かぶ

君だけの僕 ― 夕立は嵐の前触れ 03 ―

 高校の頃、スポーツマッサージを習いだした頃によく実験台になっていた事もあって、彼女の施術は年齢に似合わず熟練の域に達している。しかも僕の弱点も知り尽くしてるから実に的確で、うっかりすると熟睡してしまいそうになる。
 背骨と骨盤の位置を直して揉み解しに入ったところで、僕はうっかり眠りに落ちてしまう前にと口を開いた。
「明日の朝、品川まで送るよ。車、借りてきたんだ」
「へ? 車?」
「うん。今日の帰りによりちゃんのところに寄ってきたんだ。今はゲスト用の駐車スペースに置いてる。日曜日に使うらしいから、土曜日にでもドライブがてら返しに行こう」
 まさかそんな事になっているなんて思っていなかったみたいで、マッサージの手が止まってしまう。もしかして、迷惑だっただろうか。今更ながらに思いついて、僕は真後ろにいるワカを振り返る。
「ワカ?」
「まったく……会社帰りなんて、電車、人だらけなのに。大丈夫だった?」
「大丈夫。いつもどおり定時で上がったから、そんなに混雑はしていなかったよ。だから、大丈夫」
 どうやらワカは、僕を心配してくれていたらしい。まあ、それも当然といえば当然か。
 僕の女性恐怖症は筋金入りだ。
 死なない限り逃れられないと思っていたその原因から逃れた後、ワカに出会うまでは男という性別を持つ存在以外はことごとく恐怖の対象だった。
 もしあのままワカと出会わずにいたのならば、僕はきっとのっぴきならない理由から、一生誰とも触れ合わずに生きる道か、もしくは同性愛者になる道を選ばなければならなくなっていただろう。
 だけどワカと出会えた事で、僕の運命は大きくその様相を変えた。それだけじゃない。恐ろしいほどの低確率の幸運で、ワカが僕を愛してくれた。だから僕は精神が壊れてしまいそうなほどの女性恐怖症から脱却できたし、幸せと呼ばれるものがどんなものなのかを知る事ができた。
 どれくらい女性が駄目だったのかって言うと、ワカと出会ったばかりの頃は、それが『女性』だってだけで同い年の子や年下の子たちですら怖かったのだ。
 けれどいつまでも怖い怖いと言ってるばかりじゃこの先生きていく事もできないからと、精神科の先生の勧めに従って、一歩ずつ『女性』という性別を持つ存在に慣れる訓練を重ねるようになった。
 はじめは女の子たち――特にりっちゃんやヨリちゃん、なっちゃんの三人と一緒に遊ぶワカを一定の距離を保って眺めるのが精一杯だった。ワカがその輪の中にいなければ、意識して見る事すらもできなかった。そうして彼女たちの存在に慣れてきたところで少しずつ置いていた距離を縮め、言葉を交わす練習をして、同じ輪の中にいても平気になるのを待った。
 彼女たちとなら若干の接触でも大丈夫となったあたりから他の女の子たちとの距離を縮める努力を始めた。同時にいわゆるおばさんな年齢の人たちに世話をしてもらう事にゆっくりと順応した。
 学校に行き始めたのは、僕があの場所に連れて行かれてから半年が経った頃。
 誰が何をどう手を回したのか、僕はワカと同じクラスで、興味津々で近づいてこようとする女の子たちから、ワカは僕を守ってくれた。
 女の子や女の人から突然に近づいてこられて軽いパニックを起こすたび、宥めてくれたのもワカだった。
『いつもごめんね、ワカちゃん。でも、ありがとう』
 落ち着くたびに僕は情けない気持ちで謝罪と感謝の言葉を繰り返した。そうするとワカは、ちょっと照れたような、だけど嬉しげな笑顔で「気にしないでいいよ」とくり返し、ぎゅっと抱きしめてくれたのだ。
 後になって知ったのだけれど、これはワカがあの場所にやってきた当初、怖い夢を見て夜に泣いて目が覚めるたびにヨリちゃんにしてもらった事だったのだそうだ。
