はじまりは、花火
そんな風に声をかけられたのは、コンビニのレジに程近い一角、花火がずらりと並べられている棚の前での出会い頭だった。
そのコンビニがあるのはあたしが働いている会社の入った雑居ビルの一階で、近くにはオフィスビルがいくつもあるから、お昼休みは当然ながら、朝も、勤務時間中も、定時後でさえ、勤め人な見た目の人たちが、ちょっとしたおやつやドリンクなんかを買いに来てる。
ちなみに今は定時終了後の帰りの時間で、あたしがわざわざコンビニに立ち寄ったのは、お昼に買った紙パック入りコーヒーが定時を待たずになくなってしまったから。や、飲んだのはあたしだけど、やっぱさ、三十分以上も飲み物を飲まないってのはどうかと思うのよ、個人的に。なわけで、今のあたしは切実に帰宅のお供となる何かが必要なわけで、こっそりお気に入りなやっぱり紙パック入りのグレープフルーツジュースを購入し、さて帰るかと入り口に向かって歩き始めたところだった。
あたしに声をかけてきたのは、同じ店をよく利用している他の会社の人で、何度か顔を見かけた事があるだけの人。クールビズしてるのか、ブルーのストライプが入った爽やかな印象の半袖シャツにはネクタイが締められていないし、首元も少しばかり緩められていて……って、あ、いや、その、おっきな喉仏が男らしくてステキだ、なんて事は思ってませんよ? ええ、これっぽっちも、まったくもって!
実はこんな近くで並ぶのもあたしの記憶にある限りでは初めてで、五センチヒールを履いているせいか視線が意外と近いって事を発見した。だけど別に背が低いってわけじゃなくて。整っているというよりは、どっちかって言うと愛嬌のある顔立ちで、あんまり長くない髪をつんつんした感じに固めている。顔といい、髪型といい、なんとなくやんちゃな少年っぽくて、カッコイイってな言葉よりは、むしろ男性に言うのは禁句とされている方の形容詞が出てきてしまいそうだ。
……まあ、ここまで言えばわかるかもだけど、うん、あたし、彼に対して悪い印象は持ってないんだよね。てか、むしろ持ってるのは好印象? てか、そうでもなけりゃ、同じコンビニを使ってるってだけの人を一々覚えてるわけないか。あはははは。
で、だ。これまでずっと「同じコンビニを使っている者同士」って距離を保っていたのが、たった今、直球で破られた。
こんな事は正直予想していなかったから反応にしばらく戸惑って、あたしは実に間抜けな声で鸚鵡返しに呟いていた。
「花火……?」
「うん。ほら、売ってるし」
指差されるまでもなく、確かに目の前の陳列棚には花火がある。昔から変わらない、子供っぽい絵が描かれていて、いろんな種類の手持ち花火や打ち上げ花火がセットになった、どっちかって言うとけばけばしいあれ。子供の頃は夏が来るたびに両親にねだって買ってもらって、近くの公園や旅行で行った先の砂浜なんかで、盛大にキャーキャー叫びながら楽しんでた。
だけどさすがにこの歳にもなると……や、やっぱりなってもやりたいかもだけど。
「もしかして、花火、嫌い?」
「や、それ以前に、なんであたし……なんですか?」
タメ語で話しかけられたからうっかりこっちもタメ語で返しかけたけど、いけないいいけない。この人はトモダチですらないただの顔見知り。それも文字通り顔を見知っているだけの人。となればきちんと礼儀ってものを尽くさなければ。
「んー、やっぱ夏近いし、花火好きだし? それにもうすぐ梅雨だろ。じめじめする前に花火やって色々発散しておきたいかなって」
「はぁ」
「あとは、まあ……きっかけ作りって言うか」
たははと照れたように笑った彼は、元々人懐っこい顔をしているのだけれど、いっそう邪気のない顔になっている。
「残業前の息抜きで来てみたら、君がいたから、つい。その、実は前から声かけたいなって思っててさ……」
「そ、なんですか」
「そ、なんです」
テレを残したまま、少し背を屈めて彼はあたしとぴったり視線を合わせる。
「それで……どう、かな。近々俺と、花火、しない?」
これはナンパです、ってな事を言ったのだから、別に花火から離れてもいいはずなのにそれを誘い文句にするとは……ううむ、こやつ、よほどの花火好きらしい。
ほんの少しからかってやりたい気分になって、あたしはうーんと唸りながら考える振りをする。
「あたしは別に構いませんけど、どこでやるつもりですか?」
「……浜、とか?」
「はまって、どこの浜ですか? この近所、海はありますけど、花火ができそうな浜ってないはずですよね?」
