かぶ

Goodbye To You, My Love : Eleonole - 04

 軽く肩を竦める夫の言葉をエレオノールは胸の内で静かに肯定する。あったのだ、彼女には。彼が知らない大きな事情が。
 問題なのは、彼女がその事情の原因がどこに――誰にあるのかを知っていたか否か、だ。
 当時、彼女には彼女が抱えた問題の解決を、それも即座につける事ができる相手がいた。そんな事が起きても不思議ではないと周囲がすんなりと納得するような。それはつまり、彼女には心当たりとなる相手がゲオルグ以外にもいたという事になる。
 この事も、エレオノールに事実を話し辛くさせる一因だ。
 実際にその相手に会った事はないから、彼女がその女性について知っているのは全てが伝聞だ。
 それらを統合して浮かぶのは世間知らずな、真綿のような愛情に包まれて育った少女の像だ。確かな愛情を注いでくれる男性がいるというのに、初めて飛び出した外の世界で出会ったちやほやしてくれる相手に恋をして、考えなしに身を任せてしまうような。その挙句、生じた問題に戸惑い怯えたあげく、一度は裏切った故郷の恋人の下へと逃げ帰った。
 都会の恋人に、困惑と傷を残して。
 もちろん、彼女だけが悪かったわけじゃないのだろう。田舎から出てきたばかりの少女を思いどおりに動かす程度の手管なら、ゲオルグだって持っていて当然だ。それこそ故郷に恋人を残していようと、その存在を忘れさせるだけの男ぶりや魅力を、彼は備えている。
 女として、理解できないわけではない。恋人からも故郷からも離れて寂しく感じているところへゲオルグのような男性が現れ、熱心に口説いてくれたのなら、きっと心は揺れる。そうして少女らしい愚かさ故に、過ちを犯してしまったのだろう。
 それだけならば、まったく問題はない。故郷に残してきた恋人の事を忘れて都会で出会った男性との恋に溺れるのも彼女の自由だ。
 エレオノールにとってどうしても理解できず、また受け入れられないのは、なぜ彼女がゲオルグに妊娠の事実を告げなかったのか、娘が実父の下で働く事になった時でさえ隠し通そうとしたのかというこの二点だ。
 彼女は――そんなにも、ゲオルグを信頼できなかったのだろうか?
 エレオノールの知るゲオルグならば、結婚という結果を選びはしなかったとしても、父親としての義務は果たしたはずだ。たとえ彼女が他の男性と共に生きる道を選び取っていたとしても。
 そこまで考えて、エレオノールはじっと彼女の反応を待っている夫へと改めて視線を向けた。
「ねえ、ゲオ。正直に答えてほしいの。あなたはどれだけ彼女の事を好きだった?」
「……どれだけ、か。それこそ正直に答えると、もうほとんど覚えてないんだ。たしかに、あんな突然に置き去りにされて驚いたし、戸惑いだって大きかったよ。けれど初めから終わらせる事が前提の関係だった事もあって、深入りしすぎないようにとお互い気をつけていたからか、思い出になるのも早かった。――今、振り返って思うのは、どうせならきちんと別れの挨拶くらいはしてほしかった、というぐらいかな」
 まあ、どこか幼い女性だったから、それができなかったのかもしれないけれど。そう苦笑する夫に、エレオノールの心は更に揺らぎを深める。なにか判断を下すきっかけになる材料がほしくて、彼女は更に掘り下げた問いを投げかける。
「ねえ、たとえばの話だけれど、彼女には故郷に置いてきた恋人がいて、その恋人に呼び戻された、とかいう可能性はなかったの?」
「恋人だって? アニーに?」
「ええ。彼女だって大学生にもなっていたんだもの。その可能性がなかったわけじゃないでしょう?」
「……いや、なかったよ。彼女は二股を掛けるなんて事のできる性格じゃなかったし、そもそも……その、だね」
 薄っすらと頬に血の気を上らせたゲオルグは、気まずく咳払いをしつつも続けた。
「僕が、彼女にとって……その、初めての男性、ってやつだったんだ」
 ぴしりと、何かが頭の中で音を立てる。今にも決壊しそうな理性の堤を必死で押し留めつつも、エレオノールは確認せずにはいられなかった。
「それは、確かなの? 間違いではなくて?」
「エレン? どうしたんだい? なぜそんな事を訊くんだ?」
 さすがに不振な表情になるゲオルグに、エレオノールは自分の表情が強張っているのを自覚しつつも返答を要求する。
