かぶ

Goodbye To You, My Love : Eleonole - 06

 週明けのため、大学のあるボストン市内へと戻ったミッシャを欠いた夫婦二人きりの夕食の席は、いつになく沈黙の続くものとなった。
 けれどそれは重苦しいものというよりは、ぴりぴりとした緊張感と、この後に訪れるであろう時間を考えての落ち着かないもので、せっかくの料理も味など全然覚えていない。ゲオルグも同じような状況だった事は、食器を片付ける際にかけられた控えめな謝罪の言葉で知った。
 残っている仕事があるからと書斎に戻ったゲオルグを少しばかり恨めしげなため息で送り、二人が来た時のための準備に取り掛かる。
 これが日中であれば手伝ってくれる人もいるのだけれど、夕食前には返してしまう。だから夕食の後の片付けやお茶の準備などは基本的に必要となった本人がする。今では娘も母親の感覚を理解するようになったものの、ミッシャなどは幼い頃、どうしてそんなに手伝いの人たちを早く返してしまうのかと文句を言っていたりもしたが、使用人に囲まれず、こまごまと家族のために世話を焼く生活に慣れてしまったエレオノールにとって、誰かが傍で手を出す瞬間を待ち構えているという状況はストレスにしかならない。
 特にこんな、落ち着こうにも落ち着けない時間は何かと手を使い、身体を動かしていないと
 とは言っても大してする事があるわけでもない。お茶とお茶請け、それから必要になったときのために、お茶より少し強めのもの。ほんの少し考えて、コーヒーもすぐに準備できるようにしておく。そうするうちに夕食の食器が洗われたので、食器棚へと戻す。
 八時半を少し過ぎた頃、落ち着きなく雑誌を捲っていたエレオノールの耳に来客のチャイムが届いた。
 ゆっくりと深呼吸をしてから立ち上がる。お客様を迎える準備は万端だ。
 ダイニングを出て玄関ホールへと向かう途中で、ゲオルグの書斎が開かれる音がした。
「エレン」
「ええ」
 視線と短いやり取りだけで会話を終え、二人は揃って玄関の前に立つ。もう一度ゆっくりと息を吸い込んで、エレオノールは重厚なマホガニーの扉を開く。
「お帰りなさい、二人とも。疲れたのではなくて?」
 すんなりと出てきた言葉に内心でほっと安堵の息を吐く。クライブに守られるように肩を抱かれていたジョージーナの顔がくしゃりと、今にも泣きそうな笑顔に崩れるのを見て、ああ、やはり知ってしまったのだと直感した。
「そこまで疲れてはいませんよ。空港まではダニエルが送ってくれましたし、夕食までには時間が少しあったので仮眠を取りましたから」
「お前は疲れてないかもしれないが、ジョージーナもそうとは限らないだろう? お前と違って強行軍な移動にはそんなに慣れてないんだ」
 筆頭秘書の青年を軽く睨み、ゲオルグが改めてジョージーナへと向き直る。そうして穏やかに微笑むと、柔らかに告げた。
「お帰り、ジーナ。エレンのお茶が君たちを待っているよ」
 場所を居間へと移し、準備していたお茶とお茶請けをティーテーブルにセットすると、もう他に出来る事はなくなってしまう。ゆっくりと息を吐きながら夫の隣へと腰を下ろし、淹れたばかりのお茶を一口啜った。
 ふわりと口の中に広がる芳香はダージリン。少し濃い目のそれは、エレオノールの胸に燻る黒いもやを束の間とはいえ追い払ってくれる。
 喪中だからだろう、いつもは意図的にパステルカラーの服を着ているジョージーナだが、今日は装飾のほとんどないごくごくシンプルなプリンセスラインの黒いワンピースを身に着けている。いつもはフォーマルな席で身に着けている彼女だが、今日はきっと、喪中だからこその選択だろう。そのすぐ隣に腰を下ろし、時折気遣う視線を恋人へと向けるクライブはグレーのシャツにアイボリーのニットを重ね、黒に近い濃灰色のコットンパンツという、カジュアルながらも落ち着いた服装だ。元々あまり浮ついた格好をする青年ではないが、やはりジョージーナに合わせているのだろう。
 それぞれに紅茶やお茶請けのクッキーなどを楽しんだ後、はじめに口火を切ったのはジョージーナだった。
