唐突にかけられた声に、沢木幸広(さわき ゆきひろ)が顔を上げると、簡易なパーティションで仕切られた休憩ブースに総務課の水谷紀香(みずたに のりか)が入ってくるのが見えた。
「ああ……面倒くさいのが一段落したから」
こまごまとした手続きを依頼する以外ではあまり話した事のない相手だからと、思いっきりだらけさせていた姿勢を少しはまともなものに直した。それを見て、紀香はピンクの口元に手を当ててくすくすと笑う。今年で社会人三年目という彼女の笑顔はどこか幼くて、下心も何もなく、純粋に可愛らしいなと思う。
こんな風に思うのは自分が三十路間近だからか、それとも紀香の笑顔を前にした人間はみんなそう思うのか――まあ、別にそんな事はどちらでもいいのだけれど。
生来の性質なのかとても明るく人懐っこいため、彼女は総務以外の課にも顔が広く知られていて、まるでマスコットか何かのように可愛がられている。おかげで彼女が参加する飲み会には、課を問わず参加者が多い。
「別に気にしないでもいいのに。誰にもチクったりしませんよ?」
「や、それ以前に、だらけた姿って人に見せるのアレだと思うし……」
「そうですか? まあ、好感度マイナスな相手ならなに考えてんだとか思いますけど」
笑いながら少し長めの前髪を掻き揚げる。いつもは隠れている耳が露になって、なぜか変なところでどくりと血が騒いだ。
「……ところで沢木さん、何か甘いものとか持ってません?」
「へ? 甘いもの?」
「はい。あ、別に甘くなくてもいいんです。おやつになりそうなものならなんでもいいんですが……その、少し口さびしいもので」
困ったような顔で言う彼女に、幸広は残念、と首を振る。
「俺、甘いものとか全然食わないタチでさ。デスクに戻れば板ガムぐらいはあるけど今は持ってないな」
「そう、ですか……それは残念ですね」
口ではそう言いながらも、幸広を見つめる彼女の目はどこか楽しげに煌めいている。
これは……何だろう。どこかで見た事があるような光なのだけれど、なぜか咄嗟には思い出せない。
そんな事を考えている間に、紀香は目的だったらしい「感じるみかん」を自販機で購入し、蓋を開けて一口飲む。
「ん~~っ! やっぱりこれ好き……!」
満面に笑みを浮かべ、力を篭めてコメントする紀香に幸広は小さく吹き出す。やっぱりこの子のリアクションは見ていて楽しい。なんだろう。まるで小動物でも眺めているような気分になってくる。これが噂の癒し系ってやつだろうか?
「――あの、あたし何か変な事してました?」
「え? ああ、いや、水谷さんのリアクションが可愛いなって思って……」
完全に気が抜けていたところでの質問だったため、うっかり考えていた事がそのまま口からすべり出る。
しまった、と思った時には既に言い切っていて、幸広は久しぶりに顔が思いっきり熱くなるのを感じた。
そんな幸広をきょとんとした顔でしばらく見つめていた紀香は、どこか気恥ずかしげな笑みを浮かべて言う。
「沢木さん、意外と口上手いんですね。さすがは営業部のエースってところですか」
「や、そういうんじゃなくて……」
「でも、そういう事を言うのは相手選んでにしないと困った事になりかねないから気をつけてた方がいいですよ」
あっさりした口調で言いながら、紀香が目の前にやってくる。なんだろうと思う間もなく、彼女は上体を屈めて幸広の肩へとボトルと小銭入れを持たない手を載せた。
「そだ、これ、お菓子くれなかった罰ですから」
にっこりと笑った彼女の顔が近づいてくる。状況を理解するより前に、柔らかくて暖かなものが唇に触れた。
「んで、これはあたしからのお菓子です。ので、いたずらの仕返しはなしですよ?」
呆然としている幸広を尻目に、彼女はパタパタと軽い足音を立てて休憩ブースから出て行く。
その足音が完全に聞こえなくなってようやく、幸広は自分が紀香にキスされたのだと理解した。
(あれは一体何だったんだ……?)