「ごめんなさい、だけどこれはとても大切な事なの。お願いだからきちんと答えて。彼女は、あなたの他に男性と関係を持った事はなかったのね?」
「君が言うのが、性交渉を持つ、という事であれば、なかったと言い切れる。それに近い事はあったかもしれないが、純潔を奪ったのは間違いなく僕だ」
 怒りに沸騰しかけていた頭が、急速に凍える。
 では、彼女はわかっていたのか。その胎内に根付いた生命がゲオルグの子であると知りながら、故郷で彼女を待っていた恋人と結婚したというのか。
 もしも彼女が不確かであったというのなら、まだ情状酌量の余地はあっただろう。けれど今となっては、彼女に確信があったとわかってしまった今となっては。
「――ねえ、ゲオルグ。もう一つ訊いてもいいかしら」
「ああ、構わない」
 こちらの緊張を敏感に察したのだろう。何を訊かれるのだろうかと身構えつつも、ゲオルグはゆっくりと首肯した。
「あなたはジョージーナのお母様が、あなたの『アニー』だと気づいていたのかしら?」
 声を出す事すらできず、呆然と目を瞠る夫の動揺っぷりに、その答えが否なのだと知る。
 そして、たった今与えられた事実によるショックから素早く脱却した彼が、行き着いて当然の思考へとすぐに辿りつくだろう事も、容易く想像がついた。
 動揺に揺れていた色の薄い瞳が疑問に陰り、確信を得るにつれ強い光を宿すのを見つめながら、エレオノールはそっと夫に呼びかける。
「ゲオルグ……」
「……そういう、事だったのか? だから彼女は……だから君は、確認したかった?」
「ええ」
「いつから、君は気づいていたんだ?」
 揺ぎない声で問いかける夫の様子に怒りの色は見えない。それでもあまりに長く隠してきていた事が心苦しくて、エレオノールは罪悪感に捕らわれながらも言葉を返す。
「――ジョージーナの写真と身上書にあった彼女のお母様の名前を見た時に、ふと思い出したの。あなたのアニーの存在を。簡単な計算をして、年齢が合う事に気づいたわ。だから彼女のご両親の経歴についての再調査を依頼して……確信したの」
「だけど僕には告げなかった」
「その必要はないと思ったの。ジーナ自身も知らされていないようだったし、あなたも彼女もほんの少しも疑いを持っている様子はなかったんだもの。もちろんスキャンダルの可能性も考えたわ。だけど彼女の存在が公になった時に私たちの手の届かないところにいられるよりは、身近にいて共に対策を練る事のできる位置にいる方がいいと、そう判断したの」
 鋭い瞳に串刺しにされ、エレオノールは居心地悪く身じろぎをする。これまでゲオルグは彼女の意思を、判断を全面的に信頼してくれていた。その信頼を、彼女は裏切ってしまった事になるのだろうか。そう考えると、不意に不安という名の黒雲が心を一気に支配する。
 とても長く感じられた沈黙の後、酷く苦く吐き出されたため息に、エレオノールは意図せず肩を震わせた。
「――すまない、君を責めるつもりはなかったんだ」
 苦笑混じりの夫の声に、エレオノールはぱっと顔を上げる。やれやれ、と言いそうな顔でこちらを見つめる彼の瞳には、確かに若干傷ついた色が見えるものの、怒りは見えない。
「教えてもらえなかったのは、確かに多少どころでなくショックだったよ。だけど君の判断は、きっと間違ってなかった。もしこの事をもっと以前から知っていたなら、僕は今までのように彼女に接する事はできなかっただろう。きっとすぐにボロを出して、最悪の状況を作り出していただろう」
「そんな……あなたなら、きっと卒なく切り抜けられたわ」
「まさか。僕はそこまで腹芸に秀でてない。四六時中気を張るような真似は本当に苦手だって、君も知っているだろう?」
 穏やかに微笑むゲオルグに問われ、思わず素直に頷いてしまう。ゲオルグは、アレックスの事がなければきっと政治の世界になんて足を踏み入れたりなんかしなかったはずだ。大学では政治を専攻していたと聞くが、それもあくまで学問として研究するのが目的であって、自らが政治家になりたいと思っての事ではなかった。大学院を出た後は家族からの強い要請があったため家業の手伝いなどしていたが、本当は研究室に残りたかったらしい。
 けれどその経歴が思わぬところで功を奏するなど、誰に予想できただろう?
