かぶ

君だけの僕 ― はじまりは、春 01 ―

「あれ、珍しいな。宗谷(そうや)がこういう場に来るのって、すごく久しぶりじゃないか?」
 新入社員歓迎会に向かうための待ち合わせ場所で僕を見つけた同期の山上(やまかみ)が、驚いたように声を上げた。
 山上のコメントは事実だ。僕は元々酒が好きなわけでもないし、社交的でなんかまったくない。何より、社会人として会社勤めをしている場での飲み会なのだから当然なのだけど、大人の女性が片手の数より多くいる。そんな場所は僕にとっては気鬱の元でしかない。だから誘われても大抵は断るし、そもそも会社でもあまり人付き合いの良くない僕を誘ってくれようとするのは、この山上ぐらいのものだ。他に誘われる機会といえば、年末年始の忘年会や新年会ぐらいで、これには毎回丁寧にお断り申し上げている。
 けれどこの日は、ワカの、僕の世界で一番大切な人の言葉もあって、ちょっとがんばる事にしたのだ。
「会社での義理事なのだからちゃんと顔を出しなさいって言われたんだ。だから、不参加予定だったんだけど捻じ込んでもらった」
「ああ、例のカノジョ? しっかり者で頼りになる美人サンだっけ。な、一度でいいからさ、会わせてくれよ。したらオレもオレのカノジョも紹介するし!」
「……他の誰に会わせても、山上にだけは会わせない」
 興味津々の体で持ちかけてくる山上にきっぱりと告げる。えー、なんでだよーと唇を尖らせる彼を見て、近くにいた女性社員たちがきゃらきゃらと笑う。
「そんなの、決まってるじゃないですか。自分の胸に手ぇ当てて考えたらすぐにわかるでしょう」
 肩の辺りでくるりと巻いている髪を栗色に染めている女性が、ルージュに染まった唇を笑みの形に歪めてコメントする。それに対して山上がオレは人の彼女盗るほど悪食じゃない! と叫ぶけれど、周囲の反応から察するに、これっぽっちも信じられてないようだ。
 山上は僕とはまるっきり反対のタイプの人間だ。典型的な『イケメン』な上にとても社交的で親しみやすい二枚目半な性格をしているから、性別など関係なくたくさんの友人がいる。彼は少し、僕の恋人の親友の恋人の親友という、近いんだか遠いんだかな人物とどことなく雰囲気が似ているせいか、意外にも僕にとっては比較的馴染みやすい相手だったりもする。
 誰もが山上とは友達に、中でも女性たちの過半数は恋人になりたくて、いろいろなイベントに彼を誘う。それらの誘いを彼が断る事はめったにない。断るのは先約がある時だけで、その時はどんなに粘ってもノーの答えしか得られず、約束に遅れさせようとか反故させようなどと画策しようものなら、いつもの彼からは想像できないほどの冷酷さで切り捨てられる。
 そうやって誰とも仲良くなる彼は、女性にとても優しい。特にガーリーでフェミニンな人にはそれが顕著で、片っ端から冗談交じりに「カノジョにならね?」と口説くのだ。
 去年の冬あたりに何かあったようで、浮ついた行動は若干……いや、かなり控えめになりはしたものの、僕の働く会社の中では、山上は無類の女好きとして広く知られてしまっている。
 けれど僕が見る限りでは、彼のナンパな性格はあくまで対外的なもので、彼の気を引こうとまとわりつくタイプの女性たちは、実は彼の本当の好みからはまったくの対称に位置しているように思える。僕の目に映る山上は、顔をあわせたばかりの女性たちに取り巻かれているよりも、よく知った男友達なんかと気兼ねなく過ごす方が好きなんじゃないだろうか。だからきっと彼が本当に恋するのは、彼にしな垂れかかる女性よりも、彼の隣で肩を並べて歩き同じものを見て同じ目線で話せる気性のさばさばした女性だろうというのが僕の予想だ。
 僕は山上を嫌いではないし、友人になれたら良いとは思うけれど、だからこそワカにだけは会わせたくないと思ってしまう。だってきっとワカは、僕が思う山上の好みにとても似合った女性だから。
「くっ、みんな酷ぇよ……オレ、これでも本命には一途なのに」
 男泣きに泣く真似をしながら僕に寄りかかってきた山上は、僕がぽかんとして彼を見ていた事に気づき、なんだよ、とほんの少し顔を険しくさせる。訊かれたから、というわけでもないけれど、物事を考えるよりも先に、言葉は僕の口から飛び出していた。
「ていうか、山上が一途って言葉を知ってた事がまず信じられない」
「ちょっ――宗谷、おまっ!」
「ぶっ、は、はは、あははははははははは! 宗谷君サイコウ! あはははははは!」
 さっきの女性が耐え切れないといった調子で爆笑したのを皮切りに、集まっていた参加メンバーも笑いの渦に加わる。
 最後には怒ってたはずの山上までもが笑ってて、どうやら僕はほんの少し、彼らの輪の中に溶け込めたのかもしれないと思った。
 そして、きっと今頃家で僕がどうしているのかやきもきしているだろうワカに、心の中で大丈夫みたいだよ、とこっそり報告した。


