かぶ

先詠みの詩

「貴女は運命と呼ばれるものがあると、信じておられますか?」
 そう問いかけてきたのは、今夜の夜会にて最も人気を博していた吟遊詩人だった。ほんの少し彼の歌う詩(うた)を聞いたけれど、少し高めの声も、彼の指がかき鳴らすリュートの音も、全てが極上だった。今も、いるのがダンスホールから少し離れたテラスでさえなければ、何か詩を一つとリクエストしたくなるほど、彼は印象的だった。
 最初、彼のその言葉が自分に対するものなのか、それとも他の人に対するものなのか判断が付かず、きょろきょろとあたりを見回してしまった。近くには誰もいない事を確認してから、「私に言っているの?」と返した。
「ええ、そうです。貴女に」
「そうね。私は信じているわ」
「では、わたくしが他人の運命をほんの少し垣間見る事ができると申せば、貴女は信じてくださるでしょうか……?」
 穏やかに微笑みながらも、その瞳はとても真摯だった。曇りなど欠片もない、とても純粋な瞳。室内からの光と、空に浮かぶ月明かりしかないからその色を知る事はできないけれど、なぜかサファイアの色をしているのだろうと不思議な確信があった。
「それも、信じるわ」
「おやおや。こんな得体の知れない吟遊詩人の言葉を、貴女は信じると言うのですか?」
「ええ。だってあなたの瞳は嘘を吐いている瞳じゃないもの。私、他人の嘘を見抜くのはとても得意なのよ」
 ほんの少し得意になってそう答えると、彼はとても嬉しそうに笑みを深めた。
「それは素晴らしい事です。――願わくば、貴女のその他人の本性を見抜く瞳がいつまでも曇りませんよう……」
 囁きにも似た幽かな声が呟く。それは風に乗ってしっかりと届いて、私はほんの少し頬を膨らませた。
「なんだか不吉な言葉ね。それが私の運命と、何か関係があるというの?」
「はい」
「なら、早く教えてちょうだい。そんな風に焦らされたら、気になって仕方ないじゃない」
「かしこまりました。それでは――」
 言って、彼は腕に抱えていたリュートの弦を指先でそっと爪弾いた。その旋律は夜の静寂にも紛れ込みそうなほどささやかで、月の光のように澄み渡っていた。

羽化を迎えし麗なる蝶は 天を優美に舞いましょう
綺羅の翅に触れたいと 数多がその手を伸ばしましょう
願い叶わず身を焦がし 心に雨を降らしましょう

ある時蝶は気づきましょう 稀なる花のある事に
蝶がために咲きましょう 似て非なる花三輪
蜜を湛えて待つでしょう 蝶が己を選ぶ日を

雅に愉楽に遊ばんと 一の花は謳いましょう
覇と権こそが真実と 二の花は告げましょう
君さえあれば至福だと 三の花は微笑いましょう

花から花へと渡りましょう 最上を知るその為に
蝶はいつしか選びましょう 心の導くそのままに
花に止まりて知るでしょう 採した道のその果てを……

 詩はいつ終わっていたのか、気がつけばリュートを腕に抱いた吟遊詩人は、無言でこちらを見つめていた。
「……今の詩が私の運命だと言うの?」
 周りには誰もいないとわかっているのに、私は声を潜めて問うた。
「さようにございます。わたくしは詩によって過去を旅し、現在(いま)を見つめ、未来を識(し)るのです。先程の詩こそが、わたくしが貴女の中に垣間見た未来。いずれ運命が貴女に委ねる選択肢を、わたくしは少し早く伝えただけ。選ぶのは貴女であり、その選択により貴女の運命は大きく変わるでしょう」
「選んだ後がどうなるのかはわからないの?」
 疑問が唇の外に出た時には、既に彼の答えはわかっていた。
「残念ながら。選択の先は、この世の誰にもわかりません。知る者があるとすれば、それは貴女だけでしょう」
「ちょっと待って。私はわからないから訊いているのよ。なのにどうして私が知っているというの?」
「先程も申し上げましたとおり、選ぶのは貴女だからです。貴女が運命を選ばぬ限り、その先に何が待つかは定まらないのです」
 その言葉が私の中に浸透するまで、少しばかり時間が必要だった。彼は私が彼の意味するところを理解するのを待ち、静かな声で言葉を続けた。
「選択肢が与えられるまでには多少の年月があります。与えられてからも、貴女が心を決めるまでには多少の時間があるでしょう。それまでにたくさんの事を見聞きし、他人の本質を見抜くその瞳を曇らせぬよう磨き続け、貴女に最も相応しい扉を見つけてください。わたくしが貴女に望むのは、わたくしの『先詠みの詩』により貴女が幸せになる事だけなのです」
 そうして、まるで言うべき事は全て言ったとばかりに大きく息を吐き、どこか呆然とその場に佇む私を置いて、彼はくるりと踵を返した。
「待ってちょうだい!」
「はい」
 呼びかけに応えて足を止め、彼は肩越しに振り返った。静謐そのものの瞳が私を捉え、ほんの短い間、私は言葉を探しあぐねた。
「どうすれば、あなたの『先詠みの詩』とやらのおかげで私が正しい選択をして幸せになったと、あなたにわかるの?」
 ようやく見つけられた言葉はまるで子供のわがままのようで、ほんの少しだけ自分の幼さが口惜しくなる。
 けれど彼は、私の幼稚さを笑いはしなかった。それどころかむしろ、今の問いかけこそがこの時に最も相応しいと称えるように頷いて、そして口を開いた。
「わたくしにはわかるのです。一度でも『先詠みの詩』を捧げた方の道行きの末は、わたくしの中へと流れてくるのです。それによりわたくしは詩の終わりを知り、新たな物語を紡ぐ事ができるようになる」
「まあ。それではいつか、私の事をあなたが唄うというの?」
「遠い未来のいつかの夜に」
 そんな風に、彼は私の期待に満ちた問いかけを肯定した。
 高鳴る鼓動を抑えるように手を胸に当てて、私は彼に誓うように告げた。
「――私、きっと正しい選択をするわ。あなたの詩が、最良のものとなるように」
「貴女ならばできるでしょう。いつか貴女の詩を歌う日を心待ちにしています」
 これまで少なからず見てきた中で最も優雅な動きで私に礼をした吟遊詩人は、そのまま振り返らずにテラスから室内へと戻っていった。
 一人取り残されたテラスで空を見上げ、彼に誓った言葉をもう一度胸の中で反芻していた。