Kitten Girl
「うわ、でっけぇ」
うっかり漏らした言葉に間髪いれず返されて、俺はぐ、と詰まった。
いや、確かに俺はでっかい。なにしろ身長がさっくりと一九〇を超えていたりする。別にバスケとかバレーをしていたというわけでもないのに、だ。
しかし、目の前にいる彼女は、一般的に見ても小さいんじゃなかろうかと思う。とりあえず、俺のみぞおちより少し上、胸板ぎりぎりのあたりに丁度頭のてっぺんがある感じだ。普通の背丈の女の子なら、なんとか胸板に頭が付く。
着ている物も、制服ではあるが如月学園のものではない。髪はくるくると頭の上にまとめられているから、多分長いのだろう。鋭い釣り目といい、ほっそりとした見た目といい、なんとなくネコを想像してしまう。
「――何よ。何か言いたい事あるなら言えば?」
「いや、特には何も」
と、いうか、ヘタに口を開けばまたちっちゃいとか言ってしまいそうなだけなのだが。
それにしても……彼女はここで何をしているのだろう?
ここ、というのは私立如月学園高等部の化学実験室の事で、俺は化学部の一員であるからして本日のお遊び実験に参加するつもりなのだが ……こんな子は、部員にはいなかったはずだ。
「だーかーら、言いたい事あるなら言いなさいって。ないならないで自己紹介でもする。はい!」
「え? あ、えーと……二年の羽柴秋臣(はしば あきおみ)」
「そう。わたしは山城美央(やましろ みお)。同じく二年で明日から転校してくるの」
「転校? 珍しいな」
「そうみたいね。まあ、親がここの卒業生だったからごり押しが効いたらしいけど、それ自体もかなりレアな事だって聞かされたわ」
またしても素直に出てきた言葉に、美央は苦笑混じりに返す。
「けど……だったらなんでこんなところに?」
「名前聞いてわからなかった? あたし、化学教諭の山城雄太(やましろ ゆうた)のイトコなの。職員室でばったり会ったら、話がしたいからここに来いって鍵渡されたんだけど、ここってどう考えても話するような場所じゃないわよね?」
「あー、うん、それは同感。けど山ちゃん、ここに住み着いてるから、多分ここなら落ち着けるとか思ったんじゃね?」
「……そう」
思いっきり呆れたように呟いて、彼女はぐるりと部屋の中を見回す。
白くて大きな水道付きのテーブルが、十分な間隔をあけて縦横に三つずつ並んでいて、壁には周期表やよく使う化学反応の図式とか、メジャーな化学式とそのカメ……もとい、構造式なんかがべたべたはられてある。時々超絶マイナーな式が混じってたりするのは、この化学実験室の主でもある山ちゃんの趣味だ。
「で、あなたはここで何をしているの? 掃除? それとも補習か何か?」
「じゃなくて。今から化学部の集まりがあるから来たんだけど」
「化学部? そんなものがあるの?」
「あー……半ば以上、山ちゃんの趣味で作られた部だったりするんだけど」
「ああ、そう」
そしてまた、溜め息。
もしかして彼女は、山ちゃんが嫌い、もしくは控えめに言っても苦手なのだろうか。
「あいつ、大人になってもやってる事は一緒なのね……」
そんな呟きが耳に届いたのと、ばたばたと騒々しい足音がとんでもない勢いで近づいてくるのはほとんど同時だった。
「うっしゃー! 俺の勝ち!」
「うっがー! ずるっここいたクセに何を言うか! 今の勝負はナシ! もしくはペナルティでそっちの負け!」
「うっせぇ! ずるしようが何しようが勝負は勝負じゃい! ……って、あれ?」
がらがらばっしゃーん、とでも言うような音を立てて引き戸が開け放たれる。……いつも思うけど、この勢いで開けられて、よく壊れないなこのドア。もしかして特殊加工でもされてるんだろうか。
「山ちゃん、大野、今日は何を賭けてたんだ?」
「APのチキン。三本で割引になるから、どっちが二本食うかで賭けかけっこ」
「で、俺の勝ち、と」
「ちっがーう! そっちがずるこいたんだからあたしの勝ちだ!」
「だから勝負に卑怯も何もねぇってんだ。――と、そうだ。羽柴、このへんでちっこいの見かけなかったか?」
ぜえぜえと息を切らせながら見上げてくる不良教師に、一瞬どう答えるべきかと言い澱む。……ここで見かけたと言っては、彼女をまたしても「ちっこいの」扱いする事にならないだろうか。
