かぶ

君のいる日常。

「ああもう、また火傷してる」
「……仕方ないじゃん。油跳ねるんだもん」
 帰ってきてシャワーを浴びて綺麗になった身体で薬箱を取り出したところを見咎められて、あたしは毎晩恒例の傷チェックを受けている。
 なんて言うか、栄(さかえ)は過保護だ。あたしが粗忽者って事なんかとっくに知っているはずなのに、小さな火傷や切り傷を作って帰るたび、怒ったような、困ったような顔で溜め息を吐きながら手当てをしてくれる。
「だったら袖、捲くらなければいいだろう?」
「捲くらなかったら長すぎて邪魔だもん。それに、布地越しに熱いのかかったら、そっちの方が危険なんだよ」
「それはそうだけど……」
 はあ、とまた溜め息。
 栄は幼馴染であたしより六つ年上のお兄さん。小さい頃から鍵っ子だったあたしの面倒をみてくれていて、初めて自力で料理を作った頃から、ずっとあたしの傷の手当てをしてくれている。
「……なんていうか、やっぱり嫌なわけ。僕の知らないところで美弥(みや)が怪我してるって考えるのが」
「だけど仕事だし」
「まあそうだけどね」
 そっと苦笑を浮かべて火傷に効く薬を塗ってくれる。……ていうかこの傷は……
「――酷いね、これ。もう膨れてきてる」
「ああ、なんか知らないうちにできてたみたいで、ラストオーダーの後に皿洗いしてて気づいたんだ。ま、絆創膏でも貼っておいたらいいんじゃない? さっさと破って中身出したら痛みも少なくていいんだけど……」
「それはやめなさい。痕が残る」
「……もう十分残ってるけど?」
 真顔で返した栄に、あたしは両腕を差し出しながら真顔で返す。
 あたしはアルバイトでファミリーレストランのキッチンに入っていて、主な担当がフライヤーやコンロを使う調理だったりするものだから、何かと火傷を負いやすい。大抵の小さな油跳ねは放っておいてもすぐに治るんだけど、時々ぷっくり水ぶくれになる事があって、元から痕の残りやすいあたしの手首から十センチほどの範囲には、薄茶色の火傷痕がいくつも残ってる。
「だから、これ以上増やすんじゃないって言ってるの」
 今度は呆れたような溜め息。
 溜め息吐いてばっかりいると幸せが逃げるよーとか言いそうになって、吐かせているのはあたしかとセルフ突っ込み。
「美弥、前から言ってるけどさ、そろそろ僕に美弥を養わせてよ。美弥のとこのおじさんもおばさんも、僕ならいいって言ってくれてるんだよ?」
 手当てを終えてそっと抱きしめてくる栄の肩に頭を乗せて、あたしはうー、と唸る。
「だけどこの仕事やっぱり好きだし」
「僕専属の料理人じゃ物足りない?」
「そ、そういうわけじゃないけど……なんていうか」
 栄は確かにもうすぐ三十路だから結婚とか考えるかもしれないけど、あたしはまだ、いわゆるクリスマス前って年齢だから、もう少し色々試したいって気持ちがあるんだよね。まあ、幼い頃から変わらない夢として「さかえのおよめさん」があるのは事実だけど。
「……あ、のね。もう少し、待って欲しい、かな」
「美弥」
「それにほら、今だってこうして一緒に暮らしてるんだし、ずっと一緒にいる事に変わりないでしょ? そんなに急がなくっても、とか思うんだよね」
「その台詞、もう八回目だよ」
「う……」
 それはつまり、八回もあたしが栄からのプロポーズを断ってるって事で。……うわ、こうして考えると、あたしって結構極悪人? いや、でも、最終的に受け入れるって事はちゃんといつも伝えてるのよ? だから断っているというよりは、受け入れるのを延期しているって言うか……
 ちょっとだけ栄の肩を押して身体を離して、真正面から見詰め合う。ほんの少し寂しげな栄の瞳をまっすぐに見つめて、あたしは言った。
「……ごめんね。でも、好きだよ。好きだけど……まだ、ちょっと怖い」
「……それ、十六歳の誕生日に聞いた気がする」
 小さく笑う栄に、あたしもちょっぴり吹き出した。うん。確かに言った気がする。十六歳になったら栄のコイビトになるって約束してたのに、いざとなると怖くてゴメンナサイをしてしまったのだ。
「そっか。まだ怖いか。じゃあ、もう少し待つよ。でも――なるべく早く、怖くなくなってほしい。僕はね、少しでも早く美弥を僕だけのものにしたいんだ」
 これも、あの日に栄が言った言葉。
 まるで言葉遊びのようだけれど、それでも二人とも真剣なのだ。ただ、あたしより少しばかり年上の栄の方が、あたしよりたくさん覚悟ができていて、あたしよりもほんの少し先を求めてしまってるってだけで。
「ん、がんばる……から、ずっと好きでいてくれる?」
「……二十年近くずっと好きでいるのに、今更心変わりできるはずないだろ」
 はあ、と、諦めにも似た溜め息。けれど少しだけ、嬉しい溜め息にも聞こえた。