かぶ

Goodbye To You, My Love : Georgena - 04

 あまり平和的とはいえないものの三人揃っての朝食を終えた後、届いた書簡の束を抱えて一人で書斎へと向かう父の背中を見送ったジョージーナは、しばらく考えてから自分の部屋へとクライブを招待した。
 それがいい判断なのかどうかは正直よくわからなかった。けれど、少しでも自分が守られていると思える場所にいたかったのだ。
 彼の来訪をあらかじめ知っていたなら、もっときちんとした格好をしていたのにと口惜しくなる。
 別に格好をつけたいわけじゃない。もっとだらしのない格好だって何度も見られている。けれど彼と相対して言い負かすには、今の格好では心もとなさ過ぎる。けれど今更着替えたいから部屋を出てくれというのもなんだ。
 ボーリング・グリーンは緩やかな丘陵地を開拓して形成された町だ。そのため、町からほんの少し外れるだけで穏やかな緑が広がる光景に出会える。それはニコライ一家の住まうタウンハウスも同様で、二階にある彼女の部屋からは、人口の建物の向こうでなだらかに続く丘と森が陽光を受けて優しい緑に輝いているのがよく見える。
「いい眺めだね」
 背後からの声に無言を保ったまま頷き、ひんやりと冷たいガラスに額をあてる。
 クライブがジョージーナの部屋に入るのはこれが二回目だ。前回この家を訪れたのは去年のクリスマスで、客間を与えられていたクライブは、就寝の準備をしていた彼女の部屋を訪問したのだ。もちろん、同じフロアでは両親が眠っているのだからうかつな事はできない。それでも物心つく前から住んでいた自室に特別な誰かを招き入れるのは想像していた以上に気恥ずかしかったけれど、それを遥かに凌駕するくらい素敵な気分だった。
 大学に入りたての頃に買ってもらったお気に入りの揺り椅子に、クライブに横抱きにされるようにして腰掛けて密やかに甘い時間を過ごしたのがまるで遠い過去のように思える。
 ほんの数ヶ月の事なのに、季節だけでなく様々なものが変わってしまった。
 あの時、父の隣で幸せそうに目を細めていた母はもういない。知りたくなかった出生の真実を知ってしまったせいで、いずれは終わりが来ると知りながらも満喫していた幸せな時間を、大好きな仕事を、愛しい人を諦めなければならなくなってしまった。
 そして今、彼女にとって幸せの象徴だったこの家で、ジョージーナは恋人との終わりと直面する事になってしまった。
 気遣う声がジョージーナと呼ぶ。その声にゆっくりと自分の思考の世界から浮上した彼女は、暖かで大きな手が彼女の肩を包んでいる事に気づく。
「……訊いてもいいかい?」
「ええ」
「どうして、あんな風に別れを切り出したんだい?」
「どうしてって……言ったじゃない。他にどうしようもないんだって」
 優しい問いかけに、ジョージーナは自分自身でも説得力がなさ過ぎると心の中で苦笑する。相手は政治家の秘書で、自分自身も政治家になろうと考えている相手なのだ。少しばかりの理論武装などではあっという間に論破されてしまうだろう。ああ、だけどどうすればいいのだろう。誰も傷つけずに全てを終わらせたいとこんなに願っているのに、どうして物事はこうも思いどおりに動いてくれないんだろう。
 ふう、と、耳元の髪を苦しげなため息が揺らす。その近さに驚く暇もなく、強い腕が裏腹な優しさで彼女の身体を引き寄せると、大切な物を包み込むかのように抱きしめた。
 とっさに抗いかけたジョージーナを止めたのは、強い意志を感じさせるクライブの言葉だった。
「君は僕が簡単に君を諦めると信じ込んでいるようだけど、それはありえないよ。事情がわからない限りは君と別れたりしないし、わかったところで多少の事では君を放すつもりもない。どうしてもここに残るんだと、ボストンには戻らないというのなら――僕も一緒に残るよ」
 世界がひっくり返ったのはほんの数日前だった。なのに今、再び音を立てて氷結してしまった。
「……なんて、いったの?」
「君がここに残るなら僕も残る」
 ずっと視線を合わせるのを避けていたというのに、今はそんな事を言ってられなかった。勢いよく振り返ったジョージーナの目に映ったのはどこまでも真摯なクライブの瞳で、彼が本気であの言葉を口にしたのだと思い知らされた。
 それでも怯んでいたのはほんの束の間だった。すぐに自分を取り戻した彼女は、馬鹿な事を言い出した恋人へと、憤然と食って掛かった。
「馬鹿な事を言わないでちょうだい! そんな事、できるわけないでしょう!? あなたはゲオ――フォルトナー上院議員の筆頭秘書なのよ? 絶対に彼が許さないわ!」
「いや、そんな事はなかったよ。彼は僕の意思を実によく理解してくれて、それが僕の意思ならば辞職を受け入れる事も考慮しておくと言ってくれた」
「っ――で、でも、それじゃああなたの夢はどうなるの? ゲオのところにいたのはそのためだったのでしょう? お願いだから冷静になって、現実的に考えてちょうだい」
 反論をしていたつもりが、気がつけば懇願していた。一番避けたかったのが、クライブの夢の邪魔をする事だったのに、これでは本末転倒だ。それこそ頭から冷水――それも半ば凍りかかった――を浴びせられたような気分になる。けれどもクライブはジョージーナの同様にはまったく気づかぬ素振りで、それどころかいっそ楽しげに問いかけた。
「僕の夢、ね。……ジーナ、教えてくれないか。君の思う僕の夢って、一体何なんだい?」
