけでもなかった。けれど大学に入ると同時に、学校が近いからとキャンパス近くのアパートメントに移ってしまったため、今では週末や休暇で実家に戻ってきた時か、もしくは父親と約束を取り付けるなどでもしない限りは会えなくなってしまった。
 それでも、以前はまだよかった。本当に数える程ではあったけれど、きちんとしたディナーのデートもしていたのだ。その半数以上が、ミッシャから誘ったものだったけれど。
 あの頃の彼は、確かに彼女に恋してはいなかった。だけど恋する事ができなくても、両親のような穏やかな愛情を育てようという意思は、確かに見えていたのだ。だからミッシャは安心して彼を誘えたし、会えない日や都合が合わなくてデートの誘いを断られる事が重なっても不安になどならなかった。
 不満がなかったわけじゃない。だって彼は、ミッシャの父親を恐れてなのか、全然手を出してくれなかったのだから。
 クラブへと誘った時だって、ついてきてはくれたけれど、露出の高い格好でぴったりとくっつこうとしたり、不意打ちのキスを狙ったりすると、やんわりと身体を離して告げるのだ。
『こんな事をしてはだめだ。こういう事は、ちゃんとした相手としないとね』
『あら、あなたはちゃんとした相手だわ。それにキスなんか、今時小学生だってやってるわよ。中学校に通ってる子なら、もっとすごい事だって――』
『それでも駄目だ。僕は君のお父さんに顔向けできない事はしたくないし、何より君を大切にしたいと思ってるんだ。だから駄目』
『でも、キスくらい……』
『そのキスがきっかけになってしまわないとは限らない。君だって、衝動に流されて、後悔したくはないだろう?』
 あなたとなら構わないのに、と唇を尖らせたミッシャに、やっぱり困った顔のままで彼は返した。
『それが衝動ってやつだ。自分の感情をきちんと見極めるまでは、そういう事はしない方がいい』
『もう、とっくに見極めてるのに』
『自分ではそう思っていてもね、あとになって振り返ると、ただの憧れだったと気づく事が往々にしてあるんだ。本当に愛する人ができてから後悔しても遅いんだよ?』
 だから駄目。そう囁いて、まるで子供にするように、額にキスを落としてくる。身長差のせいで、背伸びをしたり顔を上げても、彼の唇は鼻の先にしか触れてくれない。この事を相談した、両手の数にあまる人数の彼氏を持つ友人は、彼の言葉に対して「ヘドが出そうな奇麗事ね」という、実に適切なコメントを返した。正直、ミッシャはこの友人に、全面的に賛成だった。
 だけど、それでも、大切にしてくれているという実感は、たとえそれが彼女の父親を慮っての事だったとしても、嬉しい事だった。慎重すぎる態度にじれったくなったけれど、簡単に手を出してくるような男とは違うのだと確認できて、より一層、彼を想う心が強まった。
 きっと彼は、ホワイト・ウェディングを望んでいるのだろう。そんな甘い幻想すら抱いていた。
『こんにちは。はじめましてだね。僕はクライブ・サットン。君のお父さんを、とても尊敬しているんだ』
 自分よりははるかに大人だけれど、どこか同年代の少年たちと共通するところのあるその笑顔に、ミッシャは握手を返す事すら忘れて、ただただ見入ってしまった。握手を返してもらえない事に戸惑い、せっかくの満面の笑みが苦笑に変わって初めて自分がどれだけ不躾な事をしていたのかに気づき、慌てて差し出されていた手を握り返した。とたん、ほっとしたように表情が和らぎ、少女はまた目をぱちくりとして、七つも年上の青年をじっと見つめる羽目になった。
 それは彼女が十四歳になる少し前の秋、父親の参加する党のイベントに初めてボランティアとして参加した時の事だった。
 その時に恥ずかしい思いをしたからというのも、今でも彼との出会いをはっきりと覚えている理由の一つだと思う。だけどそれより何よりクライブの笑顔があまりにも新鮮だったから、だから忘れられずにいる。
 物心付いた頃から政治の世界にどっぷりと浸かった大人たちの間で育ったミッシャは、政治家や、その周囲にいる人間について、一般人よりははるかに詳しいと自負していた。
 その中でも特に、将来政治の世界で身を立てたいと望む青年たちは、現実を表面しか見ないままに頭の中で作り上げた理想郷を闇雲に追いかける空回りの情熱家タイプと、家柄やIQの高さをひけらかす事に腐心する闇雲に上昇志向の強すぎるタイプが多い。もちろん中にはきちんと現実を肌で感じた上で、少しでも状況を良くしたいと願ってこちらの世界に飛び込んでくる人も少ないわけじゃない。そしてミッシャの目には、クライブはこの中でも最後のタイプの人間のように見えた。
