その手が、伝えてくれる
今日は栄(さかえ)のご両親が午後から急に二人してお出かけする事になったから、栄の夕飯はうちで用意している。栄のお母さんもあたしも携帯電話は持っていないから、栄はその事をまだ知らない。
勢いよく階段を駆け下りて、玄関に出しっぱなしの自分の靴に足を突っ込んで、扉を開く。
「栄、お帰り!」
いつもならそう元気にかける言葉は、けれど唇から飛び出す前に口の中で凍りついた。
彼の事しか見てなかったから気づいてなかった。彼が、誰かと――あたしの知らない女の人一緒だった、なんて。
「……俺ん家、ここだから」
「やだ、本当に近いのね。でも、駅からは遠いんじゃない?」
「学校中心に考えるから遠く思うんだろ。直線距離で測ればそんなに遠くはないよ」
「そうなの? うーん、あたし地形とか考えるの苦手なのよね……」
家の門扉の前で立ち止まって話す二人はどちらも大人びて見えた。それも当然だろう。女の人は知らないけれど、あたしより六歳年上の栄はもう成人してしまっている。車の免許も持ってるし、お酒だって飲めるのだ。タバコはあたしが嫌いだって言ったせいか、最低でもあたしの前では吸わないけれど。
女の人も、きっと栄と同じくらいの年齢なのだろう。寒くなってきた事もあって薄手のジャケットを羽織っているものの、身に着けている服は綺麗にフィットしていて、その豊満なラインを下品じゃない程度に見せつけている。無意識に自分の、まだまだ未発達な身体を見下ろして一気に気分が重くなった。
「ところで、一つ訊きたい事あるんだけど、いいかな?」
「……何?」
「えっとね、久我(くが)君の好きな女の子のタイプって、どんな子なの?」
「は?」
どくん、と、胸の奥で心臓が鼓動を飛ばす。
幼い頃からあたしの世界の中心はずっと栄だった。一度としてそれが揺らいだ事なんかない。
物心ついたころに交わした幼い約束を一人で勝手に信じていたけれど、それが栄も同じなのか、最後に確かめたのはもう三年近く前――まだあたしが小学生だった頃の事だ。
あたしより先に大人になった栄にとって、あたしはどう考えてもまだまだお子ちゃまだって事はちゃんと知ってる。大人になった栄が、大人の女の人を好きになるのも仕方がないって、分かってる。
だからこそ、軽々しく訊く事ができなくなっていた。
「だから、久我君の好きなタイプ。ほら、久我君って、サークルに入ってもなければコンパにもほとんど出ないでしょ。講義が終わったらほとんど毎日まっすぐ帰ってるみたいだけど、彼女がいるようにも見えないし。だからみんな結構気にしてるのよ。久我君ってどんな子が好きなんだろうって」
「……それで、君が代表してレポーター役に?」
「まあ、そんなところかな。で、答えは?」
「そう、だな……」
言葉を捜しているのだろうか。僅かに落ちた沈黙が破られるのが怖かった。暗い玄関先にしゃがみこんだまま、耳をふさぐ事もできずあたしはじっと息を潜める。
「……手の、綺麗な子、かな」
完全に、息が止まった。
束の間鼓動を忘れていた心臓が、とんでもない勢いで遅れを取り戻すかのように早鐘を打つ。傷だらけの指先が、まるで氷のように冷たく凍えて、触れ合わせても感覚がない。
『お嫁さんになるには、美味しいお料理が作れなくちゃね』
まだ小学校に上がって間もない頃、大きくなったら栄のお嫁さんになりたいって言ったあたしにそう微笑んだ栄のお母さんに習って、小さい頃から台所仕事をずっと手伝っていた。幼さも手伝って初めの頃は失敗続きで、簡単な料理を一品目を作るだけでも切ったり焼いたりしてきた手には、女の子らしからぬ傷跡がいくつもいくつも残っている。
