かぶ

Goodbye To You, My Love : Mischa - 03

 とんとん、と、控えめなノックがしんと静まり返った部屋に響く。その音をミッシャは、背中をつけたドア越しに身体で直接聞いた。
 思いがけない干渉に彼女は、自分自身が驚いてしまうほど顕著な反応を示してしまう。そのまま、まるで天敵の存在をかぎつけた野の動物のように息を潜めてじっと様子を伺う。
「……ミッシャ、そこにいるのでしょう?」
 とん、と、先程より高いところで音がして、柔らかな、優しげな声が問いかける。それが誰のものなのかなど、いちいち考える必要もない。エレオノール・フォン・フォルトナー。ミッシャの母だ。
「ねえ、ミッシャ。応えてほしいわ。……中にいるのでしょう?」
 ほんの少し拗ねたような口調に、思わず口元が緩む。独立戦争で身を立て、以来政界、経済界において活躍してきていた、アメリカでももっとも上流の一つとして数えられるリヴァートン家で蝶よ花よと育てられた箱入り娘の彼女は、半分ほどの人生経験しかないミッシャよりもよっぽど少女めいた空気を持っている。
 もちろん、彼女が頼りないだとか、大人らしくないというわけではない。それどころか、海千山千の社交界、政界で生きるご婦人方との交友において、瀟洒な会話の裏でなされる腹の探りあいや尻尾の掴みあいに引けを取った事がないという。それどころか、頭の回転が速く、他人の急所を仕留めるのが大の得意とされるような人間を相手をそのおっとり穏やかな空気で煙に巻いた挙句、誰にもそうと気づかれず誘導尋問でもって巧みに必要な情報を逆に手に入れた事もあるらしい、などという噂を耳にした事もある。
 実際、子供の頃からどんな秘密でも――特に悪い事をして隠しておきたかった場合で、エレオノールから隠しおおせた事は一度もない。いつだって気が付いた時には、一から十までの洗いざらいを白状して、ごめんなさいと頭を下げていた。
 そうと知らない人はエレオノールのお嬢様らしい雰囲気と言動にころりと騙されてしまうのだが、ああ見えて母は少しどころでなく強かなのだ。まあ、そうでもなければ政治家の妻など二十年以上もやってられるはずもないのだけれど。
「おしゃべりしたくないのなら、しないでもいいわ。顔を見せたくないのなら、それでもいい。ただね、ママ、あなたがここにいるんだって事を、確かめておきたいの。だからミッシャ……」
 ほら、これだ。こうして大幅に譲歩してみせる事で、エレオノールが求める反応を返す事を返す事への反発や反感を和らげてしまうのだ。
 やっぱりママには勝てない。そう諦めと苦笑を交えた息を吐き出し、ミッシャは軽く握った拳の背で、こん、と背中を預けている木の板を一つ叩いた。
 扉越しにも、心配一色だった気配に安堵が混じるのを感じる。
「よかった。やっぱりいてくれたのね。……ねえ、ミッシャ。喉は渇いてない? 紅茶をね、淹れようと思っているのだけれど、あなたも飲むかしら」
 穏やかに和やかに母が言葉を連ねる。その裏にあるのは娘を案ずる心だけ。
 もしかして、と、ミッシャは考える。母はあの場所に、クライブが父に話をしていたあの場所に居合わせたのだろうか。その上で娘が自分の部屋へと逃げ込んだ事に気づき、こうして様子を見に来てくれたのだろうか。
 その気遣いは嬉しい。嬉しいのだけれど、恥ずかしいというか、自分自身が不甲斐ないというか、できればそっとしておいてほしいというか。
 けれどそんな事をここで一人考えていたところで、易々と引き下がってくれるような母ではない。ほんの少し考えて、時間稼ぎのためにも紅茶を持ってきてもらう事に決め、こつん、と一度、扉を叩いた。
「……これはお願い、って意味かしら?」
 束の間の沈黙の後、問いかけの形で確認の言葉が投げられた。肯定するためにもう一つノックを返す。
「わかったわ。それじゃあ、ママ、ミッシャが最近お気に入りのアフタヌーン・デライトを淹れるわね」
 ぱあっと、光が差すような明るい声が届く。まったく、どうしてこうも天真爛漫なのだろう。父は母の事を時々エルフかニンフの取替えっ子なのではないかと苦笑する事があるけれど、その意見には全面的に賛成だ。けれどそんな母だからこそ、父は心惹かれたのかもしれない。自分と違う視点や考え方を持つ人だったから、興味を持ち、理解を深めようとしたのではなかろうか。そうして今のような信頼と尊敬で結ばれた夫婦となったのだ。
 ゲオルグ・フォン・フォルトナーとエレオノール・リバートンは情熱や愛情によって結ばれたわけではない。もともと面識もあり、親しんでいた事もあって両家が取り決めた結婚だったという。
 人の目や立場というものがあり、人前で抱き合ったりキスをしたりと愛情を表現する事はほとんどなかったが、互いを尊重し、それぞれの夢や目標を支えあう両親の姿は、ミッシャにとって理想とするべき夫婦像となった。
 だったからこそ、ミッシャはクライブが自分に恋していないと知っていながらも、彼の妻になるという夢を捨てずにいられたのだ。ゲオルグの娘である自分なら、彼の野望を、連邦議会に席を持つ政治家になるという将来図を実現させるための支えになれると、力になれると知っていたから。
