かぶ

Goodbye To You, My Love : Georgena - 03

 その日の朝、ジョージーナ・ニコライが目を覚ました時、きっといつもどおりの一日が――ほんの数日前のものとは異なる、新しい日常が待っているのだと思った。
 身体を目覚めさせるためにシャワーを浴びて、最低限のスキンケアだけのすっぴん顔で、ペールピンクの薄いトレーナーと履き古したジーンズに着替える。個人の部屋が集まる二階から一階に下りれば、夜明け前から起き出すのが習慣の父が作ってくれる朝食がジョージーナを待っている。メニューは大抵同じで、何らかの卵料理とベーコンかソーセージを焼いたもの、それにたっぷりのレタスとトマトを使ったサラダだ。ドレッシングはそれぞれの好みでビネガーなりオリーブオイルなり市販のドレッシングなりを選ぶ事ができる。飲み物や野菜、それにパンは、近所の個人商店からわざわざいいものを安い値段で分けに来てくれる。それもこれも、父が誠実に彼らの問題を解決してきた実績と信頼があるからだ。
 食事が終わった後は、ようやく溜まりに溜まった仕事に手を付け始めた父の手伝いをする。
 まだ仕事に完全復帰したわけではないので事務所には足を踏み入れてはいないけれど、毎朝父宛に届いた郵便物が事務所から自宅へと転送されてくる。その内容に目を通し、仕分けた上で書斎へと運ぶ。その後、父の仕事の様子を見て、手紙やメールを書いたり、書類を整えたりする。
 ボストンでの基本的な仕事の内容と変わりがないため、すんなりと慣れる事ができた。――できて、しまった。
 自分自身の適応能力の高さを誇るべきか、それとも割り切りの速さに呆れるべきかと悩みながらも淡々と日々をこなしてきた。
 母が生きていた頃から、父に週末=休日という概念はあまりなかった。いつ、何時関わった相手がどんなトラブルに巻き込まれるともしれない。だから週末は朝から事務所に行く事こそなかったけれど、呼び出しがかかればすぐにでも飛んでいった。狭い町だからこそトラブルは可能な限り未然に防ぐべきだし、起きてしまったものは速やかに、なるべく誰にも禍根が偏らない形で解決しなければならない。
 とは言っても小さな町だ。父がどれだけ母やジョージーナとの時間を大切にしているかを皆が知るからこそ、単純な用件で無茶な呼び出しを仕掛ける事はめったにない。そして万が一にも水入らずの時間を妨げる羽目になった場合は、正しく感謝と謝罪がなされる。それも父に対してだけでなく家族である母とジョージーナに対しても。
 だからこそジョージーナは生まれ故郷であるこの町が好きだった。一生をこの町で過ごすのかもしれないと思ったのは一度じゃない。けれど小さい頃に生まれた都会への憧れは強く、大学の長期休み毎に旅行に行く代わりに都会でのインターンシップを繰り返し、そうして作り上げたコネクションによってボストンでの仕事を手に入れたのだ。
 これまでは、なんだかんだ言っても自分の住まう故郷に比べれば都会という程度の規模の都市にしか行った事のなかったジョージーナは、ボストンに圧倒された。
 林立する建物や物凄い勢いで通り過ぎていく人々、夜になっても暗くならない街並み。大学を出たばかりなどという言い訳が通じるはずのないめまぐるしい日常の中で、彼女は文句の付けようがない程にすばらしい上司に、その伴侶に、そして何より生涯を願う程の相手にも出会えた。
 けれど今のジョージーナは、それらは手に届かない夢だったのだと知っている。それどころか彼女が彼らに再び近づこうとすれば、彼らの輝かしい将来を傷つけ、汚してしまいかねない。だから二度と、戻ってはならないのだ。戻るとしても、それは彼女が遣り残した事を片付けるため。それ以上を望むのは分不相応であるし、何より関わる全ての人に泥を被せてしまいかねない。
 だからこの町に戻ってくるのは、父のアシスタントとして仕事をするのは、きっと正しい事なのだ。
