かぶ

幸せな呪い

 その大陸に平和が訪れたのは、ほんの十数年前。それよりも前は、いわゆる群雄割拠の戦国時代でした。
 そんな中、大陸の中でも五指に入る国の一つに、戦国の世において誰もが理想と崇めるような皇太子がいました。
 彼はまるで戦神が戦火で鍛え上げたような鋼の肉体と、美の女神が自らの恋人にするために丹念に造形したのではないかと言われるほどの美丈夫でした。豊かな髪は夜の空を紡いだように黒く艶やかで、その肌は日に焼けて浅黒い。凛々しく太い眉の下の深い眼窩の奥には太陽のような黄金の瞳が嵌っており、高くて形のいい鼻も、その直下にある引き締まった薄い唇も、意志の強さを見せ付ける強固な顎も、その全てが誰もの目を奪いました。それがため、彼を見た女たちは悉く心を奪われ、彼を相手取った敵兵は、いかなる勇者であってもその勇気をくじかれるのでした。
 しかしそんなある日、彼の皇太子に唐突に結婚話が持ち上がったのです。
 そもそものきっかけは、いつまでたっても終わらない戦を憂えた皇太子が、国一番の占術師に戦争を終わらせる方法を問い、その結果を元に大陸から船で十日かけてようやくたどり着くような孤島に住んでいた魔女に助力を乞うた事にありました。
 魔女も美しい皇太子に惹かれたのでしょうか、皇太子の国を守護する代わりに、自分を妻として娶るようにと交換条件を出したのです。
 初めは驚き、戸惑い、また自分の優位を笠に着て無理難題を吹っかけるのかと怒りさえした皇太子でしたが、彼もいずれ国王となる身。すべては国の、民のためだと自らに言い聞かせ、魔女を妻として迎え入れました。
 その一因として、魔女がその名前から与えられる印象に反して、若くて美しい面立ちをしていたというのもあるでしょう。彼女はまさに月の光のような白銀の髪と、抜けるように白い肌、彼女の住んでいた島を取り巻いていた海を思わせる紺碧の瞳、そして紅薔薇の唇を持っていたのです。
 皇太子に嫁いだ魔女は確かに素晴らしい力の持ち主でした。
 成婚の夜、城の最上階にて彼女が披露した魔法はたちまちに効果を発揮し、皇太子の国へと進軍してきた他国の兵たちは、国境を越えたとたんに越えたはずの国境から一日をかけてようやく辿り着けるはずの場所へと彷徨い出てしまうようになったのです。
 一般の民であれば何事もなく皇太子の国へと入っていけるのにと考え、間諜や暗殺者を送り込もうともしたのですが、どうやら魔女の守護は人々の悪心に反応するらしく、悪しき目的を持つものは、悉くが自国へと彷徨い戻ったのでした。
 事実上、皇太子の国は他国に侵されることのなくなったのですが、その代わり、他国へ侵略する事もなくなりました。それは魔女の力が及ぶ範囲がその時点での国の広さが限界だったからだとも、自分の能力を際限なく利用されたくないと魔女が反発したからだとも言われています。ただその真相は、魔女と皇太子以外の者は知るよしもないのでした。
 そうしてある意味に於いて無敵であり、また戦争を放棄したその国には、少しでも優位な国交を結びたいと望む国々から、数多の美姫が送り込まれるようになりました。
 元々魔女を愛して妻にしたわけではない皇太子はこれ幸いにと後宮を作り、妻である魔女を遠ざけて、彼に媚を売る女たちに溺れるようになったのです。
 妻として、また国守りとして皇太子の代わりに表立って働きはじめたのですが、いずれは正妃となる身にありながら、後宮の女たちに夫を奪われ、昼も夜もなく働き続ける事を苦痛に思い始めました。
 そうしてとうとうある日、後宮で女たちと戯れる皇太子の下に赴き、怒りと哀しみに蒼褪め、やつれた顔で告げたのです。