 そのためにクライブは、きっとミッシャを選ぶと思っていた。たとえ今は一時の熱情でジョージーナを愛していても、最後には自分の下へと戻ってくるのだと、そう信じて疑わなかった。
 ああ、だけど、それがいけなかったのだろうか。その考えが、間違っていたのだろうか。
「ミッシャ、お茶が入ったわ。ドアを開けてくれない?」
 顔を見せなくてもいい、と言ってから、まだ十分と経っていない。なのにもうこれだ。さっきの言葉などまるでなかったかのように中に入れてと告げてくる。それも、断りたくても断れない状況で。
 予想どおりの事の運びにふっと笑いを漏らす。漏らして、まだ自分が笑える事に気づいた。
 意図してかどうかはわからないけれど、それでも笑わせてくれた事は嬉しかった。でも、さすがにこんな泣きはらした顔を母親とはいえ誰かに見せるのはためらわれた。
 そんな逡巡を察したのだろうか。静かに言葉が重ねられる。
「心配しないで。私はお茶を淹れるだけよ。ほら、あまり時間が経ってしまうと渋くなるわ。淹れたらすぐに出るから……ね?」
 ほら、これだ。こんな風に言われてしまえばもう、絶対に嫌だなんて返せるはずがない。エレオノールの手を熟知している自分ですらこんな風にあっさりと追い込まれてしまうのだ。彼女の見た目や表面的な言動だけでを軽んじ、侮りきった人たちをこちらにとっていいように懐柔するなど、きっと母には赤子の手を捻るようなものだろう。
 諦めの息を吐いてミッシャはゆっくりと冷え切って固まってしまった四肢をゆっくりと伸ばす。ぎくしゃくとした動きしかできない身体は、まるで油を差し忘れたブリキのロボットみたいだ。自分の状況を考えてゆっくりと立ち上がるものの、泣きすぎによる頭痛とずっと座っていた事が原因の立ちくらみが襲ってくる。それらをやり過ごすために、あたたかみのある木の扉へと束の間身体を預けた。
「今、開けます」
 涙で濡れそぼった顔を手の甲で拭い、大きく一つ息を吐く。
 こんな自分を見て母が何を言うのかを想像するのは中々に難しい。きっとこちらから水を向けない限り、彼女は自分の言葉を守って本当にお茶を淹れるだけ淹れて出て行くだろう。
 そうなる事を望む心と、母親のぬくもりを求める心が激しくせめぎあう。
 いずれにしても、このドアを開けない事には何も代わらない。
 もう一度苦い息を吐いて、ミッシャは冷たい真鍮のドアノブに手をかけた。
 暗い部屋に、廊下の照明が一筋差し込む。それは扉の動きとともに幅を広げ、床の上に光で歪な四角を描く。
 締め切った部屋で閉じこもっていたせいもあり、薄闇に慣れきった目には眩しすぎて、二度、三度と瞬きを繰り返す。そうしてようやく慣れた頃、ミッシャは目の前でじっとこちらを見つめている女性へと視線を向けた。
「大丈夫?」
「ええ、まあ」
 軽く答えて手探りでドア枠のそばにある照明スイッチを押す。一気に明るくなったせいで目がまた眩む。微かな頭痛さえも伴ったそれを、頭を振って文字どおり振り払おうとする。
 自分よりも長身な娘の様子をじっと伺っていたエレオノールは、彼女が再び自分をその目に映すのを待って口を開いた。
「ありがとう、開けてくれて。これ、どこに置いたらいいかしら?」
 問いかけながらほんの僅かに持ち上げてみせたトレイの上には、ウェッジウッドのストロベリーゴールドで統一されたティーセットが載せられていた。カップとソーサーは当然のように二客用意されていて、やっぱり、とミッシャは苦笑を漏らした。
 怪訝な顔で見上げてくる母へと指先でベッドサイドテーブルを示す。
 無愛想な対応にではなく指差された先にほんの少し顔をしかめながらも、エレオノールは流れるような動きで示された場所にトレイを載せ、惚れ惚れする程の優雅な所作で紅茶を一杯分だけ注ぐ。紅茶の入ったカップをとても差し出されたため思わず受け取ってしまったものの、気になるのはトレイに残されたままのカップで。
 その視線が向いている先に気づいているのかいないのか、彼女の母はじっと娘の動向を見守っている。
 ほんのりと木苺が香る湯気を溜息で吹き流し、待たれている問いを口にする。
「ママは飲まないの?」
「もちろん、飲むわ。あなたがいいのなら、ここで。嫌なのなら、一杯分だけもらって出ていくわ」
 告げる目にも声にも押し付けがましいところはないし、じっと答えを待つその目も誠実そのものだ。実際、彼女はここでミッシャが「出ていってほしい」と望めば、自分の分のお茶を注いだカップだけを持ってすんなりと出て行くだろう。彼女の言葉はいつでも真剣で真摯だ。だからこそこちらも適当な言葉を返せなくなる。
 今回もそうだ。こんな風に下手に出られてしまえば、ミッシャに返せる言葉は一つしかない。
「……もちろん、嫌なんかじゃないわ、ママ」
 僅かに残った抵抗を払って答えれば、母はぱっとその顔を喜びで輝かせる。
「ありがとう、ミッシャ。ね、どこに座ったらいいかしら」
 まるで無邪気な少女のように微笑んで訊ねるエレオノールに苦笑を深め、フランボワーズティを一口啜りながら視線でベッドを示す。立ちながら飲むのも、ベッドに座って飲食するのもけっして行儀のいい事ではない。それをこちらも視線で咎めながら、きっと濃くなってしまっているだろうお茶を自分のカップに注いだエレオノールは娘の寝台に腰を下ろした。