 一体何度目になるのか、数えるのも鬱陶しいくらい繰り返してきた言葉を頭の中でまた繰り返し、ジョージーナは部屋を出るとタウンハウスにしては広く作られた階段を下りる。あと何年かすれば父のためにこの階段も改修しなければならないかもしれない、などと甚だ無礼な事をあっさりと考えつつ、軽快な足音を立てて一階に辿りつく。いつものように朝食のいい匂いと、テレビで流されているであろうニュースの音声が届く。けれどそれに混じって、父が誰かと話しているらしい声が聞こえてきた。
「……お客さん? こんな時間に?」
 母が生きていた頃には一度としてなかった事だ。もちろん、母がいなくなってしまったからにはこんな事も増えるのかもしれないが、それにしても、母の葬儀が終わって然程経っていないこのタイミングで、家族の朝食に参加しようなどという厚顔な人はこの近所にいただろうかと、どことなく物騒な思考が浮かぶ。どうやら廊下に背を向ける形でその人は座っているらしく、細々と聞こえてくる声が誰のものなのかを判別する事ができない。ただ、男性のものらしいとだけはわかった。
 いずれにしてもドアを開け、居間に入れば全ては明らかになる。そうして見つけるだろう顔を見てから、歓迎するべきか否かを判断すればいい。
 そんな風に結論付け、小さく息を吐くとジョージーナは勢いよく居間へと続くドアを開けた。
「おはよう、お父さん。何よ、こんな時間からお客さんって、一体どこの礼儀知らず――」
 にこやかに口にした文句は、しかし父とテーブルに着いていた客人の後ろ姿を見た瞬間にあえなく霧散した。
 顔を見なくても、それが誰なのかはっきりとわかった。
 平日とは違って整えられてはいないけれど、きちんと櫛の入れられた茶色の髪。ヘンリーネックのダークグリーンのカットソーは二人で買い物に行った時にジョージーナが勧めて買ったものだ。背中はすっと伸びて椅子に凭れるような真似はしない。引き締まった腰から伸びる長い足は彼が気に入って履いているリーバイスのダークジーンズ。
 いくら一番見慣れているスーツ姿でないからといって、ジョージーナが彼を見間違えるはずがない。けれど彼の存在は、今の彼女にはあまりにも非現実的すぎた。
「……え?」
 ぽつりと漏れた戸惑いの声を耳ざとく拾ったのだろう。彼はゆっくりと振り返ってジョージーナの姿をそのこげ茶色の瞳に映すと、満面に柔らかな笑みを浮かべた。
「やあ、ジョージーナ。土曜日にしては早起きだね」
 暢気な言葉を口にしながらミルクのたっぷりと入ったグラスを持ち上げるその人から、視線が動かせない。父が作ったであろうスクランブルエッグとベーコンを突付いていたフォークをテーブルに置きながら、彼は衝撃のあまり動けずにいるジョージーナへと更に言葉を投げかける。
「そんなところで突っ立ってないで、椅子に座ったらどうだい? せっかくの朝食も冷めてしまうよ」
 いつもどおりの卒のない動作で立ち上がり、彼自身と父の間に一つだけ残されていた椅子を引く。けれどそんな姿を見てでさえ、ジョージーナは目の前で起きている現実を受け入れる事ができずにいた。
「あなた――クライブ、あなた、ここで一体、何をしているの?」
 ぱくぱくと意味もなく何度か口を開閉させた後にようやく出てきたのは、自分自身でも間抜けだと思うそんな言葉だった。それは声をかけられた当の本人――クライブにしても同様だったらしく、はは、と小さく吹き出して肩を竦めた。
「見てのとおり、君の父君が作ってくれた朝食を摂ってるよ。今現在、という意味なら、君が僕たちの間の席に座ってくれるのを待ってる。――いや、それにしてもダニエルは本当に腕のいいシェフだよね。この間のクリスマスにお呼ばれした時も思ったんだけど、法律から調理に転職した方がいいんじゃないかな」
「不特定多数のためになんざ、誰が作りたいもんか。よく言うだろう? 男を捕まえるには胃袋を掴めって。あのアドバイスは女性に対してだけじゃない。男にも同じ事が言えるんだ。料理ができると知られたら、それだけで女には困らなくなる」
