かぶ

Goodbye To You, My Love : Georgena - 01

 その日の朝、ジョージーナ・ニコライが目を覚ました時、彼女はきっといつもどおりの一日が待っているのだと思っていた。
 出張から帰ってきた恋人の腕の中で熱の篭ったキスと共に目覚め、二人でゆったりと甘い朝の時間を過ごした。連れ立って出勤してからは、月末に予定されている雇い主夫妻の結婚記念日パーティについての打ち合わせで、ほとんど一日中恋人と一緒に仕事をしていた。
 この様子なら夕食はあまり遅くならないうちに摂れるかしら。
 そんなのんきな事を考えていた矢先に、その連絡を受けたのだ。
 忙しなく荷物をまとめて帰郷し、憔悴しきった父親の隣で手術室のランプが消えるのを、ドクターが出てきて母は大丈夫だと伝えてくれるのを、ひたすらに願っていた。
 日付が変わった頃になってようやく手術室のランプが消えた。手は尽くしました、と沈鬱な表情で手術を担当した医師が告げた瞬間、その場に崩れ落ちた父の顔に浮かんだ絶望は、今もまだ鮮明に残っている。だけどそれですら、その後の出来事と比べれば、実に容易く霞んでしまう。
 薄暗いICUの中、いくつものモニターから伸びるコードに繋がれた母は、思わずぞっとするほど白かった。
 それが大量の失血によるものだと頭ではわかっていても、彼女の目には生命を失った証のようにしか思えなかったのだ。
 小さな丸椅子に座り、様々なセンサーを付けられた妻の手を握り締め、神への祈りの言葉を繰り返す父の傍らで、ジョージーナはまるで夢の中にいるような、ふわふわした感覚を覚えていた。時間が止まっているのか、それとも経っているのか、そんな事さえもわからない。ただ、規則的に聞こえてくる電子音を聴覚に受け止めていた。
 ふ、と、母の目が開いている事に気づいたのはいつだろうか。思わず息を呑んで父に示すと、父は涙でぐしゃぐしゃになった顔で必死に笑おうとしていた。それを見て、苦しいだろうに微笑んだ母は、ジョージーナの目にはいつもの母として映った。
 そう、彼女は、どんな時でも夫に愛情を示す事を怠らなかった。苦しい時でも辛い時でも、彼の前では常に微笑んで、幸せなのだと全身で表現していた。
 駆けつけた医師や看護士の表情は、しかしどことなく浮かないものだった。
 話をしたがっている様子を見た看護士は、医師と短い協議の後、酸素マスクを取り外した。痛みは麻酔の効果で薄れているだろうとの言葉に、父娘二人して安堵の息を吐く。そうして微かな息の下、言葉を綴ろうとする母の声に全身全霊で聞き入った。
「心配させて、ごめんなさい」
 そんな言葉をわざわざ口にした母に、父はまたしてもくしゃりと顔を歪めて大きく首を振った。言葉を綴る事すらできないようで、ううう、と獣のように唸りながら、指の跡が残る程の強さで握り締めていた妻の手に、繰り返し繰り返し口付ける。
「ね、ダン。私ね……とても、幸せだった……。あなたに会えて、あなたと……一緒になれて」
「ネッティ……俺もだ。俺も、お前がいたからずっと幸せだった。お前と、ジーナがいてくれたから……」
「ええ、そう……ね。あなたは私を、私たちを、とても愛……して、くれたわ。私には、そんな資格なんてなかったのに……」
 ぴたりと、ジョージーナの中で何かが止まる、音がした。
 嫌だ、と、本能が叫ぶ。駄目だ、と、本能が警告する。今すぐここを出て行くか、もしくは両手で強く耳を塞げと。さもなくば、聴きたくない事を、知りたくない事を知らされるぞと。
 だけどその警告に従うなど、その時のジョージーナにはできなかった。
