かぶ

君だけの僕 ― 秋の夜長に夢を見る 02 ―

 いつまでも収まらない残暑にも何とか耐えるだけの体力を取り戻せたのは、精進料理よりはちょっとましな感じのメニューながらも少しでも栄養価の高いものをと苦心したからというのもあるけれど、僕の中に降り積もったストレスを少しでも取り除こうと毎日僕を宥め続けてくれたワカの存在が大きい。
 おかげでここ二週間ほどでようやく体重が少しずつ増加傾向にあるし、ワカの言葉じゃないけれど、鏡に映る自分の顔や身体に『肉的なもの』が付きつつあるのも見えてきた。今はまだ本当に、些細過ぎて悲しいくらいの変化でしかないけれど変化は変化だ。それもいい方向での。
 肩から鎖骨を通って胸板――というよりあばらの浮き具合を確かめ、脇腹をすそすそと撫でつつワカは難しい顔をする。
「ワカ? 僕の脇がどうかした?」
「んー、別に大した事じゃないの。単に理不尽な気持ちになってるだけだから」
「や、それじゃ余計にわけわかんないし」
「……そのさ、克己が体重落とした経緯を知ってるからにはこんな事思っちゃダメなんだけどさ。やっぱ思っちゃうのよ、女子として。こんだけ脂肪なくなったらどんな気分かなーとかさ」
 ごめんねと真剣な顔で謝ってくるワカには本当に悪いけど、僕としてはもう笑うしかなかった。
 本当に、どうしてワカはこんなにも可愛らしいんだろう。
「あのね、ワカ。ワカは今のままでいいの。そりゃさ、ワカが細くなりたいって言うのなら僕はそれでいいと思うけど、正直、あんまり不健康に痩せてる人を見るのは好きじゃないよ」
「うん、知ってる」
 こくんと素直にワカが頷くのは、僕の反応がどこから来るのかを知っているから。
 僕は幼い頃、あまりまともに食事を与えられていなかった。そのせいで常に栄養失調ぎみだった僕は骨と皮な外見だったし、胃が大量の食事に慣れていないせいで今でも大した量を食べる事はできない。
 とにかくそんな経験があるせいで僕はやせ細った人を見るたびにその頃の経験がフラッシュバックしてしまうし、正直今は自分自身を鏡の中に見るのさえ苦痛だ。原因がそこにないと知っていても、痩せて骨格の尖った虚像は子供の頃の自分を拡大コピーした姿にしか見えないのだ。それでも自家中毒を起こさずに済んだのは、ワカがそばにいてくれたおかげと、良くも悪くも激痩せした自分の姿に慣れてしまったからだろう。
 うかつな自分の発言にしゅんと項垂れるワカをそっと抱きしめる。筋肉質だけどそれでもやっぱり柔らかなその感触と甘くて優しいワカの体臭に、僕の心と身体を重苦しく沈殿していた澱がしゅわりと溶けて消えていく。
「……て、言うかさ。ねえ、ワカ。あのさ、あんまりそうやって触られてると、僕、ちょっと危ないんだけど」
「…………て、言うかさ。克己って徹底して空気読まないよね」
「読んで、一緒に落ち込んだ方がよかった?」
 僕の発言に呆れた顔になるワカへ純真で無害に見えると評判な顔を作って向けると、更に深く深く深く深くため息を吐かれた。
「ま、確かに空気変えて欲しくはあったけどさ、毎回そっちに持っていかれるのもねぇ……」
「言う事もわからないではないけど。でも、いいじゃない。僕がこういう発言するのもしたいと思うのも、ワカに対してだけだもん。他の場所ではしないんだから、許してよ」
 腰をかがめて身長差を埋めて、腕を伸ばしてワカのあたたかで柔らかな身体を抱きしめる。さっきまで文句を言っていたのに素直に身を預けてくれる彼女に、胸の奥がほっこりと幸せ色に染まる。
「好きだよ、ワカ」
「ん、あたしも好き。だからセクハラ発言は控えめにしてね」
「――その『だから』は卑怯だ」
「ふふん、卑怯だろうとなんだろうと、勝利さえすれば正義になるのよ」
「ちょ、ナニその悪者発言!?」
「悪者なあたしは好きじゃない?」
 ちょっとしょんぼりした顔で上目遣いに見上げてくるワカに、僕は実にいとも容易く心臓を打ち抜かれてしまう。本当、ワカってば卑怯だ。
「好きだよ。どんなワカでも好き。だけどお願いだから、僕をこれ以上いじめないで?」
「……なんていうか、あたしは悪者かもだけど、克己は小悪魔だよね……」
「? そう? どのあたりがそうなの?」
「あたし個人の純粋な感想だから、克己はわからなくてもいいよ。――これ以上タチ悪くなられたら敵わないし」
 ぼそりと付け足された一言は、僕こそが言いたい言葉だ。だけどそんな事を言ったら、きっとワカは僕が思いつける数倍以上のマシンガントークで持って僕をやり込める。
 ワカにならやり込められるのも嫌いじゃないけど、たとえそれがじゃれあいのようなものでも、大切な人との不要な争いは避けたいと思うのは人として当然だと思う。
「ね、そろそろ食器片付けようよ。見たい映画、今日やるって言ってなかった?」
「あー、うん、言ってた、けどさ……」
「けど?」
「本当に、克己ってあたしの扱いが上手いよねぇ……」
 実にしみじみと呟かれてしまって、僕は思わず天を仰いだ。
「扱いって、それはワカの方でしょ。僕はいつもワカの手の平でころころ転がされてるってのに」
「それは否定しないけど、でも実際にはさ、克己が進んであたしの手の平の上で転がってくれる事で、物事が上手く運ばれるようにしてるんじゃないかって思う事が少なくないんだよね」
 ふんわりと労りを乗せた笑顔を僕へと向けて、ワカが言葉を継ぎ足す。
「だからね、ありがたいなっていつも思ってる。あたしはさ、克己と一緒にいられてすごく幸せだよ」