「――ここにいるわよ。ていうか雄兄、どうしてそんなにも変わりないわけ? 英(ひで)兄と違いすぎて頭が痛いんだけど」
「はっはっは。俺はオフクロの胎ン中で、英にいいとこ全部持っていかれたからな。文句を言うなら英にしてくれ」
「うっわー、先生それ、理屈になってないー」
床にしゃがみこんで息を整えながら大野まどかが笑う。それに対してうるせぇ、とだけ返し、山ちゃんは美央に視線を戻した。
「ま、適当に座れや。つかまどか。スカートでヤンキー座りはやめろ。覗くぞ」
「下にショートパンツ履いてるから大丈夫ですー」
あっかんべーと舌を出してすっくと立ち上がったまどかは率先して一番近いテーブルに着く。山ちゃんもその後を追って彼女の隣に座り、さっさと来いと、残った二人を手招きした。俺と美央が椅子に座るのを待って、山ちゃんが口を開く。
「羽柴とは話したかもしれないけど、一応紹介しとくな。こっちののっぽが羽柴秋臣で、このオトコオンナが大野まどか。二人とも俺のクラスの生徒で、化学部部員でもある」
「オトコオンナ言うな! ついでに化学部は強制でしょうがっ!」
「まあまあ、文句はまとめて聞くから後にしろ。んで、羽柴、まどか。そっちのちっこいのが山城美央。俺のイトコで明日からお前らのクラスメート兼部活仲間になる」
「――雄兄?」
「なんだ?」
「どうしてわたしが雄兄のクラスに入るわけ? 普通身内なら別のクラスでしょう?」
「それがさ、この学校、二年からは進路および成績で結構シビアにクラスが分けられるんだよ。で、お前の進路と成績を鑑みたところ、俺のクラスに編入が決定したって事だ」
「ふうん。で、わたしの化学部入りがすでに決まっているのはどういう了見なの?」
「お前、身内なのに俺の部に入りたくないとか言い出すのか!?」
「言い出します。雄兄と化学実験なんて、そんな命削るような真似、二度としたくない」
……うん? なんか今、妙なフレーズが聞こえたような?
「二度と、って?」
思った事をそのまま口に出すと、彼女はちらりとこちらを見上げてまた溜め息を吐いた。
「小さい頃から雄兄の無茶につき合わされているんだもの。英兄がいるなら別だけど、ブレーキナシの暴走車にうかうか乗るような真似はしたくないわ」
「あ、それなら大丈夫。そこの羽柴がきちんと止めてくれるから」
「おう。こいつの冷静な突っ込みは英の毒舌よりは弱いだけど、頭冷やすきっかけにはなってくれるからな」
とか言いつつ、俺は所詮頭を冷やす「きっかけ」でしかないわけで、ブレーキになれているとは到底思えないんだけど。
「それでも嫌。絶対碌な事にならないんだから」
「お前、可愛げないなぁ。昔は英より俺に懐いてたってのに」
「何年前の話よ!? 第一あの頃は英兄が怖かったから雄兄に懐かざるを得なかっただけじゃない!」
「ああ、うん。確かにあの頃の英は怖かった。お前の気持ちもわからんわけじゃない。だが、これは既に決定事項。お前が俺のクラスに入るのも、俺の支配する部に入るのも、変更できない事実なのです」
「……最悪」
なんというか、美央の言葉は実に情け容赦がない。横で聞いてて怖いくらいなんですが。
とかいう思いが顔に出てたのか、ふと彼女が俺を見上げてむっとした顔つきで言った。
「別にわたし、誰彼なくこんな風に喋るわけじゃないから。容赦なく喋る相手はきちんと選ぶから安心してちょうだい」
「あー、うん。わかった」
なんかこう、無理やり頷かされたような気がしないでもないが、まあいいか。
けどなんだろう。山ちゃんと美央を見ていると、でっかいわんこに突付かれてはねこパンチで反撃するちっこいノラ猫、な画が浮かんでくる。しかもわんこにダメージはほとんどないみたいな……って、こんな事考えているとバレたら、本気で引っかかれそうだ。
「ところで雄兄。大野さんはもしかしなくても英兄曰く『雄の秘密の彼女』さん?」
「げ」
「うぁ」
不意打ちの攻撃に、二人は一瞬で撃沈した。
……これで学校には知られてないんだからすごいよな。まあ、ノリがノリだから、この二人を恋愛関係で一括りにする人がほとんどいないだけなんだけど。
「――聞いた時はいくらなんでもとか思ったんだけど、本当だったとはね……呆れた」
「美央、この事は――」
「言わないわよ。言ったところで面倒なだけだし」