部屋に戻る前にトイレに寄る。鏡を見た感じでは、彼女のリップは移ってないように見えた。それを確認しながら、幸広は今更にリップが移るような事をした――というかされたのだと改めて理解する。
(俺……水谷さんとキス、したんだ……よな)
それはあまりにも突然で、かつ一瞬の事だったため、なんだかやけに実感がない。うっかりすればあれは単なる妄想だと片付けてしまえそうなくらいに記憶に儚い。
それが現実だと言う証拠は、幸広のポケットの中に放り込んだままのミルキー一粒だけだ。
「マジ、ワケわかんねぇ……」
シンクに両手を突いて、はぁ、と盛大に息を吐く。一体何がどうしてあんな事が起きたのか、真剣にわからない。
そんな風に一人悩んでいると、ドアが開いて同僚の井坂(いさか)が入ってきた。
「一息か?」
「入れてきたとこ。お前も?」
「いや、俺は……」
言いかけて苦笑を浮かべる。
「お前さ、今日総務の水谷さんに会ったか?」
「あ? あ、ああ、さっき……その、休憩ブースで……」
あまりにもクリティカルなタイミングとネタに、自然と声が上ずる。けれどそれに気づかなかった様子で井坂は続けた。
「んじゃさ、お菓子ねだられなかった?」
「……菓子?」
「うん、俺も。けど持ってなくてさ。したら見事やられちまったよ」
なぜか、声が喉の奥に詰まる。
「…………お前、も、やられたのか?」
出た声が情けないほどに掠れていて、自分がショックを受けているのだと知る。けれどその理由がわからない。
「おう、やられたやられた。もうべったりと。ほれ、この通り」
「は?」
ひょいと差し出されたのは左手の平。
そこには、まるで小学校の先生が使うような「残念でした」と真ん中に書かれたスタンプが、赤いインクでべったりと押されていた。
「ほら、今日ってハロウィーンだろ? それで出会う人出会う人にこのいたずらして回ってるらしいぜ。この手のお遊びが好きな連中は、お菓子持っててもあえて渡さずスタンプ押してもらってたりしてさ」
「ス、タンプ……」
明かされたタネは、けれど幸広の疑問を完全に解消するには足りない。
「おう。お前もやられたんだろ? どこだ?」
「……それ以外は、何も?」
「は?」
「だから、されたいたずら。スタンプ以外のいたずらはないのか?」
それを聞いたのはなぜなのか。ただ、確認しなければ、という思いだけが頭の中を巡っていた。
「いや、俺が聞いたところじゃスタンプだけらしいぜ。まあ、やる分にも簡単だし、やられた方も被害は小さいし、上手いと思わねぇ?」
「そ……だな」
「で、お前はどこにやられた?」
「あー……同じ所に。でも、もう洗い流したから」
あっさりと偽りを口にしながら、少しずつ混乱していた頭が冴えてくるのを自覚する。
どうやら幸広は、他人とは一味違ったいたずらをされてしまったらしい。それはなぜなのか。そして、なぜあのいたずらだったのか。
自然と浮かんでくる結論はこれ以上になく自惚れに満ちたもので。
「…………これは、きっちりお返ししないとな…………」
無意識に企みまくった笑みが浮かんでくる。それを聞いて、あれ、と用を足し終えた井坂が首を傾げる。
「お前、菓子貰わなかったのか?」
「貰ったけど」
「なら、いたずらし返すのはルール違反だろ」
「別に、いたずらの仕返しじゃない」
にやりと企みに満ちた笑みを浮かべ、幸広は言う。その言葉に井坂は実に訝しげな表情になる。
「はぁ?」
「お前には関係ない事だし、変な事するつもりもないから気にするな」
「……まあ、お前がそう言うなら別にいいけどさ……」
これっぽっちも納得していない顔で言い、手を洗いはじめた井坂に先に戻ると告げて幸広はトイレを出る。
営業部の部屋に戻るまでの間に、大まかな策が組みあがる。後は細かいところを詰めて実行に移すだけだ。
「さて、いたずらな魔女はどんな反応を示してくれるかな……?」
最後にそう呟いて、幸広は企みも露な笑みをその顔いっぱいに広げたのだった。