かぶ

Goodbye To You, My Love : Georgena - 02

「う、そ……」
 ぽつりと漏れた言葉が父を現実へと連れ戻した。先程の自分と同じように一瞬身体を震わせ、周囲の様子を伺うように身体を硬くさせ、息を殺す。それからゆっくりと、その動きの軌跡を幻視するほどののろのろとした動きで顔を上げた。
 そこに、彼は何を見たのだろうかなど、ジョージーナは知りたくなかった。
「あ、あ……ああ」
 ぱたり、ぱたりと彼の目から大粒の雫が零れ、ジョージーナの肩へと落ちる。その熱さに火傷するかと思った。
「お、とう、さん……?」
 ぎくしゃくとさび付いたぜんまい仕掛けの人形のような動きで娘から離れた父の背中を視線だけで追いかける。ベッドの周りに散らばっている医師達が動きを止め、二人を厳粛な顔で見つめているのがやけに現実味なく感じられる。
 ぎっ、ぎっと音さえ聞こえるような動きでベッドに辿り着いた父が、遠目にもわかるほど震える手でそこにいるだろう母に触れる。
「ネッティ?」
 ああ、大丈夫だ。父がこんなにも優しく呼びかけるのなら、母はきっとすぐに目を覚ますだろう。そうして父にだけ向けられるあの甘い甘い笑みを浮かべ、なあにあなたと返すのだ。そうしてハグをして、何歳になっても気恥ずかしく思えるほどに優しい愛情に満ちた口付けを交わすのだ。
 そんな幸せな予想は、次の瞬間父が発した絶望の叫びと号泣が、修復など望めぬほど完全に打ち砕いた。

* * *

 それから一体何がどうしたのか、ジョージーナはあまりはっきりとは覚えていない。
 ただ、命を失った母の身体を掻き抱いて離れようとしなかった父に、母の死に際に引き離される事を良しとせず暴れた時に彼を押さえつけた看護士の一人が鎮静剤を注射し、力を失った身体を二人がかりで別室に運ぶのを、ジョージーナは処置室の片隅からぼんやりと眺めていた。
 なぜかはわからない。けれど、涙は不思議と出てこなかった。
 父の嘆きのあまりの深さにショックを受けたのか、感情は麻痺したようで頭もさっぱり動かない。
 すべてが夢ならいいのに。このまま眠って、今朝に――厳密には昨日の朝に戻ればいい。そうすれば彼女は愛する恋人の腕の中で、幸せな疲れを残した朝を迎える事ができる。今夜はどちらのベッドで休む事になるのかしらなんて甘い予感に浸りながら、焼いたベーグルとサラダとカプチーノの朝食を恋人と他愛のない言葉を交わしながら摂るのだ。そしてフォルトナー上院議員の邸宅に恋人の車で揃って出勤する。クライブは秘書だから上院議員を迎えに行って、それから揃って連邦議会に運転手付のリムジンで向かうのだ。それを見送ってから彼女は月末のパーティの準備のためにフォルトナー議員夫人と打ち合わせる。クライブが議員と共に戻ってくるのを待ってから、また彼の車でボストンへと戻る。その道中で今夜はどちらの部屋で過ごすのかを相談する。ディナーは外で食べてもいいし、作ってもいい。ただ、その後の経緯がどうであれ、お互いの腕の中で眠る事だけは決まっている。
 それがジョージーナの日常であり、彼女が求める全てだったのに。
 なぜ、いま、こんなところにひとりでいるのだろうか。
「ニコライさん」
 呼ばれてのろのろと視線を上げる。そこには、先程自分たちを呼んだと同じ看護士がいた。
「よければお父様のいらっしゃる部屋に移りませんか? ソファベッドもありますから、お父様と同じ部屋で眠る事もできますよ」
 言われた言葉の意味はジョージーナを素通りする。けれどとりあえず一つ頷いて、促されるままに立ち上がった。
 部屋を出る間際に母がいるはずのベッドを振り返った。けれど彼女に見れたのは、忙しく動き回って処置を施す看護士達の姿だけだった。
 父が眠るベッドの傍に置かれた丸椅子に腰を下ろし、強制された眠りの中にある父の横顔をぼんやりと見つめる。その様子が尋常でない事に気づくまでには、ほんの少し時間が必要だった。