『わたくしはこれまで、この国のために、貴方のために、力を尽くして参りました。けれど貴方はわたくしに何も返してはくれない。それどころか、わたくしをないがしろにし、またわたくしの力を過信してその役割を果たそうとされていない。これ以上、貴方に利用されるのは耐えられません』
『耐えられないだと? それはこちらの台詞だ。私は望みもしないのにお前を娶った。それはお前が私に命じたからだ。愛せもしない女を妻に取らされた私の身にもなって考えてみよ』
 傲慢に言い放った皇太子に対する魔女の反応は、実に冷ややかな笑みでした。
『それが、貴方のお望みなのですか? でしたらわたくしはこの国を去り、元いた島へと戻りましょう。――ご安心ください。わたくしがこの国にかけた守護は、貴方のお血筋がこの世に残る限り消える事はありません。貴方はここで好きなだけ、女人と欲に溺れているがいい』
 言い切って立ち去ろうとした魔女は、しかし皇太子の腕によって引き止められました。
『お前の言葉が真実だと、どうすればわかる? お前が去ったその瞬間に、どうして周囲の国々が軍隊を雪崩れ込ませぬと信じられる?』
『わたくしは魔女なのです。魔女は偽りを告げる事はできないように生まれついているのです。ですからこうして傷つけられても痛みを感じないふりをする事すらもできません。貴方がここに通うたび、わたくしの心は引き裂かれ、絶望に身を浸してしまいたくなる。そうなればわたくしの存在は、この国にとって災禍を呼び込むだけの存在になってしまいます。ですからこうしてお願いをしているのです。わたくしを、貴方から解放してください、と』
 輝きを失った瞳からはらはらと銀色の雫を零しながら告げる魔女に、さすがの皇太子も罪悪感を抱いたのでしょう。けれどそれでも、彼はやはり恵まれる事に慣れすぎていたのです。自分が望んだわけではないと言いながらも、一度は手に入れたものを手放す事が、どうにも悔しく思えて仕方なりませんでした。
 そうしてしばらく考えた皇太子は、妙案を思いついたと快活に笑いました。
『ならば私がお前を大切に扱えばそれでいいのか? ここに来る回数を減らし、その分をお前と過ごせば、それでお前は満足できるのではないか?』
『いいえ、残念ながら、その程度では到底足りません。わたくしはわたくしの全てを貴方のために捧げると誓いました。であれば貴方も、貴方の全てをわたくしに捧げていただかなくては不公平がすぎます。それが耐え難いというのであれば、どうか、どうかわたくしを島へ帰らせてください。あの島へは、二度と誰も寄せ付けないようにいたします。ですから他の国がわたくしの助力を得る事もない。そうすれば、貴方も安心なされましょう?』
 哀しげに、けれどどこまでも綺麗に微笑んだ魔女を見て、皇太子はその時改めて自分の妻がどれほど美しい女なのかを認識したのです。そうなれば、手放すなどもっての他。彼はその場に跪いて、暇を請う妻へと考え直してくれるようにと頼み込んだのです。
 初めは戸惑った魔女も、いつしか夫のその熱心な態度に絆され、残る事を決意しました。これが二人の転機になってくれればいいと、そう強く願いながら。
 けれどその願いも、程なく打ち砕かれるのです。
 半年も経たないうちに、また新たに送り込まれた美女を求めて後宮へと向かうようになった皇太子を呼び出すと、彼女は再び最後通牒を突きつけました。当然、皇太子は魔女を手放したくないと返します。もう二度と他の女たちには目を向けないからと繰り返し告げるのですが、彼女は既に、皇太子の言葉を信じる事ができなくなっていました。
『貴方の言葉はもはや信じられません。ですから代わりに、わたくしの魔法をかけましょう。貴方に対して色欲を持つ相手と、貴方が色欲を持った相手の目にのみ、貴方がその人にとって、最も触れたくないと、触れられたくないと思うような容姿に映る呪いを。それ以外の、貴方を貴方として見る者には今の貴方の姿が映る、そんな呪いをかけましょう』