「クライブ? ねえ、あなたどうしちゃったの?」
「別にどうもしてないよ。けど、ほら、ジーナ。答えてくれないか。君は、僕がどんな事を将来に夢見ていると思っているんだい?」
 やっぱり何もかもがおかしな具合に進んでいる。何一つジョージーナが思ったとおりに動いていない。その最たる存在が、今目の前にいるクライブだ。
 戸惑いはすでに混乱の域に達していた。それでも言葉を返さずにいる事はできず、彼女は半ば呆然と問うた。
「どんなって……政治家に、なるのでしょう? フォルトナー上院議員のように、国政に関わる政治家に。そのためにゲオの、フォルトナー上院議員の秘書になったのでしょう?」
 その答えは、クライブが予想していたそのものだったらしい。やっぱりね、と言いたげに小さく笑って、彼はゆっくりと首を横に振った。
「残念だけどね、ジーナ。それは、今の僕の夢じゃない。確かに以前は政治家になりたいと望んでいたけれど、すでに昔の、思い出と成り果てた夢だ」
「え……?」
 言われた言葉の意味が、よく掴めなかった。
 その戸惑いをどこか悲しげな瞳で見つめ、クライブはもう一度先程口にしたばかりの言葉を繰り返した。
「僕の夢は、政治家じゃない。すでに、違うものになってしまった。……僕はそれを、君にも話していたつもりだったんだけど、どうやら君には通じてなかったようだね」
「クライブ……?」
 ほんのりと柔らかな笑みがクライブの口元に浮かぶ。そうして彼は、ジョージーナにとってこの日最大の爆弾を落とした。
「僕の夢はね、ジョージーナ。君と、そう、他の誰でもない君と結婚して、君のご両親のような幸せな家庭を築く事なんだ」
 自分の耳がおかしくなったのかと思った。そんな思いは、きっと表情にありありと表れていたのだろう。愕然とクライブを見つめるジョージーナをどこか寂しげな瞳で見つめ、クライブはそっと苦笑混じりの息を吐き出した。
「やっぱり君は、僕がいつかは野望のために君じゃない誰か別の女性を選ぶと思っていたんだね」
 わかってはいたけれど、と続ける彼があまりにも切なげで、心がしくりと痛みを訴える。けれど今は動揺が強すぎて、どう反応するべきかがわからない。
「確かにね、君が想像しているだろうとおり、ゲオの後継者として権力や地位を磐石にするためにいずれはミッシャを妻にと考えていた事がないとは言わない。けれどずっとミッシャの事は妹のようにしか思えなかったし、何より君と出会ってからは、ミッシャだけでなく君以外の女性はみんな、本当にどうでもよくなってしまったんだ」
 ふ、と苦笑して肩を竦める彼の目はまっすぐにジョージーナだけを見つめていて、偽りの色をどんなに必死に探しても、かけらすら見つけられない。
「僕は今もゲオの事を尊敬しているし、彼の助けになりたいと思っている。だから叶うならこのまま彼の秘書を続けたい。だけどこれはあくまで僕の希望であって、君に無理強いをするつもりはないんだ。ミッシャに対して罪悪感を感じるだとかもしくは他の理由でボストンに戻りたくないというのなら他の街や州に移ればいい。ここがいいなら、ここでもいい。きっとゲオは素晴らしい推薦状を書いてくれるだろうから、僕も君も仕事に困る事はないはずだよ。だけどジーナ。君も知ってのとおり、ゲオもエレンも君をとても高く買っているし、僕としても君と同じ職場で働けるってのは正直嬉しいし楽しいと思っている。――君が何も話してくれないから、どうしてこんな突然別れや辞職を口にしたのかはわからないけれど、考え直してもらう事はできないだろうか? 一人では解決しきれない問題があるというなら、お願いだ、僕にも話してくれ。二人でなら解決できるかもしれないだろう?」
 どこまでも真っ直ぐで真摯なクライブの言葉は、ジョージーナの胸に甘く切なく響く。けれどこれは、こればかりはいくらクライブでも何とかできる類の問題ではない。苦しいほどの諦念に顔を歪め、彼女はそっと頭を横に振った。
「あなたの言葉は本当に嬉しいわ。でも……でも、駄目なの。ううん、駄目、なんじゃない。無理なの」
「無理? どうしてそう言い切るんだい?」
「だって、本当にどうしようもないんだもの。唯一の解決策は私が仕事を辞めてボストンを去る事。それだけなの」
「だからその理由を教えてほしいんだ。理由がわからなければ納得もできないし、きちんと考える事もできない。ボストンに何があるっていうんだ?」
 抑えてはいるけれど、クライブの声にじわりと苛立ちが混じる。それだけで、これ以上ごまかす事はできないとわかった。
 すいっと視線を逸らせば彼の視線がじっと自分へと当てられているのが痛い程に感じられる。見ないでほしいと心の中で切に願いながら、ジョージーナは現実を否定するかのように強く目を閉ざした。
「問題は、私にあるの」
「――え?」
「そう、私なの。私が、その問題なの。私がいる事でみんなに迷惑がかかってしまう。今ならきっと、まだ間に合うはずだから……だからボストンから、ゲオの、フォルトナー上院議員の傍から離れなければならないの」
 ゲオルグの名前を口にした瞬間、クライブの気配がはっきりと緊張するのを感じた。今度こそ苛立たしさを隠しもせず息を吐き出すと、彼は鋭く問うた。
「……最初に君が別れを告げたあの電話でも、君はゲオを理由に出した。しかもあれ以来、君は彼を名前で呼ばないようにと気を付けるようになった。彼が一体何だと言うんだ?」