「……ティ、ネッティ……く、な……れを……いて、逝かな、で……くれ」
「お父さん?」
 まさか目覚めているのだろうか。そう思って声をかけたものの、意識があっての事ではないと今度はすぐに気づく。
「そ、んな……」
 愕然とした。父は確か、鎮静剤を打たれていたはずだ。なのにこれは、一体どういう状況だろう。
 どう反応すべきかと戸惑っていると、ジョージーナをこの病室に案内してくれた看護士がやはり戸惑いも露に告げた。
「……実は、先程からずっとこうなんです。通常なら意識なく昏々と眠るはずなんですが……私、三十年以上看護士をしてきたけれど、こんなケースは初めてだわ」
「そう、ですか」
 機械的に言葉を返し、彼女はただじっと魘されている父を見つめる。
 二人の様子をしばらく眺めていた看護士は、自分にできる事はないと判断したのだろう、必要ならばジョージーナにも睡眠薬を処方するとだけ言い残し、病室を出て行った。
 父がこんな風になっている理由は、ジョージーナには不思議と理解できた。父の哀しみは、絶望は、それ程までに深いのだ。強制的にもたらされた漆黒の眠りすらも侵す程に、深く深く嘆いている。ただそれだけだ。
 そう結論付けてジョージーナは、そっと父の手を握った。
 大きく無骨な父の手が、ジョージーナは小さい頃から大好きだった。抱き上げたり頭を撫でたりしてくれる暖かで肉厚のこの手がとても好きだった。どちらかといえば骨ばっていて指のひょろりと長い自分の手とは大違いなのだけれど――
 ぱん、と、彼女の意識を包み込んでいた非現実の膜が弾けて消えた。
 そうだ、似ているはずがないのだ。似る事など、どんなに望んだところで不可能なのだ。
 だって自分は、父の娘ではないのだから。
 ざっと全身から血の気が引く。貧血を起こしそうになりながらも、混乱に押し流されてしまった母の最後の言葉を思い出す努力をする。
 母は、何と言っていただろうか。父を愛していたのに他の男性に恋をして過ちを犯したと、確かにそう言っていた。そして父は、ジョージーナが自分の子供ではないと知りながらも自分の娘とした。
 その行為に対する「なぜ」はなかった。父は母を愛していた。他の男の子を孕んだ程度ではその炎を消す事ができないまでに深く愛していたのだ。
 では――では、自分の父親は誰なのだろう。ああ、そうだ。確かに母はその名を口にしていた。ジョージ。それが『父』の名だ。つまり、ジョージーナというこの名前は、本当の父親から取られたのだろう。ならこの名前は誰が付けたのだろうか。母なのか、それとも……いや、まさか、そんなはずはない。父が――血が繋がらないのなら継父と呼ぶべきなのかしら?――血縁上の父親の名前を『娘』につけるなんて、そんなはずあるわけない。
 ああ、でもそんな事はどうでもいい。それよりももっと重要な事を母は言っていたはずだ。そう、たしか、何かを見たと――ああ思い出した。写真だ。ジョージーナと誰かが――誰かじゃない、ジョージーナとジョージが一緒に写っている写真を見たと、そう言っていた。
 どういう事だろう。ジョージという名前はそう珍しいものではない。これまでの人生で一体何人の『ジョージ』と出会ってきたかなど、数えるのも億劫な程にいる。その中で一緒に写真に写った人となれば一気に限られてくる。
 それに、何か母の言葉に違和感を感じていた。何だっただろう。母は言ったのだ。二人が写っている写真を見た時、と。二人が一緒にいる時、ではない。つまり、母は直接、ジョージーナとジョージーナの『父』が一緒にいる所を見たわけではないのだ。つまり彼らはジョージーナが生まれてからは、成長してからは直接は会っていないのだろうか。けれど彼女の父親となれるような年齢で、母と面識がなくて『ジョージ』の名を持つ人なんて……
「い、た……」
 たった一人だけ、該当する人が、確かに存在していた。
 心臓が恐怖と衝撃に凍りつく。
 頭の片隅で現実的な自分がそうだと決め付けるのは危険だと囁く。けれど今更否定するなどできっこなかった。
