かぶ

君だけの僕 ― 秋の夜長に夢を見る 05 ―

「――北さん?」
 不穏な空気に声を上げるが、それはさくっと無視される。
「へぇ? そうなんですか?」
「ああ。何しろ恋人といる時の宗谷は、会社でのコイツとは全然違ってまるで別人だし、それ以上に正しく溺愛を体言したようなメロメロっぷりなんだ。口先だけの溺愛なんか、恥ずかしくて二度と言えなくなるぜ」
「えー、オレ、マジカノジョには本気で溺愛してるんですけど……でもそう言われるとすごく気になりますね」
「気にしないでいいし、溺愛の度合いなんて比べるものでもないでしょう」
「まあな。でもお前ら二人の空気とかってさ、浮ついた恋愛している人間の目には毒なくらいだぜ」
「そういうものですか?」
 きょとんと首を傾げると、本人はこれだからなぁ、と北さんが笑う。
「まあ、付き合いが長いってのもあるんだろうけどな。何年だっけ? 十年くらいか?」
「ええと……そうですね。中学に入ってすぐくらいに環境が変わって、そこで出会ったので……そうか、まだ十年なんだ」
 思わず指折り数えてびっくりする。
 ずっと一緒にいるせいか、もっと長い年月を共に過ごしていたような気がしていた。
「そこでまだって出るのがすごいよな」
「そうですか? あ、でも、出会ったのは十年前ですけど、実際に付き合いはじめたのは高校進学してからなので、七年程度です」
「うん、だから、普通はそこで程度とか出ないから」
「超同感。オレなんかカノジョと出会ってから六年くらいで、付き合いはじめたのが四年ちょい前くらいだけど、振り返ったら長いなぁって思うもん」
 しみじみ頷く山上の言葉に、思わず箸を止める。
「……やっぱり山上には絶対会わせない」
「へ? え、なんで!? なんで突然そうなるわけ?」
 本気で理由を理解していない山上に頭痛を覚え、僕は深々と息を吐く。
 隣からは北さんの実に楽しげな視線が突き刺さってきていたけれど、それはあえて無視して口を開いた。
「浮気男は信用しない事にしてるんだ」
 どこまでもまっすぐに伝えたとたん山上が撃沈する。
 隣からの盛大な爆笑に店中から視線が集まったけれど、それには気づかぬ振りで僕は再び食事に戻った。
 そんな風にして食事と会話を楽しんでいれば、あっという間に二時間は過ぎる。
 今日は健啖家の北さんと同席していた事もあっていつもほどは食べていないけれど、それでも十分すぎるくらいおなかが苦しい。
 ふと自分のグラスを見ればすっかり空っぽで、そういえば今日はいつもより喋っているから飲み物の減りが早いのだと気づく。
「そろそろラストオーダーですけど、何かお代わりします?」
 僕の視線に気づいたのだろう。気を利かせたのか性分なのか、山上が北さんに声を掛ける。
「いや、結構呑んだからな。まあ、ウーロン茶でも頼むとするか」
「ウーロンですね。宗谷はどうする?」
「僕も同じで」
「お前さ、ビール、最初の乾杯分しか飲んでなくね?」
「お酒、あまり強くないから」
 いつもと同じ言葉を返して、ようやく皿の底が見えてきた揚げ物の盛り合わせという名のジャンクフード盛り合わせに箸を伸ばす。なんというか、オニオンリングとハッシュドポテトとチキンナゲットが大量のフライドポテトの上に乗っかってるってのは真剣にどうなんだろう。とりあえずハッシュドとフライドが共にポテトな時点で、この店は客の胃の容量に挑戦しようとしているのだろうかと突っ込んでみたくなる。
 さすがにポテトの山にも飽きて箸の進みが遅くなってはいるものの、「食べ物を無駄にしない」というポリシーの下、山上と北さんの間で交わされる会話を聞くともなく聞きながら黙々と口を動かしていた。
「お待たせしましたー! ええと、ウーロン茶二つとオレンジジュースでよかったですかぁ?」
 甲高い声が唐突に聴覚を刺激する。
 反射的に思いっきり眉を顰めて振り返った先にいたのは、ここしばらくはあまり顔を見ずにすんでいたはずの例の女性で、とたんに十分すぎるくらい重くなっていた胃がずずんと重さを増す。ああ、今夜も胃薬決定か……
「はいよー! オレンジはこっちで、ウーロンふたつはそっちの二人ねー」
「はぁい。ええと、じゃあこれが山上さんの分でぇ……ウーロンが、そちらのお二人、ですね」
 ちらりとこちらを見ながら彼女はお盆の上からウーロン茶のグラスを一つ僕の前に置く。内心でため息を一つ吐き、置かれたそれをそのまま隣へと送った。
「北さん、どうぞ」
「お、サンキュ」
「はい、こちらが宗谷さんの分です」
 お互いに座っているのだから座高はそう変わらないはずだ。なのに目をぱちぱちとさせながら上目遣いで見てくる彼女に、ある意味器用なのだなと妙なところで感心してしまう。
「……ありがとう」
「いえ! これも新人の仕事なので!」
 そういえば、一年目は性別の差なくこういった場で給仕をするのがうちの部の不文律だったっけ。なら、この時間まで彼女がこのテーブルに来なかったのを幸運と思うべきかもしれない。
 そんな事をつらつらと考えながら渡されたウーロン茶に口をつける。揚げ物で喉が渇いていたのもあってぐびりと呷った瞬間、口の中を強烈なアルコール臭が襲った。
