かぶ

君だけの僕 ― 冬その二 01 ―

 それは師走に入り、僕の自宅作業体制も本格的に整ってきた日曜日に起きた。
 ワカが勤めるのが総合病院という関係もあって、日曜日は僕ら二人揃っての休日になる。
 いつものように朝を気怠く過ごし、ブランチにも遅い朝食兼昼食を食べて翌週のための買い物リストを作っていたところに、思いがけず来客を知らせるチャイムが鳴った。
「? 誰だろう? 何か約束してたっけ?」
首を傾げる僕に、ワカもふるふると首を振る。
「ヨリたちとの約束は来週だし、そもそもあの子達ならうちまで来る用事なんかないはずだけど……」
 特に通信販売に手を出したりもしないから、荷物が届く予定もない。
 本当になんなのだろうと考えているうちに、もう一度呼び出しのチャイムが鳴らされた。
「訪問販売とか勧誘なら一回で諦めるよね?」
「うーん、とりあえず出てみようか」
 やっぱり首を傾げながら、ワカがインターホンを取り上げる。
「はい?」
 あえて名乗りはせず、じっと相手の要件に耳を傾けていたその顔が、次第に険しくなっていくのがはっきりとわかった。
「ワカ?」
「克巳。あの女が父親連れて押しかけてきてるんだけど……どうしたい?」
「……えと。ごめん、ワカ。あの女って……誰のこと?」
 単純だと言うなら言えばいい。だけど僕はワカがしてくれた『記憶の上書き』のおかげで、自分の身に起きた忌まわしい事件のことを、この頃にはほぼ綺麗に忘れていたんだ。
 実際効果は実に絶大で、春先から僕を長らく苦しめていた『彼女』の存在は、本能による自己防衛も働いて、綺麗さっぱり消えていた。――まあ、自己防衛本能も最大限に働いたのだろうけれど。
「……ああ、そういえばそうだっけ。んー、どうしたものかなあ……」
 困った顔で唸って、ワカはインターホンを取り上げる。
「本日は特にお約束してなかったと思うのですが。そもそもどうしてこの場所をご存知なんですか?」
 また、束の間の沈黙ののち、ワカが思いっきり顔を顰める。
「……そんな事実はお嬢さんの頭の中にしか存在しないんですけどね。わかりました。ただ、こちらは休日を満喫していたもので、来客を受け入れられる状況にはありません。改めて時間を作って――」
『そうやって逃げようとしても無駄だ! そもそもこっちには一刻の余裕もないんだ! いいからさっさと開けろ!』
 ワカの傍で、だけど受話器からは十分離れた場所にいた僕にさえその声は届いた。
 聞き覚えのない声。だけどワカには心当たりがないわけでもないらしいし、この様子だとただでは帰ってもらえそうにない。だけど知らない人を安易に受け入れられないのも事実で。
「ねえ、ワカ、この人どうするの?」
「相手がああじゃ他にしようがないしね……とりあえず切り札の二人と連絡取ってから入ってもらう事にしようか。連絡はあたしがするから克巳はひとまず片付けお願いしていい?」
「うん、わかった」
 知らない人を僕らの部屋に入れるのは正直これっぽっちも嬉しくないけれど、ワカが納得しているのなら僕が何を言う必要もない。素直に頷いて、招きもしてない客が足を踏み入れるであろう居間に散らばっているあれこれをまとめはじめた。
 その間に交渉は片が付いたらしく、実に渋い顔のワカが携帯電話を充電器から取り上げるのが見えた。
「連絡、どっちにするの?」
「んー、なんとなく相手の本当の狙いは御曹司な気がするんだよね。だからあっちにはメールだけ入れて、休みなのに申し訳ないけど先生に来てもらおうと思うんだ」
「先生に? わざわざ?」
 予想外な答えを返されて思わず聞き返した僕に、ワカは渋い顔をさらに渋くさせて答えてくれた。
「克巳はすっかり忘れてくれてるみたいだけどね、あたしから克巳を奪おうって女の人がいるのよ。そいつが親まで巻き込んで最終手段に訴えてきてね……」
 ったく、ふざけんじゃないわよ。
 低く唸って、ワカは携帯電話を耳に押し当てた。その横顔を見ているうちに漠然とした不安に苛まれた僕は、そっとワカに寄り添うように抱きついた。通話相手と硬い声で話していたワカはくすりと笑いを漏らして、僕の手を握ってくれた。