「ずいぶんと意味深なアドバイスですね。それ、実体験からですか?」
「さて、どうだろうな。まあ、最低でもアネットを繋ぎ止めるには実に有効だったよ。彼女も料理が上手かったのは知ってのとおりだが、疲れていたり病気の時に作ってやると、それだけで彼女の俺を見る目が変わってね。もし君が料理をできないってのなら、今からでも遅くはない、すぐに料理教室に入るべきだな」
「一応、パスタ程度なら作れるんですけどねぇ。それじゃ足りませんか?」
「パスタか……もう少しは手の込んだものが作れた方がいいかもしれないな。あと盛り付けも覚えた方がいい。そうすりゃ手軽にロマンチックなデートをセッティングできるようになる」
「あ、それはいいですね。よし、帰ったら早速どこかにいいコースがないか調べてみますよ」
 この状況をどう捉えればいいのか、考えたくてもやたら和気藹々と言葉を交し合う二人のおかげでまともに考えられない。追求する気も怒る気も思いっきり削がれてしまい、出てくるのはため息だけだ。
「それがいい。簡単なのはイタリアンだが、スシなんか作れるようになるとちょっとしたパーティを開く時には盛り上がるんだ。うちでもよく……」
「~~っ、二人とも、いい加減にしてちょうだい!」
 強く頭を振って声を荒げると、男性二人がぴたりと動きを止める。しまったやりすぎた、と、後悔を浮かべる二人を冷ややかに見やり、ジョージーナはもう一つ大きな溜め息を吐き出すとクライブへと向き直った。
「――で、クライブ。あなた、こんなところまで何をしにきたの?」
 腰に両手を当てて、フラストレーションも露わに問いかける。意図したよりも声や語調が鋭くなってしまったが、今はそんな事を気にする余裕はなかった。
 そんなジョージーナに対するクライブの返答は、意外なほどに真剣な表情と共にもたらされた。
「ジョージーナ、君、この状況でそれを訊くのかい?」
「この状況……って、当然でしょう? だってあなた、ボストンにいなきゃいけないはずじゃない」
「今日は土曜日だよ、ジーナ。元々仕事はないし、ゲオからも許可を得た。最低でもこの週末はずっとこっちにいられるよ。まあ、月曜日の朝一番の便で戻らなければならないけれど」
「月曜日の朝一番って、議会でのミーティングはどうするの!? まさか議員に一人で行けなんて言ってないでしょうね?」
「まさか。ちゃんと代理の人員はつけている。そもそも彼の秘書は僕一人じゃない。必要な引継ぎはしてきたから、細かいところは問い合わせが入るかもしれないけれど、最大来週末までは時間があるよ」
 うっそりと、どことなく黒い笑みを浮かべる恋人――否、元恋人を見つめ、ジョージーナはとうとう声を失った。
 再びぱくぱくと無言のまま喘ぐジョージーナの耳に、父の低く笑う声が聞こえた。
「お前の負けだよ、ジーナ。今、お前が何を言ったところでクライブはてこでも動かないだろう。諦めて彼の話を聞くんだな。まずは対抗できるだけの思考力を取り戻すためにしっかりと朝食を食べる事だ」
 言いながら着席を促すようにセッティングされたグラスへとオレンジジュースが注がれる。笑いを残した目がクライブと無言でやり取りするのを見て、やはり彼らはグルなのだと改めて確信するが、今のジョージーナに成せるすべはない。それどころか、頼みもしないのに朝食のメニューを更に盛られてしまう。
 彼女自身は町生まれの町育ちだが、車でほんの数マイル走れば牧草地や農地が広がる地域に生まれ育った身だ。食べ物の大切さは嫌というほど身に沁みているため、無駄にするなんて事は絶対にできない。
 しばらくの間無言で抵抗の意を示していた彼女は、最後に深々と息を吐き出すと不機嫌さも露に自分のためにと引かれた椅子に腰を下ろし、一言も口にしないまま猛然と料理をかきこみはじめる。
 その様子を目を丸くしながら眺めていた男性二人組は、苦笑を交し合いつつ自分たちの食事へと戻ったのだった。