 それが嫌なのならば、そう繰り返した魔女に、皇太子はその言葉の意味を深く考える事もなく頷きました。愛してはおらずとも、美しく賢く有能な妻を手放したくないというその一心だけで。
 魔女は、夫とした皇太子の愚かさに嘆きながら、口にした通りの魔法をかけました。
 皇太子を寝台へと誘いたいと願う者の目と皇太子が寝台へと誘いたいと願った者の目にはおぞましい姿に映るように。
 そんな欲望を持たない者には、正しく彼の姿が映るように。
 魔法はすぐに効力を発揮し、それまで後宮で皇太子の寵を得、贅沢な暮らしをしていた女たちは、見る間に暇を請うて国を去っていきました。どんなに栄華を、権力を、贅沢を望んでいようとも、自分にとって最も醜い姿の男に――その本来の姿がどんなに美しかろうと、抱かれたくはないと、誰もが拒否したのです。
 中にはそれでも我慢をして抱かれようとした女もいましたが、理性がいくら命じても、心が、本能が拒否するのでは愉しむ事も、愉しませる事もできるはずがありません。結局、誰一人として後宮には残る事はありませんでした。
 その事実を、皇太子は深く憤り、哀しみました。そしてその怒りを呪いをかけた魔女へと向けたのです。
 怒りを向けている間は顔を蒼褪め、強張らせているのも当然と思って何も考えなかった皇太子ですが、その怒りをぶつけるだけぶつけた後でようやく落ち着きを取り戻してからも、否、それ以上に、彼女を妻として触れようとするたびに気付けるか気付けないかという程の僅かな間ではありますが、嫌悪を思わせる表情を見せる事に気付いたのです。
 初めはそれを、彼女の罪悪感からなのだと、もしくは皇太子の怒りに対する怯えが残っているからなのだと考えていたのですが、ある時、彼はとうとう気付いてしまったのです。
『――まさか私は、お前にも化け物に見えるのか?』
『……見えないはずが、ないでしょう。わたくしの魔力は、あのような島に自ら幽閉を決めなければならないほどに強いのです。細かい制御など、利くはずもありません。けれどわたくしは貴方を欲しいと思っていて、貴方もわたくしをそういった意味で求めておられます。特に今は、他の女性がいないのですから、貴方の欲望はいつもよりはるかに強い』
 どんな姿が見えているのか、皇太子自身にはわかりません。けれど魔女の蒼褪めた顔から、震える声から、それはきっと、身の毛もよだつようなものなのだろうと想像は付きました。
『お前はなぜ、そこまでして……』
『ご存知、なかったと言うのですか? わたくしは、初めから貴方に惹かれておりました。そうでなくて、どうしてわたくしがわざわざ貴方に嫁いだと思うのです? 助力するだけならば、あの島から一時的に出てきて守護の魔法を使うだけでよかったのに』
 ふわりと微笑んで、全身を強張らせた皇太子へと、魔女は距離を縮めます。
『ああ、でも不思議だこと。こんな怖ろしげな、おぞましいほどの姿だというのに、どうしてわたくしは貴方を貴方だとわかってしまうのでしょう。こうしてまだ、触れたいと願ってしまうのでしょう。どうしてこんなにも、貴方を愛しているのでしょう』
 囁いて、魔女は踵を浮かし、皇太子の唇へと口付けました。
 それはけっして、二人にとってはじめての口付けではありませんでしたが、皇太子にとってはこの口付けこそが、生まれてはじめて受けた、心からの口付けだったのです。
 魔女にかけられた魔法は、皇太子にとっては確かに呪いでした。けれど今は違います。呪いは呪いでも、愛という名の幸せな呪いとなったのです。