かぶ

Goodbye To You, My Love : Eleonole - 01

 人生を変えるような決断というのは、実は意外と多いのかもしれない。暮れなずむ庭を二階の窓から見下ろしながら、エレオノール・フォン・フォルトナーはぼんやりと考える。
 進学先や専攻、就職先、転職や退職をするか否か、交際相手や結婚相手を誰にするか、別れるかといった事は誰の目にも明らかな「人生を左右する決断」だ。けれどもしかすると、本当に些細な決断とも言えないような決断――たとえば今夜の夕食のメニューであったり、朝起きてから着る服であったり、買い物の際に寄り道をするか否かであったり――でさえ、様々な要素と絡み合えば事を大きく変えてしまいかねないのだ。
 けれどそんな事を考えていては次の一挙手一投足にすら神経を使わなければならなくなる。そんなでは人は生きていけないから、たとえこんな考えが頭をよぎったとしても、あえて気づかなかった振りをするのだろう。
 けれど彼女が生まれ育った階級に生きる人たちはむしろ自分自身の人生ではなく、他者の人生を大きく変える決断を下す立場にある者が多い。彼らは成長する経緯でそれらの決断をためらいなく下せるようにと訓練される。
 たとえそれが、多数の命を奪うようなものであったとしても。
 幸いにもと言うべきか、エレオノール自身はそういった立場にはない。夫となった人は国政に携わる人だけれど、いわゆる“無辜の民”を憂える人が身近にいた事もあって、心は一般国民、市民に沿っている。
 そうと知っていたからこそ、彼女は彼の、ゲオルグ・フォン・フォルトナーの妻となる道を選んだのだ。
 我が半生を振り返ってみれば、実に波乱に満ちていたと思う。自ら大きな決断を下し、踏み出した足先に道が続いているのかどうかもわからない中で大きな一歩を踏み出す事もあった。彼女の古くからの知り合いには、ただただ両親の、夫の言葉に「はい」と頷くだけで何不自由ない人生を送ってきた人も少なくないというのに、なんという違いだろう。
 彼女をよく知らない大半の人々は、エレオノールを真綿で厳重に包まれて育った箱入り娘だと考える。そうして侮り、痛い目を見るのだ。
 実際のところ、彼女はそんな穏やかで全てから守られた人生を歩む事のできる家に生まれていた。一族はアメリカの高額納税者リストの比較的上位に名を連ねる面々で占められており、いわゆるハイソサエティに属する人々とは、どこかで血が繋がっているか、共通の知人がいる。
 けれどエレオノールはそんな世界を一度は捨てた。愛する人と共に生きる未来のために。