* * *

「なーんだ、今日はやけに機嫌よくないか?」
 翌朝、自分の席に着いて僕の顔を見るなりそんなコメントを口にした山上に、僕はほんの少し顔をしかめてしまう。
「朝から何?」
「や、珍しく宗谷がご機嫌サンだからちょっと驚いてさ。何かいい事でもあったのか?」
「んー……」
 そんなにわかりやすいかなあと自省をしつつほんの少し考える。考えて、たまにはこういう話をするのもいいかなと判断した。
「うん、あった」
「や、だからあったのはわかってっから、何があったのか教えろっての」
 半笑いみたいな顔になってても山上は妙にキマって見える。ほんの少しばかり悔しいけれど、どんな顔をしててもイケ面はイケ面なんだなあと変なところに感心してしまう。
「大した事じゃないんだけどね。昨日、夕食の後に彼女と話をしていた時にさ、彼女が言ってくれたんだ。僕と一緒にいれて幸せだって。それが嬉しくて」
 ああ、だめだ。思い出すだけで自然と頬の筋肉が緩んでしまう。さすがにそんなニヤけ顔を見られるのは恥ずかしくて、手の平で頬を軽くこねるみたいにする。てかこの熱さからすると顔、赤くなってるかも。
 そんな事を考えながら視線を上げると、がっくりと肩を落としてしょ気てしまった山上を見つけた。
「いいなー……俺もカノジョにそんな風に言われたいなー……」
「え……うそ、山上ってば、今まで一度もそういう事言われた事ないの?」
「ちょっと待て。その物言いだとお前、前にも言われた事あるのか!?」
 があっとばかりに噛み付いてくる山上へ、僕は深く考えもせず頷く。
「うん。さすがに毎日とかじゃないけど、それなりに」
「なんかこう、ふつふつと殺意が沸いてきた。ちょっと軽くシメていい?」
「だめ。僕に何かあったら彼女が哀しむし、そもそも幸せだって恋人に言ってもらえないのは山上が甲斐性なしだからでしょ?」
「ぐっ……! ちくしょう、宗谷の癖に正論吐きやがって!」
「僕はいつでも正論しか言ってないよ。ていうかさ、男の嫉妬とか逆恨みってのは見苦しいって知ってる?」
 わざとらしく顔をしかめて継げた言葉が致命傷になったらしい。実に悔しげな唸り声を上げて机へと沈没した山上は、始業のチャイムが鳴るまでの数分間、ぴくりとも動く事はなかった。