かぶ

君だけの僕 ― はじまりは、春 02 ―

 人付き合いが得意でないというか苦手というか、ぶっちゃけると人嫌いの気のある僕は、社内の人に対してもあまり興味を持っていない。
 プログラマーなんて今じゃすっかりありきたりになった職に就いたのだって、工業高等専門学校でせっかく身につけた技術を活かしたかったのと、モニターに向かって作業をしてさえいれば他人との接触は最小限でいいだろうと思っていたからだったりする。加えてちょっとした縁故のある会社に入った事で、僕が何を苦手としていて何ができないのかを前もって理解してもらえているので、無愛想でも、ミーティングなどで発言をしなくても、社交性の欠片すらなくても、とりあえず上にはスルーしてもらえている。
 一応これまでの学生生活で他人と必要最低限コミュニケートするために必要なだけの対人スキルは身に着けたけれど、人の顔と名前だけはいつまで経っても正しく覚えられない。それが男性で、何かと話をする相手であればまだ比較的覚え易いのだけれど、相手が女性となってしまうと、難易度が一気に上がってしまう。
 そもそもみんな同じような髪型、メイク、喋り方をしているもので、どうにも見分けがつかないのだ。
 特に二十代半ばの女性は僕自身の苦手意識もあって、仕事で頻繁に顔をあわせて話――とは言っても本当に最低限必要事項のやり取り程度だけれど――をするというのでもない限り、同期の社員であっても顔と名前がまったく一致しない。もっと厳密に言えば、名前だけは名簿や座席表などで見知っているけれど、名前を聞いても顔がわからない。
 だからその日、僕の隣に座ってやたらに話しかけてきた新入社員の女の子の名前なんて、当然だけれど僕は知らなかったし、覚えられなかったし、正直に言うならそもそも覚える気がなかった。
「えー、宗谷さんって、恋人いるんですかぁ!?」
 僕が着いたテーブルを囲む人たちは食事よりも飲み放題で飲めるお酒と会話に夢中らしく、運ばれてきた料理はあんまり手を付けられていない。別に不味いわけじゃないのに中々減らないシーザーサラダを黙々と食べていると、隣で唐突に甲高い声が叫んだ。
 その手の声は僕にとって心地よい声の対極にあるもので、特に何も言いはしなかったけれど顔が思いっきり引きつってしまったのが自分でもわかった。そんな僕の反応に、僕の正面に座っていた山上は気づいたのだろう。ほんの少しの苦笑を滲ませてからへらりと笑うと、僕の隣に座っているその女性社員に向かって言った。
「おいおい風間(かざま)、そんなに驚いてやるなって。てかさ、宗谷が恋人にベタ惚れなのは社内でも有名だぜ」
「ああ、あの噂! あれ、本当だったんですか? でも、あんまりイメージじゃないですよね。だって宗谷さんってなんか、すごく感情とか表に出さなさそうじゃないですか」
「顔には出さないが言葉には出すし、電話でカノジョとしゃべってる時は『こいつダレ!?』ってなくらいニッコニッコしてるぜ」
 大げさが過ぎると思わず顔をしかめるくらい驚いてみせる彼女に、山上がニヤリと笑いながら聞き捨てならない言葉を吐く。
「――ちょっと待て。山上、いつ僕がそんな事……」
「ん? いつって、いつでもだろ。ほらお前ってさ、カノジョと通話する時はいつも自販コーナーの裏に隠れるじゃん。あそこって実はオレの絶好のサボリスポットでもあるわけ。おかげでかーいらしい宗谷クンの笑顔が見放題だったりしたわけよ」
 ししししし、と、歯を見せて意地の悪い笑を漏らす奴に、僕は小さく息を吐くと短く返した。
「そうか、わかった。じゃあ今度から、二宮(にのみや)課長代理が山上を探している時には自販コーナーの裏を確認するよう進言するとしよう」
「ちょ、お前それ酷ぇって!」
「先に人のプライバシーを侵害したのはそっちだ」
 ふん、とそっぽを向いてやると、山上はわざとらしくじとーとした目でこちらを睨みつけてくる。そんな目で見られたところで僕にとっては痛くも痒くもないわけで、新たに視線の中に入ってきた刺身の盛り合わせが乗っていた皿に残っている大根のツマと海草へと箸を伸ばした。