傷だらけの手を小学校ではからかわれてばかりだったけど、その手で作った料理を栄が美味しいと褒めてくれていたから一度も気にした事はなかった。むしろ誇らしく思っていたのに……
……哀しい時や苦しい時は涙が出るんだって思っていたけれど、それが絶望という名を冠する時は泣く事すらできないのだと、初めて知った。
「そうなんだぁ。あ、あたしの手とかってどう?」
「こんなに暗くちゃ見えないし」
「あ、そっか。じゃあ明日見てくれる?」
媚びと艶を含んだ甘い声に、胃の奥がきゅう、と縮こまる。
嫌だ、って叫びたかった。
だけど声を出すどころか、呼吸一つまともにできなくて、あたしはただ、その場でかたかた震えながらうずくまるしかできなかった。
そしてあたしは、栄が口にした次の言葉で完全に叩きのめされた。
「見ても、多分意味ないよ。僕には既に、綺麗な手の子がちゃんといるから」
「そ……れって、つまり付き合ってる人がいるって、事?」
遠くなりかけてきた意識に、僅かに震えた女の人の声が滑り込んできて、あたしはゆっくりと現実へと立ち返る。はぁ、と意識的に呼吸を繰り返していると、いつものように穏やかな栄の声が聞こえてきた。
「そうなるのかな」
「付き合って、長いの?」
「君が想像するより長いと思うけど」
耳に届く栄の言葉一つ一つがあたしの心を突き刺す。耳をふさぎたくて仕方ないのに身体は呪縛されたように動かなくて、心がぴしぴしと音を立ててひび割れていくのがわかる。
「だ、だけど全然女の気配なかったじゃない! 噂にも聞いた事ないわよ!」
「まあ、誰にも話した事ないから」
「……実は、誰にも秘密の関係、とか?」
「まさか。うちの両親も彼女の家族も僕らの事は知ってるよ」
「なっ……」
絶句する彼女の声に、あたしの鼓動がぴたりと重なる。
そんな話、聞いた事ない。栄のお母さんからもお父さんからも、聞かされた事、ない。
もしかして、栄が口止めしていたのだろうか。
「それって……まさかとは思うけど、結婚前提、とか?」
「正式にはまだだけど、約束はしてるね」
ぱきん、と、身体の奥で何かがはじける音がした。
そこから後、彼女と栄がどんな言葉を交わしていたのか、あたしは知らない。
「……や、ねえ美弥(みや)、こんなところで座り込んでどうしたの? 身体も冷え切ってるし……」
心配げな声と、冷たくなった身体を優しくさする手の温かさに、あたしはのろのろと顔を上げた。
目の前にいたのは、大好きな人。幼い頃からあたしの世界の中心で、何より大切でかけがえのない人。
「さ、かえ……?」
「うん、僕だよ」
ふわりと笑って大きな手であたしの頬に触れる。頬もやっぱり凍えていたみたいで、その冷たさに顔を顰めるのが見えた。
「晩飯は美弥のところで食べろってメモがあったから来てみたらこんなところで座り込んでるんだから。気分でも悪いの? 昨日はそんな風に見えなかったけど、風邪でもひいた?」
気遣わしげな顔であたしを見つめる栄に、あたしはまるでぜんまい仕掛けの人形のようなぎこちない動きで手を伸ばす。
デニムのジャケットの前身ごろをかじかむ指できゅっと握って、掠れた声を搾り出した。
「――れ?」
「え?」
「だ、れなの? 栄、誰と、結婚……する、の?」
ようやくそれだけの言葉を口にできた時には、喉の奥に熱いものがこみ上げてきて、鼻がツンとしていた。目の奥にじんわりと何かが広がってくる。けれど今はまだ駄目。栄のいるところでは、絶対駄目。
ぐっと奥歯を噛み締めて衝動を抑えていると、驚いたように目を瞠っていた栄が抑えた声で逆に問い返してきた。
