かぶ

Goodbye To You, My Love : Epilogue - 03

(この人がほんの数十分前までメイプルタルトを美味しそうな顔で頬張っていたなんて、きっと誰に言っても信じないでしょうね)
 到着し始めたゲストを迎える夫の横顔を見つめながら、エレオノールは心の中でこっそりと笑う。
 ゲオルグをよく知っている人ならともかく、公の場でしか顔を合わせないような人々は、彼が長年培ってきた重厚で成熟した雰囲気を持つ政治家ながら気さくでユーモアがある人物であると信じて疑わない。
 もちろんそれも彼の一面ではあるけれど、家族や友人の前でのゲオルグは年々無邪気さを増してきているように思える。それが顕著になったのはジョージーナとの一件があってからだ。
(――いいえ、違うわね。政治家になるために被った仮面を、少しずつ外しつつあるんだわ)
 アレックスの死を期に将来の道を決めたゲオルグには、政治家として大成するために巨大な猫と誰にも剥がされない仮面を被る必要があった。目指した高みは未だ遠いけれど、それでも一歩ずつ着実に歩みを進めた結果、アレックスが望み、ゲオルグが実現を願った世界は緩やかに現実に反映されてきている。
 そうする間にいつしか仮面だったはずのものがゲオルグの本質と融合し、無理やり取り繕わなくても自然な振る舞いに表れるようになった。そして彼本来の茶目っ気や子供っぽい気質も、大人物ならではの奇矯さの一つとして受け入れられている。
「やあ、ゲオ。本日はお招きいただけて嬉しいよ。エレンもこうして会うのは久しぶりだね?」
 夫には負けるけれどそれでも十分すぎるほど長身の男性が、にこやかに手を差し出してくる。その大きな手をそっと握り返し、エレオノールは優雅に会釈した。
「お久しぶりね、ランド。CEOの座を秘蔵っ子に譲って以来めっきりニューヨークに引きこもっていると聞いていたから、本当に来ていただけるのかしらってゲオと賭けていたのよ」
 エレン! と叫んで天を仰ぐゲオルグをあっさりと無視し、夫の悪友でもあるランドルフ・モーガンヒルは楽しげな笑みを浮かべる。
「それはそれは。――で、どちらが勝ったんですか?」
「もちろん私よ。ゲオってば、あなたは何があっても家族を置いては出かけないと言い張ってたの。私もそれは真実だと思っていたのだけれど……訊いてもいいかしら? 何があなたをボストンに来させたのか」
 声を潜め、内緒話を装って問いかければ、意外と悪戯好きなモーガンヒル・グループのオーナーはその大きな身体を屈めて周囲にはぎりぎり聞こえる大きさの声で秘密をばらした。
「実を言うと、今日来る事は少しどころでなく悩んだんだ。けれど息子のガールフレンドが元々ボストン出身でね。この週末を利用して母親の元を訪れると聞いたとたん、息子がボストンに来たいと大騒ぎを始めたんだ。だが、そうなるとうちの天使の世話をする人間がいなくなる。幸い将来の義理の娘は未来の義妹を可愛がってくれているから、いずれ起きるであろう現実の訓練を二人には積んでもらう事にして、家族そろってこちらにきたんだ」
 実に回りくどい言い回しではあるが、結局のところはガールフレンドに会いに行きたいと騒いだ息子に愛娘の世話を押し付けたというわけだ。
「ランド……言いたい事は通じるが、その隠喩だらけの喋り方はもう少しなんとかならないのか?」
「最終的に意味が通じさえすれば言葉は問わないというのが政治家流だと思っていたんだが、違っていたかな?」
「それは詭弁を弄し、相手を煙に巻く必要がある時にのみ使う手段だ。今は必要ないだろうが」
 さらりとボーダーぎりぎりの発言をかましつつ、ゲオルグはランドルフの後ろでくすくすと笑って二人の様子を見ていたマデリーンへと手を差し出す。
「やあ、マデリーン。こうして会うのはしばらくぶりだが、この悪童の手綱は大丈夫かね?」