 せめて僕が食べなければこれらの料理や付け合せはむざむざ捨てられてしまうのだ。そんなもったいない事をしてはならないと、生き延びる過程で身をもって知った僕たちだ。後から胃薬が必要になるかもしれないけれど、無駄にしてしまうよりは遥かにましだ。
「って宗谷、人を無視して飯食ってんなよ!」
「だったら山上も食べればいい。さっきから酒しか飲んでないだろう。そんなだとあっという間に太って、君のカノジョとやらから見向きもしてもらえなくなるよ」
「……お前、的確に人の急所を突きやがるよな……」
 またしてもがくりとうな垂れると、山上は三十分以上ぶりに箸を取り上げて、テーブルの上の料理へと意識を向ける。
 そうして彼が食事を始めると同時に、僕の隣にいる女性が、またしても耳障りなキンキン声で僕に話しかけてきた。
「宗谷さんって、やっぱり優しいんですねー。杏奈(あんな)、優しい人って結構好きなんです。あーあ、杏奈、新人教育、宗谷さんにしてほしかったなぁ!」
 今の会話の何をどう理解すればそうなるのか。まったくもって理解不能だ。そもそも社会人にもなって自分を名前呼びというのはかなり有り得ないと思うのだが、最近の子ってこうなのか? いや、最近と言っても、考えてみれば順当に大学に入学して卒業しての新社会人なのだとすれば、もしかして同い年になんじゃないだろうか。浪人や留年をしていたり、大学院を出ているとすれば年上かもしれない。まあ、どっちにしても痛い事に変わりはないか。
 ピンク色のリップとグロスでてらてらしている唇を尖らせる彼女は、どうやらそれが可愛い仕草だと思っているらしい。ちらちらとこちらに視線を寄越しているのには気づいていたけれど、相手をしなければならない道理はないし、そもそも入社して所詮三年目の僕が新人研修をするなんて事はありえないので、あえて反応を示さない。
 この手の女性は、実は僕のこれまでの二十四年の人生で十分すぎるほど存在していた。
 具体的に挙げるなら、中学時代に一人、高専時代にはなんと四人、社会人になってからは隣にいる彼女の前にすでに二人。
 まあ、山上の女性遍歴と比べたらそれっぽっちとか言われてしまいそうだけれど、欲しいのも好きなのも大切なのも一緒に生きていくのもみんなワカだけだって決めた僕からすると、ワカでない女性からの求愛は、嬉しいと思えないどころかいっそ迷惑ですらある。
 うん、酷い事を言っているのはわかってる。だけど、僕に恋をしていると言い張る彼女たちはなぜかみんな揃って同じタイプなのだ。
 つまり、自分が可愛らしい、もしくは美人だと思っていて、自分の好意を僕はいっそ感謝すらして受け取るべきものだと言葉にしないものの態度が告げている。自分に対して妙な自信を持っているだけに押しが強く、こちらが下手な対応をしてしまえばとたんに自分が僕の恋人になれると、なれて当然なのだと、むしろすでになったのだとすら考えてしまう傾向にある。
 そうして最終的に僕の心がワカにしか向いていないと知るや「なんであんな子のために自分が振られなければならないの!?」とヒステリックに騒ぐのだ。
 そんな彼女らは僕からすれば、はっきりきっぱり自意識過剰で妄執が激しく嫉妬深くはた迷惑なだけの存在でしかない。
 おかげで僕はこれまでに何度もワカに嫌な思いをさせてきた。仕方ないよとワカはいつも笑ってくれるけど、僕には全然仕方ないなんて思えない。だって彼女たちは、僕がワカを何よりも誰よりも大切にしているからというだけの理由で、僕がワカを貶したり傷つけたりするのだから。
 それにしても、どうして彼女たちは次から次へと現れるのだろう。僕が自分から女性に近づく事はないし、人に紹介されたり同じ職場で働くなどをして知り合いになったとしても、言葉でも態度でも僕にはワカだけだとはじめから、それもほぼ常に示しているはずなのに。
 僕の言葉を真摯に受け止めたのか、それともただ単に空腹だったのか、さっきまでこれっぽっちも興味を示してなかったはずの食事を精力的に征服している山上にちらりと視線を向ける。もしかすると彼ならこの謎に対する何らかの答えを持っているだろうか。考えはしても、こんな踏み込んだ話題をこんな場で持ち出すのはなんとなく嫌で、帰ってからワカに訊いてみようと心に決めた。