「もしかして、さっきの話、聞いてた?」
どうやらあたしの声はさっきので終わりだったらしい。どうがんばっても声は出そうになかったから、こくりと一つだけ頷いた。
「……どこから?」
「さ、いしょ、から」
ようやく出せた声は、情けないくらい震えていた。
「栄の、手の綺麗な人……って、誰? あたしの知ってる人? あたし、聞いた覚え、ないよ?」
ギリギリのところで涙をこらえて言葉を唇に乗せる。
その言葉を聴いて、一瞬息を呑んだ栄は、けれど次の瞬間ふっと表情を緩めた。
「美弥、もしかして何か勘違いしてない?」
「え?」
「僕はこれまで、結婚の約束したのは一人しかいないよ」
「え……」
嘘、と呟きかけた言葉は口の中であっさりと溶ける。
他の人に対しては知らない。だけど栄は、あたしにだけは嘘を吐いた事はない。なら、栄の言葉が意味するのは……
「だ、だけど言ってたじゃない。手の綺麗な人が好きだって。あ、あた、あたしの手は、綺麗なんかじゃないよ? 火傷とか切り傷でぼろぼろだし、洗剤で荒れててかさかさだし……」
言い訳するみたいに両手を差し出してあたしは言い募る。その手をあっさりと包み込んだ栄は、一昨日の切り傷もまだ生々しい指先に小さなキスを落とした。
「だけどこの手は、美弥がこれまでがんばってきた証だろう? 引け目に思う必要はないし、傷一つない、ネイルだマニキュアなんかで彩った何もできない手なんかより、僕は美弥のこの手の方がずっと綺麗だと思う」
言いながら栄は何度もなんども繰り返しあたしの指先に唇で触れる。
こんな風に――まるで大切だと告げるように触れられるのは初めてで、あたしはどう反応を返せばいいのかわからなくなる。
「じゃあ……結婚の、約束って……」
冷たく凍っていた心が、栄から伝わってくる温かさでじんわりと溶けはじめる。それと同時に、もしかして、という期待が胸の奥でほんのりとした熱と共に灯る。
「美弥は、覚えてない? 美弥が大きくなったら僕のお嫁さんになってくれるって言ったんだよ?」
ぴしん、と、また身体の奥で音がした。
けれどそれは、凍りついていた心が一気に溶けていく雪解けの音。
「――あたしだけ、だと思ってた。あの約束、覚えてるの……」
まさか、と小さく吹き出して、栄は満面に笑みを浮かべる。
「君は信じないかもしれない。だけど僕は、僕のお嫁さんになってくれるって言った美弥に恋をしたんだ。あの日からずっと、美弥は僕の中で一番大切なたった一人だ」
意識するより先に、右目のまなじりから雫が零れ落ちていた。
それがきっかけになって、左目からもしょっぱい水滴が溢れ出す。ほんのしばらく前まで持ち上げる事すらできなかった腕をゆっくりと伸ばして、小さな頃よくやっていたみたいに栄の首にしがみ付く。そういえば、こんな風に触れるのもとても久しぶりだ。懐かしい温かさと、大学生になってから栄が着けるようになったコロンのラストノートに包まれて、あたしは幼い頃に戻ったように素直な気持ちを口にする。
「あたしも、好きだよ。栄の事が好き。ずっと好き」
「うん。知ってる」
くすくすと笑いながら、栄があたしを抱きしめる。子供みたいに好きだと呟きながら泣きじゃくるあたしの背中や頭を宥めるように撫でる手はとても優しくて、栄があたしをどんなに大切に思ってくれているのかが、実感を伴って伝わってきた。
結局泣き止むまでそれからしばらく掛かってしまって、あたしと栄が晩ご飯を食べる事ができたのは、九時近くになってからだった。
そんな風にして、この日はあたしと栄が幼馴染という関係から恋人同士という関係へと踏み出した、記念すべき一日となった。