『なんかね、はじめて会った時に思ったんだ。ああ、あたしはあんたのために、あたしにとってのヨリになろうって。きっとさ、あれが運命の出会いってやつだったんだよ』
 そう語ってくれたのは中学二年の頃、受験をどうしようかとみんなで頭を悩ませていた時だ。
 僕はワカから離れて自立するべきだろうかと悩んでいて、悩みすぎたのと、ワカから離れなければという強迫観念がもたらした恐怖心のせいで心因性の熱を出してしまった。
 なんて情けないんだと熱に浮かされた頭で嘆いていたところを見舞ってくれたワカの言葉に僕は救われて、無理やり離れようとするのをやめた。
 だって僕にはワカが必要だったし、その時にはもうとっくにワカの事を女の子として好きになっていたから、余計に離れたくなかったのだ。
 幸いにもというべきか、僕ら自身が成長するにつれて、怖いと思う対象の年齢幅は少しずつ狭まっていった。けれどそれは主にワカと、あの場所で一緒に暮らしていた子たちのサポートがあったからだ。
 おかげで中学を卒業する頃にはごく限られた年齢層の、ごく限られたタイプの人たちでなければ、比較的普通に付き合えるようになった。その対象の人たちに対しても、とても儀礼的な態度ではあれど、最低限必要なやり取りは交わせるようになった。……なったのだけれど、やっぱり今でも女性が苦手という事に変わりはなく、不可抗力であったとしても不用意に接近、接触してしまう機会の多い満員電車が僕にはどうしても苦痛の種だ。
 それを知るからこそ、ワカは僕の就職先と職場が決まった時点で少しでも僕の勤め先に近い場所に移ろうと家探しに躍起になってくれたのだ。
 とまあ、こんな事情があるせいで、どうしてもワカは僕に関して心配性になってしまう。こんな事を昭和初期から高度成長期にかけて生まれ育った頭の硬いおじさんたちが聞いたりしたら、男ならそんな風に心配されるのを不本意だと考えて自立するべきだとか説教されそうだし、僕としてもできればワカにはあまり心配ばかりかけたくない。
 けれどこんな僕だからワカは僕の傍にいてくれるのだと考えると、あまり急いで変わらなければならないとも思わない。
 にっこりと笑って見せた僕を、ワカは言葉の裏を探るような目でじっと見つめる。それからそっと息を吐いて、安堵したように身体の力を抜いた。
「そっか、ならよかった。――にしてもさ、そんなに気を回す必要もないのに」
「うん、ワカならそう言うだろうって思ったんだけどね」
 素直に頷いて、僕は更に言葉を続ける。
「ただでさえ朝に弱いのに、更に早起きじゃワカ、身体辛いでしょう? 僕は朝に強い方だし、朝でも早い時間なら道路もそう混雑してないだろうから、余裕で会社にも間に合うはずだ」
「だけど会社への電車が問題なんじゃない。せっかくいつも早出してるのに」
 またしても心配顔になるワカに、僕はちょっと困ってしまう。うーん、もしかしなくても、ワカは心配性から過保護にステータスアップ(この場合はステータスダウンなのかな?)してしまっていたのだろうか。
「わーか、ねえ、若菜」
「ん」
「僕だってね、少しずつとはいえ成長してるんだよ。ワカの厚意にはどっぷり甘えちゃってるけど、本当はもっと都心に近いところからだって電車通勤できるんだ。それに、満員電車に乗るって言ってもたった一日だよ。帰りだって時間を見計らうから大丈夫。そんなに心配しないで」
「……うん、そうだね」
 小さく苦笑して、ごめんね、とワカが呟く。ああ、僕は君にそんな顔をさせたいわけじゃないのに。
「謝らないでよ。どうせなら、笑って、ありがとうって言って? その方が僕は嬉しい。オマケのキスも大歓迎だよ」