 僕には好きな人がいる。
 とても大好きで大切で愛しい人だ。
 どうしようもなく弱くて情けない僕を、それでも好きだと言って守ってくれる女性。
 名前を片山若菜(かたやま わかな)といって、僕は彼女をワカと呼んでいる。
 この呼び方は、彼女が「血の繋がらない姉妹」と認めた三人にしか許されていない呼び名だったので、僕にとってはとても大切な呼び名でもある。
 僕がワカと出会ったのは、僕がまだ中学校に入って間もない頃の事。
 辛くて苦しくて痛くて哀しくて怖くて仕方ない日々が唐突に終わり、ぽん、と目の前に差し出された『平穏な日常』がどうやら奪われるものではないらしいと認識できた頃の事だ。
 ワカは僕よりも二年前に僕たちがその後育つ事になった場所にやってきていて、それ以来、一番の親友と本人たちも周囲も認めるよりちゃんと同じ部屋で暮らしていたのだそうだ。
 そんなワカが僕にはじめて声をかけたのは、門の隣に根を下ろしているとても立派な桜の木を見上げていた時だった。
 別に、何か意図があったわけじゃない。ただ、その大きさに、力強さに圧倒されて、ぽかんと見上げていただけなのだ。
 けれどそこに連れて来られたばかりの子供が僕みたいなぽんやりばかりじゃないのはわかりきった事で、彼女も僕が他の子たちと同じ理由でそこにいるのだと思ったらしい。
「そこで待ってても、誰も来ないよ」
「……え?」
 掛けられた言葉に振り返ると、そこには一人の男の子がいた。
 着ているものは、僕や他の子たちと同じでもらい物のお古。色褪せた水色のシャツに、やはり色あせて濃いグレーになってしまった元は黒のハーフパンツを履いたその子は、意志の強そうなぴっとした眉の下の、突き刺すような光を放つ瞳で僕を見つめていた。
「だから、そこで待ってても、誰も迎えに来ないって言ってんだよ」
「あ……うん、わかってる」
 こくんと頷きながらも、僕の目はその子の目から視線を逸らせずにいた。まるで磁石みたいに引きつけられて、離せなかったというのが正しいか。
 だけど僕の言葉が意外だったみたいで、その子は目をぱちくりとさせ、少し気まずげな様子で問いを重ねた。
「待って、ないの?」
「うん。待ってない」
「じゃあ、何してたの?」
「木を、見てた」
「木?」
「うん。すごく大きくて、びっくりしたんだ。前の家の近くにもあったけど、こうやって見上げた事ってあんまりなかったから」
 僕の言葉に導かれるようにして、その子は僕から視線を外すと木を見上げた。その子の意識が僕から外れてしまった事をほんの少し残念に思いながら僕もまた、大きくて方々に枝を伸ばしているその木を見上げた。
「……この桜、春になるとすごく綺麗なんだ。何時もみんなでお花見するんだ」
「そうなんだ」
「うん。来年の春は、あんたも一緒に見れるよ」
「そうだね」
「ところで名前、なんて言うの?」
 訊ねられて、そういえば言ってなかったと思い出す。
 くるりと振り返ると、さっきは怖いくらい鋭かった目が優しく笑ってた。
「僕は、宗谷克己(かつみ)」
「あたしは片山若菜。ね、克己。そろそろ戻ろう? おやつの時間だよ」
「うん」
 差し出された手をすんなりと取ってしまった後で、あ、と思った。
 今、この子は自分を「あたし」と呼んだ。なら、この子は女の子だ。
 この頃の僕にとって『女性』という性別を持つ人物は、大人から子供まで年齢を問わず恐怖の対象だった。なのに、なぜかこの目の前にいる子だけは、見た目が男の子みたいだからなのか、怖いと思わなかった。
「克己?」
 歩きかけて止まってしまった僕を怪訝な顔で振り返った在りし日のワカに、僕はううん、と首を振った。
 その日から僕にとって、ワカの手は僕を導いてくれる手で、ワカは僕に安らぎを与えてくれるただ一人の女性だ。