「宗谷さん、お酒飲んでませんよねぇ? 何か飲みません? 杏奈、注文しますよー」
「酒は苦手だからいらない」
 これは本当。飲めないわけじゃないけれど、飲みたいと思わない。身体よりも心が拒絶する。おかげでちょっとでも強いのを飲んでしまうと、すぐに動きも思考も鈍くなってしまうのだ。
 そうなると僕は本能が極端に突出してしまうらしく、いつでもどこでも求めているワカに会いたくて、抱きしめたくて、甘えたくてたまらなくなるのだ。だから人前では、乾杯の一杯だけはがんばって、それ以降はウーロン茶ですます。ビール一杯程度なら、会がお開きになって家に帰るまでぐらいは我慢できると経験から知っているから。
 ……そう、あと一時間半と帰宅するまでの三十分を我慢すれば、ワカの待つ家に帰り着けるのだ。酒が少しでも入れば僕がワカをどうしようもなく求めてしまうと知っているから、ワカは寝ずに僕の帰りを待っててくれるはずだ。
 そんな風に幸せに浸れるであろう数時間後を恋しく思う僕を、またしても甲高い声が邪魔をした。
「えー、そうなんですかぁ? でも、なんかぽいですね! うん、あんまりビールとかも飲まなさそうだもん。どっちかって言うと家でワインとか傾けてるイメージじゃないですか!?」
 ああもうなんでこんな席に座ってしまったのか。山上ならもっとうまく立ち回れたはずなのに。そう思って視線を上げれば、件の山上は同情するような目でこちらを見つめている。そんな目で見るくらいなら席を替わってくれってば。
 さすがに無視をするわけにもいかず、ため息を一つ吐いて渋々と口を開いた。
「アルコール類は家にはほとんど置いてないよ。あっても料理用。僕も恋人も、酒は好きじゃないから」
「そうなんだー。ね、恋人ってどんな人なんですか? 付き合い始めて長いんですか?」
 だから、どうして僕が君にワカの事を話さなければならないんだ? そもそも語尾を強調しつつ延ばすその話し方をやめろ。癇に障る。
「そういえば山上。先週あたり、新しい和食の店を開拓したと言ってたよね。話をしたら、彼女が興味を持っていた店だとわかったんだ。感想を聞いてきてくれって言われたんだけど、教えてもらえるだろうか」
「ん……? あ、ああ! もしかして『家路』の事? うん、よかったぜ。内装は和風ってのは当然なんだけどさ、なんか隠れ家っぽくて、本当に周囲の目が気にならないわけ。料理もまあまあいけたし、値段もそこそこ。ツレは雰囲気が気に入ったみたいで、また行きたいって言ってたな。ちなみにホットペッパーのクーポンを使えば二割引になるし、恋人席を予約しておけばプライバシー完全保守できる席が確保できるからマジでオススメ」
 言いながらニヤリと笑うそのだらしない表情からすると、どうやら『プライバシー完全保守』できる席で、彼は楽しい思いをしたのだろう。――まあ、僕だって男なのだし、人目を気にせず外でワカといちゃつけると聞いて飛びつかないわけもなく。
「そう。じゃあ、次の週末にでも行ってみようかな」
「ほう、来週。ならオレ、高橋さんに言って本番検証入れてもらおうかなー?」
「……驚いたな。山上が自分から週末に本番検証したがるなんて初めてじゃないか? あ、あっちの席に主任たちが固まってる。よし、今から山上の評価を上げてもらえるように進言してこよう」
 山上が考えている事など丸見えで、僕は冷ややかに返しつつ席を立つ。いやいやいや、待て待て待てと慌てて引き止めるのを楽しく思いながら眺めていると、ぶち壊す声がまた聞こえた。
「へぇー、宗谷さんって意外にジョークとか言っちゃうんだ。うわぁ、なんか新発見! 杏奈、さっきからやられっぱなしですぅ」
 なんていうか、僕の中からワカが毎日補給してくれている幸せ成分がとてつもない勢いで奪われていく気がする。
 本気で今すぐ席を立って、一分一秒でも早く家に帰り着いて再補給をしたいと心底から嘆いてしまったのも、この状況では仕方がないと思いたい。