かぶ

君だけの僕 ― 冬その二 03 ―

 エントランスの強化ガラスの向こうには、久しぶりに会う人の姿があった。
「大志(たいし)さん、お久しぶりです。今日はお休みの日なのに突然お呼びたてしてすみません」
 言いながら下げた頭に大きな手が触れ、僕の髪をくしゃりとかき混ぜる。その変わらない暖かな手に、僕はほんの少し緊張が解けたような気がした。
「そんな他人行儀な物言いはよせって。これがデート中とかなら恩着せでもしたろうが、今日は特に予定もなかったからな。二度寝でもしようかと思ってたとこだったから丁度良かったんだ」
 そう笑う彼は峰倉(みねくら)大志さん。僕とワカがお世話になった施設の院長先生の息子さんで、学院にいた頃はみんなのいい兄貴分だったし、ワカ以外の女性がまったく駄目だった当時の僕の面倒を、率先して見てくれていたのも彼だ。今は育ってきた環境が物を言ってか、親権問題や虐待問題を主に扱う弁護士として活躍している大志さんに、僕は今でも迷惑をかけ続けている。
「――で、また厄介なのに目ぇ着けられたって?」
「う……はい、すみません」
「あーやーまーるーな。お前が悪い訳じゃないだろ。ああいうのは勝手に涌いて出てくるもんなんだ」
「でも大志さん、僕、これで五……いえ、六回目ですよ?」
「……まあ、人より以上に多いのは事実だけどな。けどお前は、自分から呼び寄せてる訳じゃないだろ。誰彼なくナンパしたり思わせぶりな態度をとるわけでもないんだ。なら、勝手に色々思い込む方が悪い。――しかも今回は、うちのバック目当てだろ?」
「ええ、どうもそうみたいでした。僕のコネ入社がワカを伝ってヨリちゃん経由って事を軽く伝えただけで、なんかパニクってましたし」
 あの時の二人の様子を思い出して、無意識に嘲笑が浮かぶ。そんな僕に困ったような顔になりつつも、大志さんは何も言わない。
「ま、そういう連中ならすぐに追い返せるだろうさ。――でも、いいのか?」
 ほんの少し気遣う顔になる大志さんに、僕は何が? と首を傾げる。
「だから……お前の過去の事とか、相手に知られても。一つ間違えたら、新たな火種を作りかねんぞ」
「僕は気にしませんよ。ワカにはまた苦労をかけるかもしれないけどこんな事で離れたりしないのは僕が一番知ってる。友人たちも、事情を知ってる人が大半だし、知って離れていくのなら、残念だけどそれまでの関係だってことだ」
 きっぱりと言い切れば、やっぱり困ったような顔のまま、大志さんはそうかと一つ頷いた。



