別れの条件
こんなにも驚いた事は、五十年近い人生の中でも数えるほどにしかない。むしろ嬉々として受け入れるべき返答だというのに、男はとっさに聞き返していた。
「お、お前……自分の言った事、わかってんのか?」
「ええ、わかってます。あの人から離れろってお話ですよね。私としては、別に文句も何もありません。了承しましょう」
「そりゃあ……なんつーか、話が早くてこっちとしちゃあ、まあ……」
いざとなれば力に任せてでも頷かせてくれる、と意気込んでやってきただけに、拍子抜けがすぎた。そんな男に、女はただし、と柔らかな声で付け加える。
「ひとつだけ、条件があります」
「あぁ? 何だ? 金か?」
そうらきたと、ほくそえむ様な呟きが頭の中で暗く響く。しかし。
「そんなものじゃありません。――安全を、保障していただきたいんです」
「安全?」
はてな、と首をひねる。
そりゃあたしかに、彼女の立場を妬む者は多くいる。彼女の男は表向き、日本でも有数のIT会社社長の座についている。ただし、その会社は全国区域暴力団のフロント企業であり、社長である男は、痕跡こそ残していないものの、バックについている暴力団を一手に仕切る男の息子なのだ。
そんな男の傍に侍りたいと望む女は数知れずいるし、自分の息がかかった女をそばに置きたがる男もやはり数多いる。実際、自分も同じような企みを持っているからこそ、こうしてこの女の元へと直談判に来たのだ。
それ故に彼女の周りには厳重な警護があるのだし、住まう家にもアリ一匹忍び込めないようなセキュリティが敷かれている。
正直、こうして男が彼女と二人きりで話しているというこの状況は、いっそ奇跡に近いものだ。
けれどそれも、男の寵愛がある間だけの事だ。男から離れさえすれば、女が狙われる理由など、どこにもないはずだった。
「安全ってなぁ、どういう意味だ?」
「……あなた、あの人の側近じゃないんですか? ああ、そうでした。ヤクザって、縦の繋がりは強くても、横の繋がりは皆無に等しいんでしたね」
呆れ果てたように問われ、決して長くない導火線に火がつく。しかしそれを無理やりにもみ消し、辛抱強く問いを重ねた。
「それとこれとは関係がねぇだろうが。あんたさえ姿を消せば、誰も何もやりやしねぇし心配なんぞなくなるだろうが」
「ええ、そうですね。今、私が守られている理由は、確かになくなりますね」
でも、そう続けてため息を吐き出した女の目には、荒事を潜り抜けてきた自信のある男でさえもぞっとさせるような諦念が浮かんでいた。
整形など入っていないのだろう、不自然なシンメトリーでないその顔は、けれど造形のプロが精緻の極みでもって作り上げた人形のように綺麗な造りをしている。笑みを浮かべていたのなら、きっとその場にいる全ての目を奪うほどに綺麗だろうに、なんでまた、そんな表情をしているのか。
その答えは、彼女の静か過ぎる声が教えてくれた。
「私の周囲に及ぶ被害を誰が止めてくれるのです?」
「――んだと?」
「私、人質を取られているんです。それも、一人どころじゃなく。家族に親族、友人たちと彼らの周囲の人々。あの人から逃げたりすれば、私が大切に思っている人たちや、その周囲に危害が及ぶんです。実例を挙げましょうか? 私があの人に浚われてきた当初、押し込められたマンションから抜け出したその翌日、兄が轢き逃げに遭って鎖骨と利き腕を折りました。それからしばらくして仕事をさせろと詰め寄った時には、恋人がころころ変わる友人の、当時における三代前の恋人が覚えのない借金を被せられまして、お人よしの友人は、その余波で危うく借金漬けになるところでした。私以外の女性の元にも通えと言った三日後には、従姉妹の親友である女性がスケコマシに引っ掛けられまして、その扱いをどうしようかと実に楽しげに問われましたよ」
淡々と語られる内容に、冷たい汗が背中を伝うのを感じる。
いや、内容そのものではない。それが意味するところが、恐ろしかった。この女はつまるところ、自分を男から引き離すというのであれば、自分を取り巻く全ての人間を何が何でも守りきれと言っているのだ。
そんな事――一体誰に、できると言うのだ。
「まあ、今となっては色々諦めましたし、元々あの人の事を嫌いだったわけでもないですし、いいかげん情も沸いたので傍にいるのもやぶさかじゃないんです。けれど離れるとなると、今言ったように色々面倒くさいんです。まあ、あの人が私を捨てるなんて状況になれば話は別だと思うんですが」
いっそそうしてもらえたら気苦労もないんですけどね。
誰からも羨まれるような男の寵愛を受けている身としては、不遜極まりない言葉を吐き出しつつ、彼女はひたと目の前の男を見つめる。
「それで、どうなんです? あなたに、私が今守っている全てを、私に代わって守る事ができるんですか? できるというのなら、いくらでもあの人の元からいなくなって差し上げます。そういうの、結構得意なもので。ただし、私の知り合いのうち誰か一人でもあの人の手にかかるような事があれば、私はあの人の元に舞い戻って、誰の差し金で姿を消したのか、洗いざらいぶちまけさせていただきますが」
これが、酷薄な笑みなどを浮かべての言葉であれば、こんな思いはしなかっただろう。
その、感情の浮かばない、まるで黒ガラスのような目が、いっそ恐ろしかった。
「阿呆な事を申しました。わしの言った事は、一切忘れてやってください」
腹を決め、手を突くまでの数十秒は、男にとってもっとも長い数十秒となった。そして、その返事を待つ数秒の間も。
「いらない波風を立てるのは趣味じゃないんです。もう忘れました」
本当にどうでもいいと言いたげなその言葉に、全身の力が抜けるような安堵を感じた。
実にあっさりと男の存在を意識から除外して手元にあった本を読み始めたその女へと改めて平伏をして、男はその部屋を立ち去った。
それから半年の後、自分のしでかした事をすっかり忘れかけた頃、唐突に女の護衛に就けられた男は命じる男の実に楽しげな笑みと、その男への呆れと自分への哀れみを隠しもしない女を見て、早まった事をした過去の自分を心底から恨む事になる。