 すぐにでも入らせろとごねていた相手にとって、一時間という待ち時間は堪え難いものだったらしい。約束の時間の十分前に戻ってきたその人たちは、一応はフォーマルな格好をしてはいたものの、その醸し出す雰囲気があまりにもとげとげしすぎて、これっぽっちもお客さんらしくなかった。
 入ってきたのは四十がらみの恰幅のいい男性と、茶色の肩より長い髪を縦に巻いた、多分僕たちよりも若い女性。なんとなくその顔に見覚えがあるような気がしなくもないけれど、彼女が一体誰なのか、どこで会った人なのかはっきりと思い出せない。
 まあこれまでの経験からすると、本当に僕と関係のない人か、そうでなければ僕が覚えていたくないと思った人なのだろう。……状況を鑑みるに、後者の可能性が強そうだ。
 それに、そう。彼女のピンクに塗られた唇に、僕は強い不快感を覚えていた。
 これまでは真っ赤な唇にだけ感じていたはずのそれは、僕が警戒して然るべき相手である何よりの証拠だった。
 面倒くさい事態が起きた時のためにと常備しているICレコーダーは、ワカが玄関へと向かった時に録音のスイッチを入れた上でソファの隙間に隠している。
 来客側からそれが見えていない事を確認しつつ、僕は滅多にない来客用の紅茶を機会的に配膳するとワカの隣りに腰を下ろした。ちらりと視線を合わせ、お互いに小さく頷き合ってからワカが切り出した。
「改めてご挨拶させていただきます。私、宗谷と結婚を前提に交際をしております、片山若菜と申します」
 すっと背を伸ばしたまま頭を下げたワカに一瞬見惚れる。けれどすぐに我に返って、僕もぺこりと頭を下げた。
「えと、はじめま……して。宗谷克己です」
 僕の態度が不快だったのか、眉間のしわをより深めて年配の男性が口を開いた。
「交際、だと? しかも結婚を前提に? こっちの事情を理解した上でその物言いか」
 不機嫌も露に吐き出されたその言葉に、どうやら事態は僕が考えているよりも遥かにややこしいらしいと内心で天を仰いだ。
「事情、ですか。それは一体どういった事情なのでしょう? 事前の連絡もなく押しかけられて、こちらとしては正直困惑しているんです。――そもそもお二人はどこのどなた様なのでしょう? 自己紹介もされずに一方的に事情とやらを押し付けられましても対応致しかねるのですが」
 声に温度があるのなら、きっと今のワカの声は零下を切っている。そう断言できるぐらい冷ややかに、慇懃無礼な言葉を口にする。
 幸いにして僕がこの口調を向けられたことはないけれど、実際に向けられた人たちは、一様にその静かな迫力に圧倒されていた。
「わ、私のことはともかく、娘の事はそこの男がよく知っているはずだ」
「? そうなの、ワカ?」
 言葉に戸惑いを混じらせながらも苦々しく告げられた言葉に、僕ははてと首を傾げる。
 瞬間、正面の二人が揃って顔に朱を登らせたのが見えた。
「――ああ、申し訳ございません。宗谷は他人の顔を覚えるのがとても苦手なんです。そもそもあまり注意して他者を見る性質でもありませんし、加えて若い女性の場合、メイクや髪型の似ている人がいると見分けすらついてない事が多いようで……」
 思わずと言った風情で苦笑するワカに、どうやら女性の父親らしい男性がさらに顔を険しくする。
「だが、一年近く一緒に働いていたと娘から聞いている。それで顔を覚えないなどあるものか! 何より、付き合ってた相手の顔がわからんなどあり得んだろう!!」
 あり得ないといわれても、事実は事実だ。それを伝えたくて、言い訳がましくなるのを承知で、僕は実例を伝えることにした。
「ええと、僕は今の職場に二年半ほどいますけど、女性社員できちんと顔を覚えている人なんて片手にも余りますよ。男性社員ですら、最近になってようやく両手を超えたぐらいですし……」
 二年半のうちの約半年は自宅勤務だったけれど、そんな事はいちいち告げる必要はないだろう。そんな細かい事を話したところで、僕が職場の同僚の顔を碌に覚えていないって事実に変わりはないのだし。
「それに、僕が交際をしている相手は、ここにいる片山若菜ただ一人です。彼女とは事情もあって十年以上一緒に暮らしていますし、友人たちもみんな僕たちの事を知っています。そもそも、顔も知らない人と付き合ってるとか言われましても、こちらとしては困るんですが……」
 本気で困惑していたのだけれど、どうやら彼には僕がふざけているように映ってしまったらしい。すでに赤くなっていた顔をドス黒く染めて、僕を激しく睨みつけてきた。
 怒りのままに口を開こうとした彼を制したのはワカの静かな声だった。
「宗谷の認識については多少なりとご理解いただけたかと思います。ですが仮に宗谷がお嬢さんのことを知っていたとしても、私とは面識がないのですからやはり自己紹介していただくのが筋ではありませんか? それとも、こちらに名前を知られては困るような『事情』なのでしょうか?」
 切り口鋭いその指摘に、言葉を吐き出し損ねた男性は、まさしく苦虫を噛み潰したような顔になった。
「――私は風間祐一だ。これは娘の風間杏奈。娘はその男と同じ職場に今年の春から務めている」
「あ、それじゃあ覚えてなくて当然だ」
「克己」
 思わずこぼれた僕の言葉に、ワカがこら、と視線で叱ってくる。とっさに首を竦めて、小さな声でごめんなさいと呟くが、今の状況を思い出して背筋を正した。
「そうですか。はじめまして。それで、どのようなご用件でこうしてこちらの都合も省みず押しかけてこられたのでしょう?」
 ちらりと時計に視線を走らせつつワカが冷静に、しかし皮肉たっぷりに続ける。その様子がどう映ったのかなんて、あえて問う必要もないくらいの苦い顔を隠しもせず、風間氏は唸るように告げた。
「娘が妊娠した。そこの男の子供だ。娘のことを知らんだのなんだのとわけのわからん言い逃れはさせん。正々堂々と男としての責任を取ってもらおうじゃないか!」