「――と、思うだろ? 実はあるんだ。国鉄前の国道渡ったところにマックあるっしょ? あれと隣のマンションの間に細い道があって、その先が浜になってるんだ。規模としちゃめっさちっちゃいけど、どうも存在をほとんど知られてないみたいで、人があまりいないんだ。だから静かだし、ごみとかも全然ない」
水も綺麗なんだ。にんまりと笑って彼が返す。その顔を見ながら、もしかして彼は、このあたりの出身なんだろうかと考えた。そうでなければ、知り合いか同僚にこのあたりが地元の人がいるのだろう。そうでなくて、どうしてそんなスポットを知っているというのか。
なんとなくその、あまり知られていないというちっちゃな浜が気になって、あたしは実にあっさり頷いた。
「じゃあ、そこでいいです。いつにします?」
とたん、ぱあっと表情が明るくなる。うわぁ、わかりやすい人だなぁ。
けど、こういう感情表現が素直な人って、あたしは好きだ。
あたしの職場にも女の子で一人、こんな風に感情の変化がわかりやすい子がいるけれど、その子は会社中のみんなからマスコットみたいに可愛がられている。参考までに、うちの部署のほかの女性陣はといえば、可愛らしい彼女とは逆で感情表現が少し苦手っぽいハンサムな子と、感情表現は率直なのだけれど、むしろ豪快ってな形容詞が実にお似合いのオネエサマと、そしてちょっぴり捻くれぎみのあたしという組み合わせになっている。
今日もオネエサマは、お気に入りのマスコット嬢をみっちり鍛えるために残業するって言ってたから、偶然にもこの場に居合わせてこの状況を目撃される、という恐れは多分あんまりないと思う。万が一にも見られたりしたら、明日のお昼がちょっとどころでなく恐ろしい事になってしまう。いや、あの人の追及には愛が溢れているから怖いとかじゃないのだけれど、徹底してずびずばと追求される上、実に楽しげに弄ばれるってだけで。ああ、愛されるって苦しい。
「君さ、今日はもう帰るんだろ? 俺はさっきも言ったとおり、これから残業なんだ。さすがに今から終わるまで待っててって言うのは心苦しいんで……ええと、さっそく明日とか、予定どう? 天気予報では週末まで晴れだったし、俺も残業なさそうだから」
「明日でしたら、特に予定は入ってませんが」
「だったら、明日にしよう。仕事が終わったらここで待ち合わせして、花火買って、どこかで茶して、メシ食って、花火って流れでどう?」
「はい、了解です」
にっこり笑うと、にぱっと笑い返された。うう、言いたい。言ってやりたい。笑顔が可愛いですねと、声を大にして言ってやりたい。
「じゃあ、明日、帰りにここで。そだ、その時はさ、できれば敬語じゃなくてタメでしゃべってほしいな」
「あ、はい……うん、わかった」
ちょっぴり眉毛が下がったのを見て言い直す。とたんにまた、彼の顔に笑顔が戻ってきた。
ああ、やっぱりいいな、この人。多分あたし、彼の事、好きになる。
軽食を買うからと店の奥に向かう彼に手を振ってから、あたしはまだ蒸してない、涼しい夕暮れの中を歩き始める。夏はまだ。だけどきっともう、すぐそこにいる。
さっき買ったばかりのひんやりと冷えたグレープフルーツジュースにストローを挿して、歩き飲みしながら駅へと向かう。
ビルとビルの間の十字路をいくつか通って大きな道路を渡った。信号や飛び出す車には邪魔されなかったので、ちょっぴりラッキーな気分になる。
地下鉄の駅に降りる階段の途中で、あたしははたと足を止めた。
「――名前、訊くの忘れてた……」
なんという初歩的なミスだろう。しかも名前だけじゃなく、携帯電話の番号だとかメールアドレスも交換してないし。これでもし明日、万が一にも何か都合が悪くなって行けなくなったらどうしろって言うの!? いや、同じ職場で働いてる人に伝言すりゃいいやって即効で正解が出てきたけど、それでもさあ!
はぁ、と息を吐いてからひんやりとしたドリンクを一口こくんと飲んで、また階段を降りる。ぼけっと突っ立ってたら通行の邪魔だし。
まあいいや。今から戻るのもアレだし、どうせ明日には会えるんだし。きっと彼も、今頃あたしと同じ事に気づいているはずだ。もしかしたらくそーとか言いながら地団太踏んでるかもしれない。だから明日、待ち合わせの時か、お昼休みとかに顔を会わせた時、二人して笑いあって、それから改めて自己紹介からはじめよう。
じりじりと火が点いたり消えたりする、ちょっと湿気た間の抜けた花火みたいな恋の予感に、あたしの心はぱちんと一つ、綺麗な火花をはじけさせた。