 これが敬愛する母の最期の言葉なのだと、同じくらい本能が強く示していた。だというのにどうして逃げ出せるだろうか。
「馬鹿な! 君は幸せになって当然だったんだ! 悪いのは優柔不断だった俺だ! 君は何も悪くない!」
「ふふ……相変わらず、優しいのね。だけど、事実は……事実、だわ。私は、あなたの愛を裏切ったのよ。あの人に、恋を……して、あなたとの間、に……築いていた、ものを、汚してしまった……わ」
「ネッティ、聞くんだ。いつも言っていただろう? 君は何も悪くない、間違えても、裏切ってもないんだ。ネッティ!」
 焦って言葉を重ねる父の頭からは、娘がすぐ隣にいる事など完全に抜け落ちているようだった。まさか、という言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡る。
「そうね。あなたは……ずっとそう、言ってくれて、たわね。だけど私は……忘れられ、なかった。あなたを愛し……ながら、も、贖罪の気持ちが……なくなる事は、なかった……わ。……ジーナが生まれた時も、育って……あの人に、ジョージに似ていく様子を見る……たびに、私は罪を……感じずには、いられ……なかった」
「そんなもの、俺は気にしちゃいなかったさ! 君は俺に、ジーナをくれたんだ! 俺の妻になって、俺の娘を産んでくれた。それだけで君は、何も負い目など感じる必要はなくなっていたんだ!」
 子供の頃から疑問には思っていたのだ。両親にはこれっぽっちも似ていない自分は本当に両親の間にできた子供なのだろうかと、一度ならず悩んだ事があった。そのたびに両親は当たり前だと娘の悩みを笑い飛ばしてくれていた。
 だけどあれは、真実ではなかったのだ。全てはジョージーナを、アネットを、家族を守るために、両親が作り上げた虚構だったのだ。
「わかって……るわ、ダン。でも、聞いてちょうだい」
 酸素を求めて大きく喘ぎ、母は苦しげに言葉を綴る。
「私、ね、しばらく……前から、私を赦して、いたの……よ。ジーナがあの人と……ジョージと、一緒に写って……る写真、を……見た時、から。……だって、何も……感じ、なかったんだもの。……やっぱり、似て……いるのね、それだけ……だった」
「ネッティ……?」
「あの時……まで、自分でも、気づいてなか……た。過去は過去……で、あの人はもはや、ただの、思い出……で、しかない……って。あなたが、その事で…… ずっと、苦しい思い……をして、いた事にも、気づいてた……のに。……本当に、ごめんなさい」
「馬鹿だな、アネット。君は何も悪くない。謝る事なんて何一つないんだ。俺は君が俺を夫に、ジーナの父親に選んでくれた時点で、許すも許さないもなくなっていたんだ。昔も今も――ずっと、君を愛しているんだから」
 父の言葉に、苦しげだった母の顔がふわりと幸せそうな笑みに変わる。
 そんな二人の様子も交わされる言葉も、目には映り耳には届いていたけれど、そのどれひとつとしてジョージーナの中ではきちんとした意味も形もなさなかった。
 母が死に瀕している、それだけでも十分すぎるほど辛い状態だというのに、どうして世界を根底からひっくり返されなければならないのだろう。目を開けたまま気絶してしまいたくなりながら、ジョージーナは心の中で一人の名を繰り返し繰り返し読んでいた。ああ、どうして彼を伴ってこなかったのだろう。請えばきっと一緒に来てくれていただろうに。そしてこの場にいて、衝撃のあまり倒れそうになっている自分をあのあたたかな力強い腕で抱きしめ、支えてくれていたはずなのに。クライブ、ああ、クライブ、どうか私を守って――!
