かぶ

Goodbye To You, My Love : Mischa - 06

「――では、失礼します」
「ああ、気をつけてな」
「はい」
 父の書斎の入り口で穏やかに微笑みぺこりと頭を下げるクライブを、ミッシャはじっと見つめる。洗練された所作で扉を閉め、振り返ったクライブは視線の先によく見知った少女がいるのを見つけ、少し困ったような顔で微笑んだ。
「やあ、ミッシャ」
「久しぶりね、クライブ」
 本当に久しぶりだった。結局あの日、ジョージーナの話を立ち聞きしてしまった日からミッシャはクライブを避け続けていたのだ。これまでクライブに会いたがっていたのはミッシャであって、クライブがミッシャに、ではない。そのため、ミッシャさえその気になれば彼とは顔を合わせるどころか声を聞く事もないのだ。
 その事実はまだミッシャの胸を深く抉る。ずたずたに引き裂かれて、傷が癒えるだなんてこれっぽっちも思えない。だけどこの心も、いつかは痛まなくなるのだろうか。思い出として語れるようになるのだろうか。
「……ジーナのところに行くの?」
 何を言おうかと考えながらこちらへと足を向けるクライブへと、静かに問いかける。ぴたりと足を止め、見開いた目でしばらく彼女を見つめていた彼は、覚悟を決めるように大きく深呼吸をしてきっぱりと頷いた。
「ああ。今から荷物を取って、そのまま空港に向かうよ。最終便だから実際に会いに行くのは明日になるけどね」
「そう」
 頷いて、言葉を探す。言葉が見つからないのはクライブも同じようで、弁論が資本とさえ言えるような政治家を目指しているくせにと、ほんの少しからかいたい気持ちが沸き起こる。
 何事かを言おうと口を開きかけたクライブを制して、ミッシャがまた先に口を開く。
「ね、クライブ。私、あなたが好きよ。あなたがパパの下で働き始めてからずっと、あなたが好きだった。私ならあなたの夢を叶える手助けをできるわ。パパの後を継いで、上院議員どころか上手くすれば大統領にだってなれるかもしれない。あなたがそれを望むなら、私、どんな事でもする。ボランティアだって、慈善運動だってなんだってするわ。政治家の妻としてあなたが誇りに思えるような女性にだってなる。だから……だからクライブ……!」
「すまない、ミッシャ。だけど僕はもう、選んでしまったんだ」
「っ――!」
 ああ、胸が痛い。引き裂かれて砕かれて、ぼろぼろの心が真っ赤な血を流している。
 その場に蹲りそうになりながらも、ぎりぎりでこらえてじっとクライブを見つめる。彼女が恋した人は、きっと自分に恋した少女の痛みに気づいてしまったのだろう。まるで自分こそが傷を受けたかのように苦しげな顔をして、それでもミッシャから視線を離さなかった。
「君に期待を持たせてしまったのは僕だ。本当にすまない事をしたと思っているよ。もしこれがジーナと出会う前なら、きっと喜んで君のプロポーズを受けていただろうと思う。それが、君に対して不誠実な真似だとわかっていても、きっと君を選んでいた。だけど……」
 ふ、と、幽かな笑みが彼の口元に浮かぶ。それだけでミッシャには十分だった。クライブがジョージーナの事を思い出しているのだと気づくには、十分すぎた。
「僕が今一番強く望むのは、上院議員の椅子でもオーバル・オフィスの椅子でもない。ジョージーナと、彼女が生んでくれるだろう僕たちの子供と過ごす日々だ。もしかするとボストンにいられないかもしれない。彼女の故郷で暮らす事になるかもしれない。まったく知らない土地に出て行くかもしれない。だけどジョージーナは決して手放さない。僕には彼女が必要なんだ」
 本当に、この人は政治家になるはずの人だったのだろうか。こんなに訥々としたスピーチなんて、ハイスクールの弁論大会にも出られそうにない。
 だけど、ああ、なんて事だろう。ミッシャは悔しいくらいあっさりと納得させられている自分に気づいてしまう。自分の方がどれほどか条件のいい結婚相手だと万言を尽くす事なんて簡単なはずだったのに、今は反論のための言葉が一つも思い浮かばなかった。
 負けは、わかっていたのだ。ただ、最後にもう一度だけ足掻きたかった。
「……もし、ジーナが戻ってこないって言ったら、どうするの?」
「その時は僕が彼女の選んだ場所に行くよ。彼女と一緒にいるためなら、どんな難関だって怖くはない」
 告げる瞳に、表情に、声に、不安も迷いも見受けられない。
 まったく本当に、なんて素敵な男性なのだろう。叶うならば、彼に愛される女性になりたかった。自分のためならばすべてを捨ててもいいと、彼にそう言ってほしかった。
