かぶ

Rain

「あ、雨……」
 ぽつりと漏れた言葉に、傍らの気配が身じろぎする。
 五月の終わりとともに季節は春から梅雨へと移ろいかけている。そのせいか、最近の空はいつも重苦しいどんよりとした雲を敷き詰めていて、地上にいるはずなのに、アタシはまるで水の底にでもいるかのように、どうしようもなく息苦しく感じてしまう。湿度の関係もあるのだろうけれど、季節に係わらず雨はどうにも苦手だ。
 それに――雨は、アタシの中にある一番最悪な記憶に直結してる。
 とは言っても、それはあまりに幼い頃の出来事だから、今ではもうほとんど掠れている。ただ、しぶとく残っているトラウマの欠片で気鬱がする程度の事。
 だけど最近、アタシはこの季節がほんの少し好きになりつつある。
「マジ?」
「うん。……どうしよう。傘、ないよ? 濡れちゃうんじゃないの?」
「知ってる」
 ほんの数秒前までまどろんでいたせいで、声がどうしようもなく物憂げに艶めいている。微睡みに落ちる前まで耳元で囁かれていたそれとはまた違う声なのに、熱が収まったはずの身体の奥がずくんとはしたない疼きを覚える。
 シングルベッドの上で掛け布団を分け合っているから、ちょっとでも不用意に動いてしまえば、すぐに素のままの身体が露わになる。ベッドの下に投げ落としたシャツを拾いたいけれど、アタシがいるのは窓際。つまり、ベッドの向こう側に手を伸ばすには、どうがんばっても邪魔が入ってしまうってワケ。……今度から、前もってこっちがわにシャツを置いておこうかなぁ。
 薄暗い部屋の中、ぼんやりと光を投げている時計の蛍光文字盤を確認すると、もう夕食の時間に近くなっていた。学校が終わったのがお昼過ぎだから、かれこれ六時間近くこの部屋にふたりでいた事になる。そのうち半分くらいはきちんと服を着ていたはずだけど、その残りは……うううん、駄目だ、考えちゃ駄目だ。
 それにしても、駆け出しにしては人気の高いメイクアップ・アーティストなくせに、アタシの都合を見計らっているかのように目の前に現れては、アタシを捕まえてしまう。いくら高速で一本だからと言っても、山手線の内側からここまでって、どう考えても結構遠い。
 なのに彼は、アタシに会うためにやってきて、いつまでも帰りたくないとごねる。そうして雨が降れば、視界の悪さを理由に、アタシに引き止めてほしがるんだ。
「止むの待ってたら、帰り、遅くなっちゃうよ」
「――帰れって言うなら、帰るけど」
 そっけなく言いながらも、彼は寝そべったままで。乱れた前髪の間から見上げてくる瞳は甘えたような色を持っていて、アタシには無理に帰すつもりがないって知ってるよ、と告げてくる。
 何もかも見透かしているようなその態度が癪に障って、アタシは窓の外へと視線を逃がし、そっけなく返した。
「帰りたいなら、帰れば」
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
 くすくすと笑いながら、うーんと伸びをして、ほにゃ、とした表情でまた見上げてくる。
「どうせならずっと雨が降ってればいいのに。そしたらお前、俺の事無理に返そうとしなくなるだろ?」
「だけど忙しいんでしょ? アタシに構ってる暇なんてないはずなのに」
「暇なんて、その気になればいくらでも作れるもんなんだよ」
 『時間なんか、その気があればいくらでも作れるよ?』
 甘えた声に、まだ幼かった頃のあの子の声が重なって、アタシは思わず笑いを零した。
「どした?」
「んー……ちょっと、思い出して」
「何それ。思い出したって何を? 誰を?」
 さっきまでののんびりムードが一気に不機嫌モードへと下降する。あれ、もしかして、なんか妙な誤解されてない?
「言っとくけど、思い出したのは下の子の事だからね。ほら、前にも話したでしょ。その中でも一番頭いい子なんだけどさ。その子がまったく同じ事言ってたんだよね。中学三年生の分際で」
「うわぁ、俺の発言って中三レベル?」
「ま、中三って言っても、如月で特待生やれるレベルの中三だけどね」
 枕へと撃沈した彼に、アタシはやっぱりくすくすと笑いながら慰めの言葉を投げる。
「……ああ、あの子。なら俺も少しは救われたかも」
 何度も染めたり脱色したりしたせいで、すっかりパサパサになっている髪をかき上げながら、彼は細い腕を伸ばしてくる。雨とチガウコトのせいですっかりカールは落ちてしまったけれど、顔の周りでふんわりと波打たせていたアッシュ・グレーの髪を長い指でそっとどけて、去年のクリスマスに開けてもらったピアス穴を指先でくすぐる。
「また?」
「ん。お前が俺を信頼してくれた印その二だから」
 その一が何なのかは、一々聞かなくてもわかる。……ああもう、なんでこんな男を好きになってしまったんだろう?
「ねえ、おなか、空かない?」
「……空かなくはないけど」
「けど?」
「メシより先に、お前食わせて? 明日は朝が早いから、その分先に欲しいんだ」
 朝には雨も上がってるかもしれないし。
 そっと付け足された言葉に、胸がツキンと痛んだ。
 雨が上がれば、アタシが彼を引き止める言い訳がなくなってしまう。東京に帰らないでと、言えなくなってしまう。
 心配なのは、事故だけじゃない。このあたりも、他の地域に比べればまだ開けているけれど、東京と比較したらはるかに田舎だと評価される。アタシだって美容師になるための専門学校に行ってるって身の上で、つまりは学生なのだという事実に変わりはない。
 向こうにいる、洗練されたオトナの女性たちになんか、逆立ちしたって勝てるはずがない。
 だから、心配してしまう。向こうでもっといい人を見つけてしまうんじゃないだろうかって。そうでなくても、向こうで忙しくしているうちに、アタシの事なんか忘れちゃうんじゃないだろうかって。
 そんな不安が、顔に出ていたんだろうか。耳たぶをくすぐっていた指が、髪の生え際を辿って首の後ろへと流れ、ぐいと彼の方へと引き寄せられた。
「な、に?」
「雨、降って嬉しいだろ?」
「どうして?」
「俺が帰らなくてもよくなったから」
 にんまりと笑いながら、もう一方の腕も伸ばしてアタシを抱きしめる。
 あんまりにも的確に図星を指されて反応を反せずにいる間に、アタシは気が付けば、彼の下で組み敷かれていて。
「じょう、だん……」
「……な、わけない。俺はいつだって本気だ。もっとお前を食いたいってのも、お前に才能を見つけたのも、お前の事が好きだって事も」
 首筋に口付けながら囁かれると、言葉が皮膚を通して身体から心へと浸透してくるような錯覚に陥る。いつもはお客さんを綺麗にするためにせわしなく動いている器用な指は、今はアタシを愛するためだけに肌の上を滑っている。人の肌に触れるのだからと手入れを怠らない指は、薬剤のせいで嫌でもぼろぼろになってしまうアタシの指と違って、いつもしっとりと肌に馴染む。雨のためか濃厚な湿気も手伝って、触れ合う肌はいつもより密に溶け合う。
 雨の事が、ずっと好きになれなかった。雨はアタシをひとりぼっちにさせたから。
 けれどもし、雨が理由で彼を引き止められるのなら。彼とこんなふうにぴたりと重なれるのなら。
「ずっと、降ってればいい」
 熱い息の間からそっと吐き出して、アタシは汗でしっとりと濡れた彼の背中をしっかりと抱きしめた。