ふん、とそっぽを向く美央はぴんと伸びた背筋といい、つんと澄ました横顔といい、やっぱりネコみたいだ。
うーん、ヤバイな。俺、こういう気位が高くて毛並みのいいネコ見てると……
「……ちょっと、何してるの?」
「あ」
しまった。うっかり手が頭撫でてた。
でも、ネコじゃない証拠に速攻で引っかかれないあたりちょっと嬉しい。ガキの頃からこんな事してネコに引っ掻かれた回数は数え切れないし。
「ごめん。つい」
ぱっと手を離すけどギロリとこっちを睨みつける目は変わらない。
やばいなぁ。この子、本気で俺のネコ好きゴコロを全力でくすぐってくる。
「まったく……なによこの部。変なのしかいないじゃない」
「はっはっは。まあそう言うな。この学校、何かとつんけんした連中が多いけど、こいつらは比較的まともな方だぜ。お前も嫌いだろ。家柄重視でちゃらちゃらした奴ら」
「それはそうだけど……」
山ちゃんの言葉に首肯しながらも、彼女は納得していないようだった。
「まあ、どうせあんまりまともな活動してないからな。文化祭では一応部を上げてイベントやるけど、それ以外はほとんど暇つぶし部みたいになってるんだ。まどかは大抵宿題してるだけだし、羽柴なんか時代物小説山のように積み上げて延々と読んでる事もあるぜ」
「そうそう。結局はさ、はみ出し者達が集まって、暇と寂しさを紛らわそうの会って感じ。たまに山ちゃんの思いつきで妙な実験やったりするけど」
少しばかり説明がアレな気がしないでもないけど、あながち間違ってるわけじゃない。
強引に部員にされた当初こそ一体何のつもりだなんて身構えていたけど、結局はまどかの言ったとおりの事が山ちゃんの目的だと、時間が経つにつれてわかってきたのだ。
……まあ、後悔した事がないといえば嘘になるんだけど。
「だから甘んじて入っておけよ。他に入りたい部があるなら掛け持ちでもいいからさ」
にかっと笑った山ちゃんは、机越しに伸ばした手で美央の頭をわしゃわしゃと撫でる。
髪が乱れる! って反論が脊髄反射のスピードで入るかと避難準備した俺は、けれどむっとしながらもおとなしく撫でられている彼女へとまじまじと視線を向けた。
「――何よ」
「や、なんでも」
ぎろりと睨まれて視線を逸らす。
やっぱりこの反応、俺のツボどんぴしゃだ。ここまで来ると真剣にあれだ。かーなりあっさりと惚れそうだ。
……なんて悪あがきしてる時点で、俺の場合多分もう引き返せなかったりするんだけど。
そんな事をもやもやと考えていた俺の視界の端で、妙な笑みを浮かべた山ちゃんが指先で俺を呼んでいた。ここで無視しても結果は酷くなるばかりだと経験から判断し、誘われるままに身を乗り出したとたん、がしっと首に腕を回された。
「な、何ですか」
「んー、いや、俺はさ、別にいいんだよね。ただ、あいつは英が溺愛してるから、戦う相手は俺の兄貴になるぜ」
「お強いですか?」
「俺と同じで空手二段な上、この学園でトップ争い組だった」
「……強すぎじゃないですか」
心底嘆息する俺に、山ちゃんは実に楽しげに言ってのけた。
「ま、俺は応援してやるよ。ちなみに本人はかなりツンデレタイプだから、なんとかがんばってデレさせろ」
「ぶはっ」
思いっきり吹き出してしまう。いや、うん、ツンデレは典型的なネコ性質だと思うから結構趣味だけど、彼女にデレて貰うって結構難しくそうじゃないか!?
「英攻略には手ぇ貸すけど、本人攻略は自力でやれよ。その方が達成感もあるし、自分に自信がつくからな」
まあがんばれや、とばしばし背中を叩かれる。
「ねーねー、男同士で何の内緒話? あたしも混ぜてよ!」
「男同士の内緒話だから女は入れられないのですヨ?」
「ケチ!」
「ケチと言われようがここは譲れないのでス。諦めるがいいのデス」
あっというまにいつものノリでぎゃーぎゃーと騒ぎ始める二人を、美央が呆れた目で眺めていた。
その隣に座りなおした俺は、ほんの少しばかり勇気を出して彼女の腕を肘で突付いた。
「?」
「え……と、さ。とりあえず、これからよろしく」
……うわ、なんか全然決まらねえ。
なんて自己嫌悪に落ち込みかけた時、美央がふわりと表情を和らげた。
「こちらこそ、よろしくね」
初めて見る彼女の素直な笑顔にころりとヤられた俺は、馬鹿みたいにかくかくと頷きを返したのだった。