 思い返せば、真実に辿りつく為の布石はそこら中にあった。ボストンで仕事が決まったと告げた時、戸惑った顔をしながらも喜んでくれた両親は、しかし誰の下で働くのかを知った時、はっきりと顔色を変えた。その理由をジョージーナは、雇い主となる人の職業が原因なのだろうと単純に考えて納得したのだ。『政治家』という職業は万人からの尊敬と疑惑を受ける職業だ。だから彼女は、彼女の雇い主となる人がどれほど高潔な人なのか、どれほど尊敬できる人なのかを力説し、納得させた。
 けれど、両親が当惑した本当の理由はそんなものではなかったのだ。
 彼らが驚き戸惑ったのは、彼らの『娘』がそうと知らずに実の父親の下で働くと言い出したから。
 それに、そう。性格はともかく外見が両親に似てると言われた事は一度としてなかったのに、『彼』とは縁戚かと問われる程に似ていたのだ。髪の色も、目の色も、額の形も――手の、形さえも。
 どこで母と『彼』が出会ったのか、どんな風にしてそんな事になったのか、それはもはやどうでもいい。過去は過去だ。思い悩んだところで変える事はできない。
 それよりも問題なのは――
「あ、あ……」
 弾かれたようにジョージーナは立ち上がった。
 どうして気づかなかったのだろう。彼女は、ジョージーナは、いまやジョーカーに等しい存在となってしまった。
 いや、はじめからそうだった。けれどそれを知っていたのは彼女の両親――母と継父の二人だけだった。現実に立ち向かうべき当事者たちはそれを知らず、また知らされていなかった。
 だが、その気になって調べれば突き止められない事ではない。今の世の中、やろうと思えば何でもできてしまうのだ。
 ジョージーナが働きはじめたのは前回の議員選挙の後からだった。だから実際に経験したわけではないが、恋人が語ったところでは、大統領選挙に負けず劣らずの醜い中傷合戦が繰り広げられるらしい。ライバルをその地位から蹴落とすためには相手の名誉を失墜させればいい。そのために過去や現在の些細なものから重大なものまでありとあらゆる失敗やスキャンダルを全てほじくり返すのだとか。
 これまではジョージーナの存在が嗅ぎつけられなかったのは、ひとえに彼女の存在がどこの陣営にも知られていなかったからだ。
 だけど状況は変わってしまった。
 血縁ではないかと何も知らない他人から問われる程に似ている、親子程も歳の離れた娘が傍にいるのに、その関係性を敵陣営がまったく疑わずにいてくれるなんて願うのも馬鹿馬鹿しい。きっと過去は暴かれ、甚大なスキャンダルを巻き起こすだろう。特に彼女の雇い主は、これまで大きな醜聞で槍玉に挙げられた事のない数少ない政治家なのだ。きっと世間は大喜びでこのネタに飛びつくだろう。
 それに、そうだ。それだけじゃない。
 これが知れたら、彼女が傷つけるのは『彼』だけではない。『彼』の後押しを得て政界に進出したいと願っている彼女の恋人にまで影響は波及しかねない。
 『彼』の事は尊敬しているし、信頼して様々な仕事を任せてもらったという恩義だってある。だからこそ自分のせいで体面を傷つけられるのは嫌だと思う。けれどそれ以上に恋人の、クライブの足を引っ張りたくない。そんな真似をするくらいなら――
 結論に辿りつくのは実に容易かった。腹を決めるその時だけは哀しみに胸が張り裂けそうになったけれど、もともと感情は麻痺していたし、呑み込むのに苦労はしなかった。
「……電話、しないと……」
 今更に思い出す。そうだ、彼は別れ際、電話を待っていると言っていた。ちらりと壁にかけられた時計へと目を移せば、意外な事にまだ日が変わってから一時間程しか経っていなかった。
 病院内で携帯電話を使うわけにはいかないけれど、かけられる場所が皆無というわけでもないだろう。そう判断して、ジョージーナは変わらず魘されている父の額にそっと口付けを落とすと、できるだけ静かにナースステーションへと向かって歩き出した。