 期待に満ちた視線を向けると、一瞬あっけに取られた顔になったワカは、ぷはっと吹き出して笑いながら感謝の言葉と共に、甘くて優しい唇を、額に落としてくれたのだ。
 三十分ほどかけて全身を揉み解されると、どれだけ自分の身体が凝り固まっていたのかを嫌っていうほど自覚してしまう。たとえば少しばかり伸ばそうとするだけで突っ張っていた肩や二の腕がすんなりと伸びるし、首をぐるぐる回しても筋が張る事はない。そういった不調がきちんと解消されているのを確認して、僕はこきこきと首や肩を動かしているワカへと振り返った。
「ありがとう、ワカ。いつもの事だけど、すっごく気持ちよかった」
「そう? ならよかった」
 純粋な感謝の言葉ににっこりと笑うワカはほんの少し誇らしげだ。もう何年もしてきているのだし、実際資格も持っているのだから当然だって顔をしてもいいくらいなのに、ワカにはそんな考えはないらしい。以前、まだ彼女が専門に通っている時に、インターンシップという名のアルバイトをしているところに顔を出した事がある。まだ仕事が終わるには時間があったせいでリハビリのサポートをしている最中のワカを見ていたのだけれど、終わったあと、丁寧にお礼を言う患者さんに、謙遜だけではなく、ただ手伝っているだけなのだからと苦笑する姿を見て、僕はワカの謙虚さに惚れ直してしまった。
 やっぱりワカは素敵な女性だと認識を新たにしながら、僕はワカの手を取る。そして教えてもらったとおりに手のひらのツボを丹念に押さえ、手首から二の腕にかけてなるべく力をかけないようにと揉みあげる。ほとんど自分自身で施すハンドマッサージと代わりはないのだけれど、僕にできるのは本当にこの程度の事ぐらいだ。僕の身体を解す過程で増幅させてしまったワカの疲れを少しでも軽減させたいと思うのはおかしな事じゃないと思う。
「ふふ、克己のマッサージ、上手くなったよね」
「そりゃあ、プロの指導を受けてますから」
「そもそもあたしがこうやってまともにマッサージするのって克己ぐらいじゃない。資格は確かに取ったけどさ、報酬を得てないんだから、プロってわけじゃないと思う」
 妙なところで頭の固い発言をするワカに、僕は小さく吹きだした。
「仕事が仕事なんだから、これから使う事も増えるんじゃない。それに、僕はちゃんとワカにマッサージ代支払ってるじゃない」
「? そうだっけ?」
 きょとんとするワカの身体をぐいと引き寄せる。身構えてなんていなかったから、ワカのしなやかな身体はあっさりと僕の腕の中に納まる。ほんの少し髪に隠れた耳を背中を抱く指先でそっと撫で、耳朶に唇を触れさせながら、意図的に低めた囁きを吹き込む。
「ちゃんと払ってるじゃないか。どれだけ回復したのかの証明を含めて、僕の身体で、さ」
「っ!?」
 びくりと身体を震わせてとっさに逃げを打つ身体をそのまま床へと押し倒す。
「克己、明日の朝、あたし早いんだってば!」
「もちろんわかってるよ。だからそれもあって、車を用意したんでしょう?」
 ほんの少し顔を離して、意図的に悪い笑みを浮かべる。僕の言葉と表情に顔を真っ赤に染めたワカは、しばらくじたばたと抵抗を試みていたのだけれど、僕に放すつもりがこれっぽっちもないと理解すると、悔しげに言葉を放つ。
「全部計算してたっての!?」
「やだな、そんなの当然じゃない」
「~~~~この、確信犯!」
 それが、ワカの降伏の印。大半が呆れと諦めなのだろうけれど、それでも抵抗がなくなった事に違いはない。
 僕は胸に広がる甘い満足感を楽しみながら、この世の何よりも甘くて愛しい女性を僕の全てで味わうべく、愛撫の手をワカへと伸ばした。