 けれどクライブはジョージーナを選んだのだし、ジョージーナもきっと彼を選ぶ。たとえ一度や二度拒否されたからって諦めるような人じゃないと、今、はっきり気づいてしまった。
 不思議だ。こんなにも心は苦しいのに、胸は痛いのに、どうしてだろう。なんだか身体がすっきりとしている。
「そ……う。いいなぁ、ジーナ。あなたにそんなに思われるなんて」
「ミッシャ……」
 気遣うような表情でこちらへと手を伸ばす彼から一歩下がり、ミッシャは首を横に振る。その意味を正しく理解して、クライブはその場に留まった。
「あなたの気持ちは十分わかったわ。私の負けね。……もう、行ってちょうだい。ジーナの元へ。ちゃんと彼女を捕まえて、どうせ用意してるだろう指輪をその指に嵌めさせて、連れて帰ってきてちょうだい。そしたらちゃんと祝福してあげるわ」
「ミッシャ……」
 信じられないといわんばかりにクライブの表情が輝く。こんな素直に表情を表すような人だったかしらと胸の中で苦笑しながら、ミッシャはぴっと人差し指を一本立てる。
「ただし、一つ条件があるの」
「条件?」
 きょとんとこちらを見つめるクライブに、にっこりと笑顔を向けてミッシャは告げる。
「ええ。あなたたちの結婚式のブーケトスでは、私に向けてブーケを投げるようにジーナに伝えてほしいの。それから、そうね。ああ、やっぱり条件は二つだわ。あなたのお友達の中から私にふさわしいと思える人を恋人候補として紹介してもらうわ。この二つが私の祝福の条件よ。言っておくけれど、私の恋人はパパとママのお眼鏡に適わなきゃならないんだから、半端な人じゃ許さないわよ?」
「は……? え? ミッシャ?」
「だって私、あなたを追いかけて何年も無駄にしちゃったんだもの。それくらいしてもらわないと割に合わないんじゃないかしら」
 どうやらこれは予想外の展開だったらしく、クライブは傍目にも露なくらい慌てふためいている。そんな彼がやたらにおかしくて、ミッシャはくすくすと笑った。
 彼女の笑顔を見て混乱は落ち着かないまでも安堵したらしく、青年秘書はほんの少し身体から緊張を解く。そして柔らかに頷いた。
「わかった。約束するよ。紹介する相手についてはゲオの許可も必要だからちょっと保障は難しいけど、ブーケトスについてはなんとか説得してみせるよ」
「うーん、彼氏の紹介の方が重要なんだけど、まあ仕方ないわね。でも、絶対よ?」
「ああ。約束する」
 顔を見合わせて微笑みあう。こんな穏やかな笑顔をクライブが向けてくれるのは、いったいどれくらいぶりだろう。これまでどれくらい、自分は彼を困らせていたのだろう。悩ませていたのだろう。そんな事にも気づけなかっただなんて、自分はどれだけ盲目だったのだろう。
 ううん、今は懺悔の時じゃない。反省するのも悲しみに浸るのも、後からいくらでもできる。今はただ、クライブを彼の恋する、愛する女性の下へ、何の憂いもなく送り出す時だ。
 胸が、痛い。今も破れてじくじくと痛みを発する心が悲鳴を上げている。だけどまだ、崩れ落ちるわけにはいかない。
 ゆっくりと息を吸い、ミッシャは努めて穏やかに問いかけた。
「ね、時間は大丈夫? そろそろ行った方がいいんじゃない?」
「――ああ、うん、そうだね。それじゃあ失礼するよ」
「がんばって、ジョージーナを取り戻してね」
「もちろん。泣いて縋って土下座してでも取り戻すさ」
 不器用にウインクするクライブにもう、と笑って手を振る。ハグもキスも握手もなく、代わりにあたたかな笑顔と親しげに振られる手に同じものを返し、くるりと踵を返す彼の背中をじっと見送る。
 一度も振り返る事なく消えた背中の幻影は、聞きなれた彼の車のエンジン音が消えるまで、ずっとミッシャの網膜に留まり続けた。
 意識せず止めていた息を吐き出したとたん、緊張が緩んだのだろう、身体から力が抜けてすぐ傍の壁へともたれかかった。その衝撃で涙が一粒眦から零れ落ちる。
 ぼやける視界に大切な思い出がいくつも浮かんでは溶けていく。恋の終わりとはこういうものなのかとどこか冷静に思う。そして、吐息とともに小さく呟いた。
「さようなら、クライブ……私の、初めて愛した人……」
 そのままその場に蹲って、ミッシャは一人、声にならない慟哭を上げた。
 思い出を綺麗に洗い、磨き上げるために。
 次に会う時にはまた笑って話せるようになるために。
 そしてまた、新しい恋をはじめるために。
 今はこの哀しみと痛みと初恋の残滓を、涙で洗い流してしまおう。