「お久しぶりです、ゲオ。この人の手綱なら、私がたまには自由にしてあげようとしても『ちゃんと握っててくれ!』と逆に押し付けてくる有様ですの」
 困った人です、と妻が苦笑すれば、夫はとたんに真剣な顔になって切々と訴え始めた。
「当たり前だ、マディ。俺は君以外に手綱を預けるつもりもないし、君に俺以外の手綱を握らせるつもりもないんだからね」
「だけどアマデオとアンジェの世話ぐらいはさせてくれてもいいんじゃない?」
「ふん、ジュニアはもう十分自分の世話ができるし、ロビンだっている。アンジェもあの二人が将来の予行演習として十分すぎるほど世話をしているから君があれこれ手出しをする必要はない」
「……ね、酷い有様でしょう?」
 手の施しようがないとばかり肩を竦めるマデリーンに、ゲオルグとエレオノールは揃ってため息を吐き出した。
「つくづく、君がCEOの座を退いたのは正解だったと思うよ」
「このためにさっさと後継者を見つけて完璧に育て上げましたからね」
「――ケネスに甚く同情するよ」
「あいつにはこれくらいでちょうどいいんですよ。俺とは違って美人な秘書も付いてる事だし、文句などないに決まっている。――そうだろう、マデリーン?」
「もう、勝手にしてちょうだい」
 呆れ果てたと言わんばかりの口調ながらもその表情は柔らかい。きっとこれが彼らの愛情表現なのだろう。
 ほんの少し、羨ましいと思う。
 アレックスとはこんな風に成熟した関係を築けるようになるその前に別れが来てしまった。
 ゲオルグと上手くいっていないわけではない。家族として愛しているし、尊敬も尊重もしている。だけど夫を男性として愛しているのかと問われれば正直に首を横に振るしかできない。エレオノールの中にはアレックスが変わらず存在しているし、ゲオルグにとってもエレオノールは自分の妻である前にアレックスの妻だった女性という立ち位置が確立してしまっている。
 政治家という道を選ぶためにエレオノールと結婚したせいで、ゲオルグのために用意されていた運命の出会いは立たれてしまったのかもしれないと一度ならず考えた。それ故に、もしゲオルグに心から愛する誰かが現れたのであれば、そちらを選んでもらっても構わないと真剣に考えていた。それはもしかしたらジョージーナを身篭ったアネットだったかもしれないし、それ以外の彼がエレオノールと結婚する前に付き合っていた女性たちの誰かだったのかもしれない。
 けれど夫は彼女がそんな話を持ちかけるたび困った顔になって言うのだ。
『だけどエレン。僕は現状にまったく不満はないんだ。もちろん実際に出会ってしまえば話は別かもしれないが、この居心地のいい人間関係からあえて脱却しようとは思わないよ』
 唯一の問題はといえば、ゲオルグにとっての『居心地のいい関係』にはジョージーナとクライブが不可欠という点だ。おかげでゲオルグは、まるで駄々っ子のように二人を少しでも自分のそばに引き戻そうと無駄な努力を続けている。
 親しい者同士の会話は誰かが打ち切らない限り延々と話題の芽を見つけては育ててしまう。特にこの二人は根底が似通っているせいで放っておいたら何時間でもこんなやり取りを続け兼ねない。
 仕方のない夫を持ってしまった妻同士で目配せによる談合を開いた結果、今回はエレオノールがその役を仰せ付かる事になった。
「――あなた。それにランド、積もる話があるのはわかるけれど、そろそろ次のお客様がいらしてるわ。ランド、マデリーン、どうぞ奥へ進んでちょうだい。ジョージーナの手によるとても素敵なガーデンパーティがあなたたちを待っているわ」
「ああ、そう言えばそうだった。今日はゲオの相手をしに来たわけじゃなかったんだ」
「私だって君の相手をするためだけにここに立ってるわけじゃない。さあ、とっとと行きたまえ! ――ああ、マデリーン。君なら何時間でも私の隣にいてくれて構わないよ?」