 もちろん彼自身の才覚やカリスマも大いに貢献してはいたし、そのバックグラウンドも基盤を作り上げるに寄与したのだろう。けれど政治の仕組みをよく知り、また生まれ育った環境が環境だったため、いざ政治の世界へと足を踏み入れた時、ゲオルグは恐ろしいほど効率よく辿るべき道を選び、上るべき階段を上った。
 だが、それだからこそ彼が苦労していたのも知っている。どちらかといえばアレックスと同じで奇麗事だけではすまない社会をよく思っていなかった彼にとって、それこそ汚泥に満ちた政治の世界は実に生き苦しい世界だったのだ。
「でも、それならこれからどうするの? もし私の懸念が当たっていて、それが原因でジョージーナが辞職を願い出ているというのなら、お互いによほどの覚悟をしない限りは彼女を引き止められないと思うわ」
「それ以前にクライブの問題がある。あいつにはジーナを手放すつもりなんかさらさらない。彼女がトラブルを起こしたくないからと身を引くつもりでいるのなら、僕の秘書であるクライブの元にも残れないと言うだろう。だけどあいつに彼女を手放す気などさらさらないのは周知の事実。となれば僕は、有能なパーソナルアシスタントだけでなく、右腕すらももぎ取られる事になる」
「でも、なら、あなたはどうしたいの?」
 渋い顔になる夫の足元に膝を突き、その顔を見上げる。膝の上で握られた手が、彼の葛藤をはっきりと表していた。
「……わからない。いや、クライブの事は簡単には手放したくないとはっきり言える。何しろあいつは僕が育てたようなものだからね。けれどジョージーナについては……正直なところ、僕はまだ、彼女が自分の娘だという事実を受け入れきれてない。酷い言い方になるが、いっそそんな事実などなければとすら思っている」
「ゲオ」
「ああ、そんな顔をしないでおくれ。ただ……少しばかり、時間をくれないか? 今は混乱してしまって、何をどう考えればいいのか、そんな事さえもわからないんだ」
 弱々しく微笑んだゲオルグは、ゆっくりと解いた拳を持ち上げる。大きな手が彼の顔を覆い隠すその刹那、エレオノールは夫の顔が苦渋に満たされているのをはっきりと目にしていた。
「僕は、一体どうすればいいんだろう? 何をどうすれば、どうしていればよかったんだろう……」
「ゲオルグ、あなた」
 考えるより先に身体が動いていた。見えない何かから庇うように彼の大きな身体を精一杯抱きしめる。エレン、と低く、まるで呻くように呟いて縋ってくる彼がどうしようもなく哀しかった。
 こんな風に傷つけるつもりじゃなかった。苦しめるつもりでは、なかったのに――
 今更口になどできないごめんなさいという言葉を胸に封じ込めたまま、泣く事も怒りを露にする事もできずにいる夫を、彼女はただじっと抱きしめていた。