* * *

 その人もまた、エレオノールと同じ階級に生きる人だった。
 けれど目に映る欺瞞を心底疎んじ、真実を広く伝える事でより良い世界を築きたいと心底から願い、生まれ育った環境から飛び出したのだ。
 十近く年上だったから、初めて会った時にはきっともうミドルスクールに入っていただろう。
 陽光に透けるような淡い金髪と薄い眉。深い眼窩の奥にはやはり薄い蒼の瞳。輪郭はしっかりとしていて、はじめはいっそ酷薄な印象を抱いた。
 元々北欧よりの移民で、独立戦争や南北戦争で戦功を上げた軍人を数多輩出している家系に生まれたその人、アレクサンダー・ピーターセンはまだ十代前半だった当時からとてもがっしりした体格をしていて、物心がついたばかりの彼女には大人と大して変わらず映ったのを覚えている。
 実際、彼は軍人となる事を期待されていたのだ。だから記憶や写真に残る当時のアレクサンダーは、いつも軍人のように髪を刈り上げていて、ぴしっと背筋を伸ばし、堅苦しい言葉で大人と言葉を交わしていた。
 けれど一度大人の視線が届かないところに隠れてしまえば、年相応の少年でしかなかった。それもとても面倒見がよくて、当時はとても人見知りだったエレオノールの世話を熱心に焼いてくれていた。彼からすればまさに妹のような存在だったのだろう。パーティなどでは綺麗に着飾った同年代の少女たちと過ごしたかっただろうに、独占欲を丸出しにして彼の大きな手にしがみつく幼い少女をいつも優先してくれた。そのおかげで、思い出に残るパーティでのエスコート役やダンスパートナーは、両親や親族の誰かでない場合はほぼ必ずといっていいほど彼だった。
 厳つく彫りの深い顔立ちやその体格からは想像できない程に穏やかな笑顔と繊細な心遣いに、幼い少女は心を捕らわれた。恥ずかしがりやな性格から言葉にはしなかったけれど、いずれは彼の妻になるのだと心に決め、彼にふさわしい女性になるためにというその一心で、煩わしい作法やお稽古事や勉強をがんばった。そうして彼と過ごせる機会は可能な限り手に入れて、年の差など関係なく自分を見てもらおうと涙ぐましいまでの努力をしていたのだ。
 きっと何事もなく成長していたとしても、エレオノールはアレクサンダーの強力な妻候補となっていただろう。
 家柄や身分は十分すぎるほどに吊り合っていたし、家族同士も血縁がいくつかあったせいもあって親交が深かった。また、二人で共に過ごした時間はお互いを深く知るには十分だったし、自惚れるまでもなく彼は年下の少女を信用し、心を開いていた。もしかすると理解できていないだろうと思っていただけのかもしれないが、心に抱えた悩みや鬱屈を吐露する事も少なくなかった。
 年齢だけがネックではあったが、彼が軍人としてある程度の階級を得て妻を娶る事を考える頃にはエレオノールも淑女と呼ばれるにふさわしい年齢になっているはずだった。
 彼が大学を卒業し、軍隊に属するようになってからは軍務のせいで会える機会はぐんと減ったものの、こまめに手紙をやり取りし、休暇で帰ってくるたびにせっせと会いに通っていた。だからきっと、他の誰よりも早く彼女は気づいていたのだと思う。アレクサンダーが、彼の生きる世界を心底から疎んじていた事に。
 特権階級に生まれ育ちながらも、幼い少女や下層階級と呼ばれていた人たちへの心遣いを忘れなかったアレクサンダーだ。社会の構造をおぼろげながらも見透かせるようになってきた頃から世間に蔓延る矛盾をそれはそういうものであるとして飲み下せず苦しんでいた姿を見ていた。父親と声を荒げ、時には拳を振るわれつつも論争していたと噂に聞いた事もあった。
 だから彼がある日、父親と激しく言い争った末に出奔したと聞かされた時も、ああ、とうとうこうなってしまったか、としか思わなかった。
 はじめは彼がどこに消えてしまったのか知る人は誰一人としていなかった。両親や親族はともかく、親しく付き合っていた友人たちにすら、沙汰がなかったのだ。
 その消息や安否を案じて不安に苛まれつつも表面上は平静を繕っていたエレオノールの元にとある中小出版社よりその雑誌が届いたのは、彼が身の回りの品と共に姿を消してから半年以上が過ぎてからの事だった。
 差出人の名もなぜ送られてきたのかを示すメモもなく、そもそもそんな雑誌が存在する事を知らなかったエレオノールにとって、まったく意味不明な郵便物にはじめは戸惑った。けれど彼女がそれをすぐに捨てなかったのは、雑誌から僅かに覗いていたブックマークに気づいたからだ。
 なんだろうかと思って開いたページには、荒れ果てたスラムの町並みや荒んだ目をカメラに向ける老若入り混じった黒人の男たちの写真が大きく載せられていた。しかし真実彼女の目を引いたのは、ブックマークに描かれていた白いフリージアの絵だった。
 彼女が十歳になった誕生日に、アレクサンダーが初めて贈ってくれたブーケの主役を飾っていたのが白いフリージアだった。それをきっかけとしてその花は彼女の一番お気に入りの花となったのだ。それ以降も花をねだる時には必ず同じ花をリクエストした。彼もまた、理由に気づいていたのかいないのか、彼女の好きな花として定着した事で、彼女に何かを贈る時には、必ずどこかに白いフリージアを――それが絵であっても、実際の花であっても――添えてくれていたのだ。
 ブックマークに描かれた花を見た瞬間、エレオノールは呼吸を忘れるほどの衝撃を受けた。その場にしばらく立ち尽くして放心したようになっていた彼女は、我に返るとその特集ページを隅から隅まで読んだ。
 その名前を見つけた時、エレオノールは生まれて初めて心から神に感謝した。
 アレックス・ピーターソンと僅かに形を変えて記載されていたそれは、確かに彼女が恋し焦がれ、その行方を知りたいと切望していた彼の人だった。