「――――!?」
 その場で吐き出さなかったのはほとんど奇跡だ。
 ぎりぎりのところでなんとか飲み下しはしたものの、いつもなら絶対に口をつけないくらい濃いアルコールのせいで、視界がぐらりと回った。
「宗谷? どうかしたか?」
「これ――お酒、入ってる」
「ええっ? ちょ、おい風間! お前宗谷に何を渡したんだ!?」
 山上の声に場がしんと静まり返る。
 名指しされた風間――例の彼女は驚いた顔でこちらを見て、動揺した声で返してきた。
「え、あの、ウーロン茶、ですけど……」
「本当にウーロン茶? だれかのウーロンハイと入れ替わってないか?」
 どこか剣呑さを感じる声で山上が追求の言葉を口にする。と、彼女の隣にいた女性がおずおずと手を上げた。
「あ……もしかしたら私のかもしれません。もう閉会も近いからすごく薄く作られたのかと思ってたんですが……多分こっちがウーロン茶です」
 二、三口のまれたらしい僕の目の前にあるのと同色の液体の入ったグラスを持ち上げて見せる。
 はあ、と一つ息を吐いて、僕は渡されたグラスを押しやった。
「じゃあ、もう一度ウーロン茶を注文してもらえますか? お互い、他人の口をつけたものを飲むのも微妙でしょうから」
 向こうは交換を申し出たそうな顔になっていたけれど、そんなのは僕が嫌だ。
 そういう気持ちが伝わってしまったのか、女性たち二人は顔を見合わせると、わかりましたと席を立つ。
「んじゃ、こいつは俺が片付けてやるよ。お前はどうせ飲まないんだろう?」
「ええ、僕の飲みかけでよければ」
 北さんの言葉に頷いて、僕はウーロンハイが入っているグラスを隣へと押しやる。
 ああもう、こんなに酔いが回ってしまっては帰ったとたんワカに何をしてしまうかわからない。乱暴な真似は極力したくないけれど、いつも以上に箍が外れてしまいそうだ。
 心の中でワカにごめんと謝っておく。面と向かっては、ちゃんと後で謝るし、帰りの電車の中でもメールで宣言しておこう。心の準備をしていてもらわないと、多分ほぼ確実に驚かせてしまうだろうから。
「お前、この期に及んでまだ食べるのか?」
「え、だって、まだ残ってるんですから当然でしょう?」
「あれか。『おのこしはゆるしまへんで!』って母ちゃんに怒られてたクチか」
「ちょ、北さんそれアニメだし、食堂のおばちゃんだし」
 声真似をする北さんに山上がすかさず突っ込む。そろそろご長寿アニメにカウントしてもいいような某忍者学校モノに出てくる強烈なおばちゃんを思い出し、ほんの少し笑ってしまう。
「育ちが育ちなもので、食べ物を粗末にできないんです」
「あ……そうか。すまん。忘れてた」
 以前話した僕の生い立ちを思い出したのだろう。とても気まずい顔になって謝ってくる北さんに、僕はちょっと笑いながら頭を振った。
「いえ、気にしないでください。それに、僕は元からあまり食べない方ですし、たまにこうしてたらふく食べて釣り合いが取れるんです」
「釣り合い、取れてるかぁ? プラマイしてもまだマイナスな気がするんだけど」
「うん。だからいつも恋人には文句言われてる。うっかり彼女より体重減ったら目を吊り上げて怒られるから、結構頑張って食べるように努力してるんだけど」
「……あのぉ、新しいうウーロン茶、届いたんですけどぉ……」
 会話に割り込んできたのはさっきと同じ声。自分では無表情を貫いたつもりだけどどうやらそうでもなかったらしく、正面の山上がほんの少し苦笑する。
「それ、ちゃんとウーロン茶?」
「あ、はい! 谷岡さんに先に飲んでもらって、ちゃんと確認したんで!」
「なら大丈夫そうだね。ありがとう」
「はい!」
 やたら大きな声で返事をして、両手でグラスを差し出してくる。なにかいろいろなものがゴテゴテと付いた指先を見て、これでよくキーボードが叩けるものだと呆れ半分に思った。
 うけとったグラスに鼻を寄せて、念のため臭いをかぐ。うん、今度はアルコールっぽい臭いはしないから大丈夫だろう。そう判断してごくりと飲む。味も問題ないし、今度こそ本当にウーロン茶のようだ。
「宗谷、お前、そんな警戒心ビシビシの顔で茶ぁ飲むなよ」
「ですけどさっきの二の舞は嫌なので。お店にも申し訳ないでしょう?」
「まあそうだけどさ……」
 苦笑する北さんのグラスは二つともすでに空になっていた。ザルを通り越してワクな人だし、きっとこういう店で出るウーロンハイなど普通のウーロン茶と大して変わらないのだろう。
 そんな事を考えているうちに閉会の挨拶が始まる。
 北さんは冒頭ですでに挨拶をしていたからと、二宮さんが指名され、聞いてないよと笑いながら立ち上がるのが見えた。
 だけどなぜだろう。そんなに広い空間でもないし、二宮さんの声は比較的通りやすい声をしている。
 なのに、彼の声がやたらに遠くにしか聞こえない。
(本気で酔ってしまった――?)
 たったあれだけで、と考えている間にも、意識が薄れていく。
 お約束の一本締めとそれに続いた拍手が妙にエコーがかって聞こえたのを最後に、僕はゆっくりと意識を手放した。