かぶ

Goodbye To You, My Love : Mischa - 05

「ゲオルグはね、あの人のご両親や私の両親から私たちの事を気にかけてくれと言われて、ちょうどあの人と同じ新聞社にお友達がいたからと言い訳をしながら様子を見てくれていたの。あのね、私、大学を卒業する少し前からあの人が死んでしまうまでの二年と少しの間、押しかけ女房をしていたのよ」
 絶対他の人に漏らしちゃ駄目よ。唇の前に指を立てて微笑むその顔は、まるっきり恋する少女のそれだ。
「私の両親はね、やっぱりきちんとした家筋であっても出奔したあの人より、上流社会に所属する男性と私を結婚させたがっていたの。だから勝手にお見合いを設定して、私の意見なんか完全無視で婚約を決めて、大学を卒業したらすぐにでも結婚、みたいな流れを作ろうとしていたのよ。だから私、家を出て、あの人の部屋に押しかけたの。好きでもなんでもない人と結婚させられそうだから、結婚するべきかどうか、あなたが決めてくださいって。だけど、結論がどちらであっても、今夜は私にください。あなた以外の人に嫁ぐとしても、私の純潔はあなたに捧げると決めているから、嫌でももらってくださいってね」
「そんな……ママがそんな事、本当に……?」
 告げられた言葉が、隣に座っている女性とあまりにもそぐわなくて、ミッシャは戸惑った声を上げる。それに対する答えは、誇らしげな微笑だった。
「ええ、言ったわ。あの人ったら、私の気持ちを知っていたくせに、どこかで高をくくっていたのね。所詮は子供のハシカみたいなものだって。だからそこまで覚悟を決めてるだなんて思いもよらなかったみたいで、心底からびっくりしてた。けれど最後には覚悟を決めて、そこまで言うなら一緒になろうって応えてくれたの。ただ、結婚をするのはきちんと互いの両親の許可を得てからだって。君は祝福された花嫁になるべき人だからって。――でも、結局うちの両親は最後まで許してくれなくて」
 静かに息を吐き、また目を爪先へと落とす。なんと声をかけたら良いのかわからず、ミッシャはじっと母の横顔を見詰めていた。
「あの人が危険なところに行くと言った日、行かないでほしいと言ったわ。――子供がね、いたの。わかったばっかりで、伝えるかどうするかすごく悩んでた。その矢先だったから、すごく引き止めた。あの人は子供のこと、すごく喜んでくれたわ。でも他に行ける人がいないし、支払いがとてもいいのだと言って、行ってしまったわ。帰ったら、きちんと式を挙げようってそう言って。……なのに、実際に執り行ったのはお葬式だった」
 かちかちとカップがソーサーの上で震える。否、震えているのは母の手だ。ためらいながらもその手にそっと触れると、どこか安堵したようにエレオノールは息を吐き出した。
「本来は両親側のスパイだったはずなのに、付き合っていくうちにゲオルグったらあの人にすっかり感化されてしまってね、漠然としか考えていなかった将来について真剣に考えるようになったの。気がついたときにはメンターとアプレンティス状態。……だからきっと、責任を感じたのでしょうし、同情もしてくれたのでしょうね。愛した人を喪ったそのショックで子供まで亡くしてしまった私に、彼はとても親身になってくれたわ」
「じゃあ、それがきっかけで……?」
「まあ、そうなるかしらね。あの人が亡くなってから一年がたった頃、珍しくディナーに誘われて行った先でね、プロポーズされたわ。私がどれだけ深くあの人を愛していたのか知っている。すぐ結婚してくれといっても戸惑うだろうけど、自分ならあの人の事も含めて君を受け入れられると思う。それに私がそばにいれば、あの人が夢見たアメリカを忘れずにいられるだろうって」
 カップの中に残っていた紅茶を最後まで飲み干し、エレオノールはじっと自分を見つめているミッシャへ視線を向ける。
「ええ、そうよ。私たちの間には、あなたや家族だけではない、別の絆があったの。同じくする志があったの。あの人の遺志を継ぐという、ね。だからこそ私はゲオルグの政治活動を全霊でサポートしたし、あの人も私を見るたびに自分の初心を思い出して信念をぶれさせる事なく自分の道を歩んできた。――私たちはね、確かに情熱や恋愛では結ばれてはいないわ。だけど、家族や夫婦としてよりも、同志としての心で、あの人を介した絆で結ばれている。だからこれまでこうして一緒に生きてこれたの」
 そう告げる顔には先程までの哀しげな様子は欠片ほども残っていなかった。浮かんでいるのはいつもの、としか言いようのない穏やかな微笑み。けれどその微笑みは、まるでこれまでの人生に対する彼女自身の自信と誇りに彩られて、思わず息を呑むほどに美しかった。
「私たちは、情熱ではなく志で結ばれる事を望んだわ。その上で、私は両親や祖父母やその前に生きたご先祖様が獲てきた権力や財力をゲオルグのために使おうと決めた。それを知るから、ゲオルグも遠慮なんてしなかったわ。……でも、あなたは違うでしょう? クライブに利用されてもいいと口では言っていても、心は愛される事を願っているでしょう? それではね、利害は一致しないわ」