 濃いアンバーの髪に同じ色の優しげな瞳は彼をより親しみやすく見せ、ミッシャはあっという間にクライブを、まるで兄のように慕うようになった。とはいえ、実際に会うのは年に数回、父親に連れられて党関係のイベントに参加した時だけだったし、何より当時のミッシャにとって恋愛対象というのは同じ学校の上級生が精々だったから、その感情はただ単に、優しくて大人でかっこいいお兄さんに対する憧れでしかなかった。クラスメイトの女の子たちと一緒になって、学校のスポーツクラブで活躍していた男の子たちに熱を上げたり、同級生の中でもまあまあ見た目がよくて、頭もそう悪くない男の子とデートの真似事をして遊ぶのでいっぱいいっぱいだった。
 ただの憧れが恋へと質を換えたのは、クライブが父親の秘書補佐として正式に働きはじめてからだ。ミッシャ自身も忙しく、家にいる時間はジュニアハイの頃に比べると格段に短くなったが、それでも父親が帰ってくる時間よりも大抵は早く帰宅する。そうすると父親を送り届けにやってくるクライブとは最低でも週に一度は顔を合わせるし、家族の食卓にも混ざるとなれば、クライブ・サットンという青年の人と形(なり)を深く知るのも当然だ。
 淡い金髪に堀の深い顔立ち、そして氷のようなブルーアイズを持つ、どこからどう見てもドイツ系の父親と、ブルネットの髪にアングロ・サクソンの穏やかな顔立ちとあたたかな緑の瞳を持つ母親の間に生まれたミッシャは、父親の遺伝子はどこに行ったのだと笑われるほどに母親そっくりだ。そしてその母親は、かつて彼女がボストン大学に通っていた頃は何度かクイーンに選ばれた事もある美女ときては、その素質を持つミッシャの容姿が劣っているはずもない。通っていた高校にもその近隣校にも、彼女と並んでも鑑賞に堪えうる容姿と、頭のいい両親譲りの頭脳に怯まないだけの度胸を持つ少年はそれなりにいて、思春期真っ只中の少女らしくボーイフレンド候補は、常に片手の指の数はいた。そしてそんな彼らとデートはしながらも、ミッシャは自分の心がどうしようもなくクライブへと惹きつけられるのをはっきりと認識していた。
 自分の感情に気づいてしまえば、その対象への接し方が変わってしまうのは自然な事で、以前は無邪気に接してきていたはずの少女がどこか色めいた態度や言葉を見せる事に、聡いクライブが気づかないはずがない。
 けれどその頃のクライブは、精力的に政治活動をこなすゲオルグについていくための勉強や山のような仕事に忙殺されていたし、そもそもミッシャはゲオルグの娘で、何より未成年の少女だった。
 つまり、恋愛対象になど、どう転んだところでなれるはずがなかったのだ。
 周囲が気軽にボーイフレンドたちと経験を重ねていく中で、ミッシャは胸にクライブへの恋慕を秘めていた事や両親の社会的地位や世間に対する風評を慮った事もあり、誰かに肌を許す事がどうしてもできなかった。それが理由でボーイフレンドたちは他の少女たちへと次々と心を移した。おかげでミッシャの高校生活は、付き合ったボーイフレンドの数と、学校での成績だけは自慢できる思い出となった。
 とはいえ大学受験の準備に入る頃には、勉強もしなければならないし、何より自分の心が誰にあるのかを確信していたので、もう誰かに誘われても簡単に付き合う事はなくなった。そうして大学に入り、十八回目の誕生日を迎えてしばらくした頃、世間話のついでのように誘ったデートに、初めてクライブがイエスの言葉を返してくれたのだ。
 クライブが自分に恋していない事などはじめからわかっていた。きっとゲオルグの怒りを買う事を恐れてだろう、まるで子供同士のような、唇へのキスすらないプラトニックな関係が続いても、彼の仕事やミッシャ自身の勉強やバイトの都合でデートできる回数が限りなく少なくても、文句は言わなかった。父親が自分の後継者としてクライブを見ている事や、クライブ自身もそうなりたいと望んでいた事を、彼女は知っていたのだから。
 叶うならば、身を焦がすように恋しあいたい。だけど一生を共に過ごすのであれば、情熱に頼らず、彼女自身の両親のように、穏やかで強い信頼によって結ばれた夫婦になれればそれでいいと、そう思っていた。
 時間なら、いくらでもある。それこそ一生という長い時間が。その間に、確かな関係を作ればいい。そう考えていたのだ。
 けれどその未来図は、ジョージーナ・ニコライという、たった一人の女性の登場によって、実にあっけなく崩れ去ってしまった。