「ジーナ、ジョージーナ! こっちに来てくれ! 母さんが呼んでるんだ!」
 切羽詰った父の呼び声に意識が現実へとシフトする。はっとしてベッドサイドに駆け寄ると、いっそう白さを増した母が、それでも娘の姿を見て喜びに微笑む。
 ああ、よかった、私はちゃんと愛されてる。そう再確認しつつ、父の手の上から母の手を握った。
「お母さん、私、ここにいるわ」
「ええ……帰って、きて……くれ、たのね。ありがとう、ジーナ」
 苦しげな顔で、それでも嬉しそうに言葉を綴る母に、ジョージーナは強く首を振る。
「やだな、当たり前じゃない。お母さんが呼んでるなら私、たとえ地球の裏側にいたって飛んで帰ってくるわ」
「そう、ね。あなたは……優しい子だ、もの」
 優しいのは母だ。そう思っても言葉にならない。話なら後でいいから今は回復に努めてと言葉が口を突きそうになる。けれど『後』なんてないのだと妙に冷静な判断が働き、ぎりぎりのところで呑み込んだ。
「ねえ、ジーナ。あなたは……間違っては、駄目……よ。クライブは、素敵な……人、だわ。きっと……あなたを、幸せに、して……くれる。……お父さんが、私を……幸せ、に、して……くれたように……」
「お母さん……」
「政治、家を、目指して……る人、だもの。きっと、大変な事も……あると思、うわ。でも、彼は手放しちゃ……駄目よ。だってあの人ほど……あなたを愛して、くれる……人、なんて、そう簡単に……見つから、ない、もの。……手放してしまえば、必ず……後悔、するわ」
「うん、うん、わかってる。私だって彼を愛しているんだもの。そう簡単に手放すものですか!」
「そう……よかった」
 呟いて、まるですべての懸念は晴れたとでも言うようにほう、と息を吐き出した。その息が消えるのを待たず、モニターが騒がしく警告音を発しはじめる。同時に、隣室にいた看護士たちがばたばたと駆け込んでくる。
 それが意味するところを理解するまでに、大した時間は必要なかった。
 下がってくださいと告げる医師を払いのけるようにして、父が母へと悲痛な声を上げる。
「……ネッティ? ネッティ、待て、待ってくれ! 行くな、頼む行かないでくれ! 愛してるんだ! 頼む、俺をおいていかないでくれ! ネッティ、頼む! 俺を一人にしないでくれ!」
「ニコライさん、下がってください! 処置ができません!」
 大柄な二人の男性看護士が力ずくで父をベッドから引き離す。けれどどこにそんな力が秘められていたのか、その二人さえも跳ね飛ばしかねない勢いで抗い、母の元へと戻ろうとする。その気持ちがわからないわけではない。母を愛しているのは自分も同じだし、いかないでほしいと願う心も同じだ。だけど今は、父を止めなければならないと、考えるよりも先に身体が動いていた。
 後ろから羽交い絞めされている父に正面から全力でしがみつく。
「お父さん、落ち着いて! 今は先生にお願いしましょう。邪魔しちゃ駄目!」
 呼びかけが届いたのか、それとも娘の存在を感じたのか、ぴたりと動きを止める。押さえつけていた相手が力を抜いた事に気づき、娘を跳ね飛ばすような真似はしないだろうと判断したのか、拘束していた看護士達が彼を解放する。それに気づいているのかいないのか、どこか亡羊と父が呟いた。
「ネッティが……俺のアネットが、逝って……しまう。手の、届かないところへ……」
「お父さん……」
「ジーナ、俺は……俺は、どうすればいい? アネットを喪って、俺はどうやって生きていけばいい?」
「っ――」
 彼女にとって、父はいつだって揺るぎない存在だった。母と自分を守り、導いてくれる強い男性だった。けれど今の彼はどうだ。ともすれば娘の存在など忘れて妻への愛情を示し続けてきた男は、その愛する相手を喪う恐怖に打ちひしがれ、怯えている。
 完璧な人間も強いだけの人間もいないと知っていたはずなのに、父がただの人間なのだと知るのは、予想以上に衝撃だった。
 彼の心からの問いに答えられる言葉を、今のジョージーナは持たない。ただ答える代わりに、自分がここにいるのだと示すため、強く強く父のかたかたと震えている身体を抱きしめた。間を置かずしてすがりつくように、痛いくらいに抱き返される。その痛みは、心の痛み同様に黙して甘受する。これが父の痛みの一部だというのならば、分け合わない理由がないではないか。だって私たちは、親子、なのだから。
 そうしてお互いを支えあうように、お互いの存在を確かめるように抱き合ってどれくらい時間が過ぎたのだろうか。一瞬だったようにも、一昼夜が過ぎたようにも思えた。まるで切り離された別の世界のように感じられていた医師や看護士の動きが収まったと気づいたのは、一体いつだろう。
「ニコライさん……」
 そっと誰かが肩に触れ、呼びかける。びくりと肩を揺らして振り返ると、哀しげな顔をした年配の女性看護士が抱き合う親娘の傍らに立っていた。
 そうして気づく。部屋が、やけにしんと静まっている事に。