「ママ……」
「伴侶の愛情を求めない結婚生活。それがあなたの望む生き方なのなら、私は何も言わないわ。だけどね、心には心が、利害には利害がきちんと正しく釣り合わなければならないの。そうでなくては、より多くを望む者は手に入らないものに餓えて心を壊してしまう。そんな人たちを、私はこれまでたくさん見てきたわ」
 知る誰かを思い出したのだろうか。遠くを見る目でほんの少し哀しげに微笑んで、エレオノールはミッシャへと再び視線を戻す。
「私はね、ミッシャ。あなたには幸せになってほしいの。だけど幸せの形なんて、人によって本当にそれぞれだわ。人に言わせれば、私はあまり幸せじゃないらしいわ。何しろ心から愛した人とその子供を一時に失い、恋していない人と家族を作らなければならなかったんだもの。でも、ミッシャ。あなたはどう思って? 私は不幸に見えるかしら? 私は悲しい人生を送っているのかしら?」
 どこまでも穏やかなその声に、ミッシャはただ頭を横に振るしかできない。その髪にそっと触れ、何度か撫でてから、母親は娘の頭を自分の胸へと抱きよせる。
「恋するだけが幸せじゃないし、愛し合うだけが幸せでもない。もちろん、愛し、愛される日々はとても幸せで何より大切に思えるかもしれない。あなただって見てきたでしょう? 貧しくて、何も持たなくても家族を愛しているからとぼろぼろの姿でとても綺麗に笑う人たちを。それと同じくらい、裕福な暮らしをして綺麗な服や宝石で飾り立てながら笑顔の凍りついた人たち。どちらがどれだけ幸せなのかは、本人にしかわからない。だけど本人がそれを幸せだと思っているのであれば、他の誰にも文句は言えないの。――だから、私もあなたが見つけ幸せの形には文句を言うつもりはないわ」
 きっとゲオルグは盛大に文句を言うでしょうけれどね、などと不安になるような言葉を口にして、エレオノールはうふふ、と楽しげに笑う。
「あなたが確実に不幸になるとわかっている場合は、もちろん反対するけれど、そうでない限りは何も言わない。ただ、あなたの背中を押すわ」
 告げられた言葉の意味を混乱の収まらない頭でゆっくりと吟味する。それから身体を起こし、母の顔を見つめながら慎重に問いかけた。
「……ママは、私がクライブと一緒になるのには反対なの?」
「言ったでしょう? 反対はしないわ。ただ、もしもあなたがゲオの威を借るつもりなら、少し考えるかもしれないわね」
「それは、どうして?」
「あなたも気づいているのでしょう? クライブとジーナはとても深くお互いを思っているわ。そんな二人を無理やりに引き裂けば、必ず傷が残る。本人たちだけでなく、引き裂いた人間にもね。そしてその傷は中々癒える事はなく、酷ければ醜く膿んで誰もを不幸にしてしまうわ。……私たちは、ゲオルグのおかげでそうならなかったけれど……」
「パパのおかげで?」
「ええ。ゲオがね、失意のどん底にいた私を両親に見せて、彼らの頑固さが引き起こした結果をきちんと見せて反省を促してくれたの。私ははじめは現実を拒否していたし、ようやく現実が見えるようになった時には両親を酷く詰ったの。それでも両親は私を見捨てなかったし、三人でカウンセリングにかかったりもしてね、ようやく仲直りをしたのよ。そうして私がゲオルグと結婚すると決めた時には、複雑な顔をしながらも素直に祝福してくれたわ。『今度こそは幸せになってくれ』ってね」
 ふんわりと微笑むその笑顔からは、そんな過去があっただなんてこれっぽっちも思えない。母の半生はきっと幸せに満ちたものだったのだろうなんて思っていた自分はなんて馬鹿だったのだろうか。
「恋をするのはいい事よ。人を愛するのは素敵な事。だけど誰かを傷つけてまで手に入れたいのか、一度よくよく考えてごらんなさい。いつかあなたに娘が生まれて過去の恋を話す日が来た時に、胸を張って語れるかどうかを考えてみて。私は両親を怒らせても悲しませても、あの人と一緒になりたかった。だから今だってあの日々を後悔していないし、その選択をした事を誇りに思っている。私はできるなら、あなたにもそんな思い出を作ってほしいの」
 最後にもう一度するりとミッシャの髪を撫で、頬に優しくキスを落とす。母からふわりと香るのは、父が去年の母の誕生日に送った、彼女のためだけに調合された香り。その香りは、確かに労りあい、尊重しあう両親のあり方を象徴しているようにミッシャには思われた。
 いつか、あんな夫婦になりたいと思っていた。クライブと二人で、両親が作ったような暖かで穏やかな家庭を築きたいと、ずっと夢見ていた。
 視線を膝に落としたまま微動だにしない娘をしばらく見つめていたエレオノールは、そっとミッシャの手から空になったカップとソーサーを取り上げると、紅茶のセットをトレイに戻して静かに部屋を出て行った。