「はじめまして。私、片山若菜と宗谷克己を担当している弁護士で、峰倉大志と申します」
 マナー教室のお手本にもなりそうな綺麗なお辞儀と名刺の差し出し方に、僕は毎度の事ながら深く感心してしまう。
 こんな事態は予想していなかったのだろう。件の父娘は突然現れた弁護士の存在に目を白黒させていた。
 それでも彼らが何とか挨拶を終えたところで、大志さんは早々と切りだした。
「さて、それでは早速ですが、本題に入りましょうか。片山からの話では、そちらの――風間杏奈さん、ですか? あなたがこちらの宗谷克己と交際していると一方的に主張しており、またその結果として妊娠に至ったと」
「主張じゃないし。杏奈、宗谷さんとちゃんと付き合ってるし!」
「なるほど。ところで、その『主張』を裏付ける証拠はありますか? お二人で撮った写真や、なんでしたらメールでも構いませんが」
「そ、れは……」
 冷静な大志さんの言葉に、彼女が口ごもる。
 当然だ。僕は彼女と一緒に写真を撮った事もなければメールもした事はない。だからそんなもの、存在しやしない。
「メールとかは、ない、けど。……だ、だって、メッセンジャーで連絡を取り合ってたんだもん! だからどこにも残ってなくてぇ……」
 してやったりと言わんばかりの笑みを浮かべた彼女に、僕は反射的に返した。
「――君が言っているのがうちの会社のIPメッセンジャーなら、三年前からの全社員の全発言が残っているよ。過去に色々あったらしくて、入社直後に依頼されてそういう仕様で作ったからね」
 新入社員に何をと思わなくもなかったけど、きっと強力な後ろ盾を持って入社した僕に対する試験なのだろうと理解して引き受けた。上層部としては、コネはあれどそれ以外のしがらみのない僕なら誰かにおもねる事なくプログラムを組めるだろうという考えもあったらしい。
 ――実際、過去に使用していたアプリケーションは情報セキュリティーなんて全く考慮してないものだったから、ログはサーバー上も暗号化もされず、ただのテキストデータのまま置かれていた。だからディレクトリのパスさえ知っていれば誰でも内容を読めたし、情報改竄だってし放題だった。
 しかも、開発に当たって見せてもらった過去のログには、機密情報から個人情報――それも他人のものだ――までずらりと並んでいて、上司たちの苦労が実に偲ばれた。
「ログ改竄防止のためにクラウド上に大量のバックアップがあるし、扱われている情報が情報だから、閲覧するには部長以上の役職にある三人の承認とID、パスワードが必要だ。――僕自身がトラブルに巻き込まれないためにもバックドアは作ってないし、当時在籍していた腕利きプログラマーが総出でバグチェックとセキュリティチェックをして使用許可が出た曰く付きのアプリケーションなんだ」
「うそ……! だって先輩、設定しなきゃログは残らないって言ってたのに……」
「それは自分のパソコン上の話。ていうか、アプリ入れる時に聞かなかった? 会話内容は監視されてるから、使うのは業務上の内容に限るようにって」
「でも、そんなのただの建前だって……」
「言われてるね。でも、事実は事実だ。――ご希望なら、僕からログ取得依頼を出すよ。君と僕のIPに対する全ログで」
 それなら対象は不明でも、どういう会話をメッセンジャー上で交わしていたのか、全て見ることができる。
 そう付け足したとたん、彼女の顔色が変わった。
 それをはっきりと視界に収めつつ、大志さんは鷹揚に頷く。
「そうだな、今後必要性が出てきたら頼もう。――ところで、妊娠中との事だが、何週目ですか?」
「……よ、四週目よ」
「ああ、という事は、十一月十六日、宗谷の会社で行われた壮行会にて薬物による意識喪失があった夜が一番怪しい、と」
「な、何を言ってる!? それは、一体どういう意味なんだ!?」
 驚愕を顔に貼り付けた父親へと、大志さんは白々しくも驚いた表情を作り、言葉を返す。
「どういう意味、と言われましてもね、その日にお嬢さんと宗谷が性交渉を行ったとしか言い様がありませんが。……ああ、そちらではなく薬物の件ですか? でしたら種明かしは簡単ですよ。ご存知のとおり、片山と同棲中の宗谷が片山以外の女性と性交渉を行ってしまったらしいという事で、身体はともかく心の潔白を証明するために病院で検査をしたんです。宗谷の性器からは片山の物ではない女性の体液が採集され、また血液検査の結果、少量のアルコールと、いわゆるデートピルの成分が検出されました。そのため、犯罪行為が行われたとして、該当の病院から警察へと届けを出しています。とはいえ、当事者の二人が醜聞を嫌って親告しない事にしたため、事件としての扱いは保留されていますが」
 室内を、沈黙が満たす。
 目の前の父娘は、どこかあっけに取られたような表情でぽかんと大志さんを見つめている。
 けれど僕も彼らと同じくらい、大志さんの言葉に衝撃を受けていた。
(あれ、は……あの嫌な夢は……あれは、現実、だった?)
 一ヶ月近く経つのに、切れ切れながらも不愉快極まりない映像――シラナイオンナノヒトのカラダが僕の上で蠢いて――が、僕の記憶に靴底に貼り付いたガムのようにこびりついている。
 でも、あれは夢だ。夢のはずだ。現実だったのはその後の、僕が見た嫌な夢を上書きしてくれたワカとの事だけが現実のはずで……
 無自覚なまま、僕はワカの手を求めていたらしい。さまよう僕の手に気づいたワカは、そっと手を握ってほんの一瞬だけ僕に微笑みかけてくれた。
 まるで、大丈夫だよって言ってくれるみたいに。
 本当に自分でも呆れてしまうくらい単純で現金だと思う。だけどあれだけひどく僕を苛んでいた混乱や不安はピタリと治まって、まずはこの、目の前で起きているすべてを見届けようと思い直す。
「な、に……ナニ、言ってんの? 警察って……それに病院とかマジわけわかんないんだけど!」
「そうですか? 当然の対処だと思いますよ。何しろ彼は、見も知りもしない女性に――もとい見識はあっても恋愛感情を抱いていない女性に、アルコールと薬物で酩酊しているところを強姦されたわけですからね。万が一にもおかしな病気でも移されていたら事ですし、そもそも彼は精神面での無実を恋人に証明する必要があった。それ以前に、同意を得ていない相手に性交渉を強要するのは犯罪です。宗谷は残念ながら女性ではないため暴行罪留まりですがね」
 冷徹極まりない物言いだけど、大志さんは心底からこの手の犯罪を嫌っているので仕方がない。何しろ彼は、物心ついた頃から被害に遭った子供たちを何人も間近に見て育った。だからこそ弁護士という職を選んだのだ。虐げられた子供たちを一人でも救い出し、守るために。
「もうマジ失礼すぎない? 杏奈、病気とか持ってないし! それに何が悪いっていうの? 杏奈は宗谷さんが好きなだけなのに! 好きだから全部知りたくて、それでちょっと強引な事したかもだけど、だけど悪い事じゃないし!」
「へぇ、他人の恋人を無理やり奪うってのは悪い事じゃないんだ。それに、本人にその気がないのに無理やりセックスさせるのも悪い事じゃないんだ。ならあなた、自分が痴漢に遭ったりレイプされても、相手が自分を好きすぎてどうしようもないからって言われたら赦すんだ」
「それとこれとは話別でしょ! 杏奈、好きじゃない人とはえっちしたくないし。それに男の人って、杏奈みたいなコとえっちできたら嬉しいに決まってるし」
「でも、克己は嫌がっていた。言葉でも態度でも、あなたに興味がないと示していたはずよ。――だからあの日、会社であなたに触られて拒否反応示したでしょう?」
「それは……だ、だって、ほら、宗谷さんシャイだから。だからちょっと照れちゃっただけなの! そうでしょ、宗谷さん?」
 上目遣いにこちらを見つめてくるその目に、僕はくらりと眩暈を覚える。同時にじんわりと吐き気がこみ上げてきて、彼女から視線を逸らすと同時にワカにしがみついた。