「――まずは、突然の休暇をいただいたお礼と、丁寧な弔辞のメッセージへのお礼を言わせてください」
「いや、どちらも当然の事だよ。雇用主としても、友人としてもね」
「それでも本当にありがとうございました。それから――辞職の、件についても。何もご相談せずに決めてしまって……」
「ジーナ」
 柔らかな声で迷いつつ言葉を綴るジョージーナをクライブが止める。不安を目元に浮かべる恋人の手を優しく握り、大丈夫だというように頷いて見せた。ほんの少し表情を緩めたものの、次に続けるべき言葉を見失ってしまった彼女へと、エレオノールは意を決して問いかけた。
「ねえ、ジーナ。どうして突然辞めるなんて言い出したのか、聞かせてもらってもいいかしら」
 びくりと、目にも明らかに肩が揺れる。泣きそうな顔でこちらを――ゲオルグを見つめた後、ジョージーナはそっと目を伏せた。僅かな沈黙の後、何かを覚悟するようにきゅっと目を硬く閉じ、困ったような笑みを浮かべて口を開く。
「――母を失った喪失感で混乱してしまいました、では許していただけないのでしょうね」
「当たり前だよ。私たちは驚倒させられたし、そこにいるサットン青年に至っては、ショックのあまり完全に憔悴してしまったんだからね。……まあ、君たちの間では解決しているのかもしれないが、やはり関係者としてはきちんと説明してもらいたいと思うね」
 大げさな表現を使いつつも軽い調子でゲオルグが答える。こういうところが夫は上手いと思う。硬く閉ざされた口や心を開くために言葉をどう使えばいいのかを彼は本能的に知っていて、必要な場で適切に使える。場の空気をあっさりと変えてしまえるのも才能の一つだろう。
「ええ、確かにそうですね。ただ……どうにも、切り出しにくい事でして」
 苦笑を深めるジョージーナはカップに残っていたお茶をもう一口啜り、ゆっくりと息を吐き出した。
「母が亡くなる直前に、知らされたんです。私は……父の実の娘ではないと」
 はっと、すぐそばで息を呑む音がした。先日の会話で認識はしていたはずなのに、やはり他人から聞かされるのと実際に本人の口から聞くのとでは重さが異なるのだろう。
 自然になるよう細心の注意を払って視線をジョージーナへと戻せば、彼女は不安をその色の薄い瞳に浮かべながら、雇い主夫妻を――実父とその妻であるエレオノールを、ひたと見つめていた。
「母に、そのつもりはなかったんだと思います。彼女は父に、彼女の愛情が真実のものだったと伝えたかっただけのようでした。ですがその懺悔を交えた愛の言葉の中に、私の実父に当たる人を示す言葉が含まれていました」
 淡々と語られる言葉に感情の色はまったく見えなかった。きっとまだ完全には整理がついていないのだろう。それでも語るべき事を語るべく言葉を尽くしているのが、痛々しいほど目に見えていた。
「成長した私とその人が写っている写真を見た時、大した感慨を得なかったと。だから父の想いを知りながら他の人に恋をしてしまった自分を赦す事が出来たと、そう言っていました」
「あなたは……知ってしまったのね。お母様がお父様以外に恋をした男性が誰なのか」
「……はい。はじめは、すぐには気づけませんでした。父が、実の父ではないというその事実にまず混乱していたので。ですが、私の身近にいて、成長してから一緒に写真を撮って母に見せた父親になりうる年齢の男性の中で『ジョージ』という名前を持ちえる人は、そんなに多くいません。中でも似ている、と言える人は……」
「そこまで条件が限定されてしまっては、確かに多くはいないでしょうね」
 申し訳ないとは思うけれど、呆れ混じりにため息を吐く以外、エレオノールに出来る事はなかった。どうやら危急に際して考えなしな言動をとってしまうところは二十数年を経ても変わらなかったらしい。とはいえ、さすがに状況を鑑みれば、一概に彼女のうかつさを責める事もできまい。
「正直なところ、フォルトナー議員の他に候補が見つかりませんでした」
 苦笑と共に頷いてちらりとこちらを見たジョージーナは、やっぱりとでも言いたげな表情で問いかけた。
「ご存知だったんですね、エレン。それも、初めて会う前から?」