「俺が構う!」
 あざとい程に男性的な笑みを浮かべたところで傍らの夫に愛情の全てを託しているマデリーンには何の効果も及ぼさない。そんな事など十分すぎるほど承知しているはずなのに、ランドルフは間髪いれず反駁する。もちろんわざと作った険しい顔もそのままに妻へと振り返ると彼女の細い腰をするりと抱き寄せ、パーティ会場である庭へと誘導していった。
 本当に、なんて素敵な二人なのだろう。
 ここまで周囲の目もはばからずに愛情を見せ付けられては、嫉妬をするのも馬鹿馬鹿しくなってしまう。
「まったく、あの男があんな風になるとはね……」
「ええ、本当に」
 やれやれと首を振る夫に素直に首肯すれば、ほんの少し考える顔になった。
「あなた?」
「――君も、ああいった夫婦関係がほしいと思うかい?」
「え……?」
 そんな事を訊かれるのは初めてだ。心底から驚いて呆然とゲオルグを見つめると、どこかほっとしたように笑いを漏らした。
「いや、最近のミシェルはモーガンヒル夫妻のような夫婦関係を結べる相手というのが理想らしくてね。だが、どうやら君はそんな風には考えていなかったようだ」
「だって……私たちは違うもの」
 他にぴたりと来る言葉が見つからず、逡巡を残しながら返す。
「うん、僕もそう思っていた。だから今、君が羨ましそうに彼らを見つめているのを見て、もしかして僕は考え違いをしていたのだろうかと不安になってしまってね」
 穏やかに微笑んで、ゲオルグはエレオノールをじっと見つめた。
「君は以前から僕に愛する人ができたのならその人を選んでもいいといい続けているけれど、それは君も同じなんだよ。もし君が愛し愛されたいと思う相手を見出して、その想いが成就するのであれば、心のままに生きてほしい。子供たちももうきちんと理解できる年齢になっているし、僕の事も、アレックスの事も枷にはしないでほしいんだ」
「そんな、枷になんてしてないわ!」
 いつゲストが来るとも知れない場所でこんな会話をするべきじゃない。
 それはわかっていたけれど、さすがにこの言葉だけは聞き捨てならなかった。
「私はアレックスを愛していた。今でもまだ愛してるわ。きっと一生あの人を愛し続ける。だけどそれとこれは別よ。私はあなたの事も子供たちもちゃんと愛しているの。確かにあなたを恋人のようにはどうしても愛せなかったわ。だけどはじめからあなたはアレックスの遺志を継ぐ人で、家族として、夫として尊敬と信頼に値する人だもの。無理も後悔も、一瞬足りとしたことはないわ!」
 自分らしくないと思いながらも声をあげ、きっぱりと宣言した。
「私もあなたも人間なのだから、いつか別の誰かを愛するかもしれない。その時はきっと正直に話すわ。あなたも私にそうしてくれると信じてる」
 もしかすると初めてかもしれない妻の激昂に一瞬だけ呆気に取られた顔になる。けれど程なくいつもの穏やかな笑みを取り戻し、ゲオルグはエレオノールを優しく抱き寄せた。
「おかしな事を言ってしまってすまない」
「今回は赦してさしあげます。でも……次はひっぱきますからね!」
 まだ燻っている怒りを声に乗せて告げれば、自分を抱きしめる夫が大げさにぶるりと震えた。
 けれど怯えてなどいない事は、その低く深い笑みが響いてきた事からありありとわかる。
 メイクが崩れないようにとぎりぎりの力加減で抱きしめてくれる腕は、かつて恋い求めた人のものではない。
 きっと一生、二人は甘い恋人同士のようにはなれないだろう。
 その代わり、アレックスを間に挟んで親友のような、同志のような関係を続けていく。そこから外れる事を、今のところはどちらも求めてはいないし、寂しいとも不幸だとも思わない。
 それどころか、この人をを一生の伴侶として選んだのは間違いではなかったと、エレオノールは心の底から思った。