かぶ

So it begins

 その日、ナタリア・ジョーンズはこれまでにない緊張感を味わいながら、白い扉の前に立っていた。
 深呼吸を数度繰り返し、軽く喉を鳴らして調子を整え、微かに震える手を持ち上げた。
 コン、コン、と、規則正しくノックをすると、大して待つことなく「Come in」の声が聞こえる。
 最後にもう一度深く吸い込んだ息を吐き出し、「Excuse me」と返しながら冷たいスチールのノブを引き下ろした。
 ビルや社内の内装から想像していたのとあまり変わらない、モダンで機能的なオフィス用品でまとめられたいっそ無機質な部屋の奥、広いデスクの向こうに悠々と腰掛けてこちらを見つめている男性の姿に、一瞬息が止まった。
 ローランド・アルマン。学生時代にいくつか開発したウェブサービスをそれぞれ順調にヒットさせ、現在はアメリカ国内でも十指に入るIT企業のトップとして活躍している。
 噂では、実家が伝統ある大企業で本人も御曹司であるとか言われているけれど、そんな噂も納得できる程度の気品と、育ちゆえに培ったらしい傲慢さが、離れた距離にあっても感じられた。
(写真とか噂は知ってたけど……本気で男前なのね)
 メディア上では黒っぽく見えていたけれど、こうして見ると赤みがかった茶色、とでも言うべきか、どことなく不思議な色合いの髪になんとなく目が惹かれる。親友のヘアスタイリストが見たりしたら、きっとこの色合いを作り出すためのカラーリング剤の配合にかかりっきりになって、きっと一週間は部屋から出てこなくなるだろう。
 ……などと実にとぼけた事を考えていたのは、実際にはそう大して長い時間ではなかった。
「どうぞ、そちらの椅子に掛けてくれ」
「ありがとうございます」
 指されたのは、以前雑誌で見た北欧デザインの機能的チェアだ。流麗なフォルムに見合った実に素敵なお値段をしていたそれに、まさか自分が腰を下ろす日がくるだなんて夢にも思っていなかった。
 思いがけない幸運に喜びがこみ上げてきて、無意識に頬が緩む。先ほどまでとは異なった緊張感を抱えながら滑らかなレザーを指先でそっと撫で、恐ろしく座り心地のいいそれに身を収めると、改めて正面にいる人物へと視線を向けた。
 なるほど、近くで見ると光の加減か髪は黒味を増して見える。天然なのか、それとも人工か、柔らかにウェーブを描くそれはとても柔らかそうだ。秀でた額とすっと刷かれた眉は絶妙のバランスを保っており、その下の深い眼窩に嵌った瞳は深い藍にも翠にも見えた。
 少し細めながらも通った鼻筋はどこか気難しい印象で、それをきゅっと結ばれた薄い唇が決定付けている。鋭角な頬から顎にかけてのラインに、濃い髪色の人にはありがちな剃り跡もまったく残っていないあたり、本当に神経質なのかもしれない。
 車での移動が多そうなのに肌の色は微かに黄金を宿していて、意外と外を出歩くことが多いのかもしれないとふと思った。
「――さて、それでは早速だが面接を始めようか。名前はナタリア・ジョーンズ。これまでいくつかの企業で重役秘書をしていたようだね。リファレンスもすばらしいものを受け取っているが……こうして企業を渡り歩いている理由を尋ねても?」
 なんというか、予想以上に直截的だ。色々準備をしてきたと言うのにそれらのすべてが無駄になった気がして、ほんの一瞬動揺が走る。けれどこういったアクシデントは嫌いじゃない。ゆっくりと呼吸を整え、まっすぐに相手の視線を受け止めると、ナタリアは口を開いた。
「そうですね。理由はいくつかありますが、色々な業界を渡る事で自身の見聞と能力を広げたいから、というものが一番大きいでしょうか。どのような業界であっても基本的な秘書としての業務には大きな違いはありませんが、必要とされるプラスアルファの知識がまったく変わってまいります。そのためそれまで表面的にしか知らなかった物事を深く学ぶいい機会として捉えてもおります」
「ほう。つまり学習欲と向上心を満たすため、というわけか」
「そう……ですね。そう考えていただいて結構です」
 なんて、実際には単なる知識欲だ。自分ひとりではどうしても探求する分野が偏ってしまうから、あえてまったく知らない業界に飛び込んでは貪欲に得られる情報を手に入れる。重役秘書なんて役職を狙うのも、彼らは大抵の場合もっとも深い知識を持っていて、また誰かにそういった知識を教える事を好むと知っているからだ。
 正直、そうして与えられた知識だけで、貰っていたお給料の半分は返還してもいいなんて思えるだけの価値があった。
「ならば今回当社に職を求めてきたのは、IT関係の知識を身につけたいと思ったからだというわけか?」
「はい。システムエンジニアやプログラマとして実際に業界内で働くのも面白そうだと思い、友人の助けを借りつつ独学でプログラミングなどを学ぼうともしました。ですが単純なプログラムならともかく、ルーチンやマクロなどが複雑に込み入ってくると何が何なのかさっぱり理解できなくなってしまう事に気づきまして。なのでこれまでどおり、外側から吸収できるだけの知識を吸収したいと思い、秘書職に応募しました」
 いくつかのプログラミング言語の外郭や特徴を掴む程度には理解できたけれど、実際に自分で簡単なアプリケーションを作る事さえできず、泣く泣く諦めたのだ。
「なるほど、ではいくつか質問をするので答えていただこうか」
 どこか愉しげな光を目に宿す面接者の挑戦を、ナタリアは堂々と受け取った。矢継ぎ早に投げられる専門用語だらけの質問にはきはきと答え、詳しくない分野はその旨を伝えた上で自分の意見を率直に伝える。
 はじめは単なる知識の確認だったはずが、気が付けばシステム開発における手法だとか、ユーザーインターフェース手法についての考察、更にはSEOへの最新アプローチに関する意見まで求められ、途中から自分は一体何の役職の面接に来たのだろうかと戸惑いを覚えたりもした。
(ま、百パーセントとは言えないまでも、八割がたはそれなりに答えられたのだから十分よね! よくやったあたし!)
 心の中で密かに自画自賛しているナタリアの耳に、深く柔らかな声が、この日初めて感情らしい感情を浮かべて届いた。
「なるほど、君の学習欲は確かにかなりのものだ。それだけの知識があれば、十分に現場でも指示を取れそうだが……いや、やはり秘書に留め置いた方がいいな。うっかり地位を奪われては困る」
 ただでさえ整っている顔が、満足げな笑みを浮かべたとたん、恐ろしいくらいの魅力を放つ。
(――あ、なんとなくわかった。ここの秘書が長く続かない理由)
 残念ながらとでも言うべきか、ナタリアにとって見た目の良し悪しは二の次、三の次だ。どんな美形が目の前にいても、あくまで観賞用としては堪能するけれど、それだけで恋に落ちるなんてありえない。
 だからこそ、なんとしてでもこの仕事を得たかった。
「そのお言葉、採用されたとして受け止めてしまいそうですが、よろしいのですか?」
 たぶんこの人にはこれくらい強気で出る方が効果的だろう。そう判断して、自分でも傲慢だと思うくらい強気な口調を作る。
 結果はすぐに出た。
「ああ。そうだな。現時点でほぼ採用だ」
「ほぼ、ですか?」
 いっそ意味不明な言葉に思わず眉をしかめる。そんなナタリアをどこか尊大な表情で眺めつつ、ローランドは口を開いた。
「答えたくなければ答えなくていい。……君は、結婚しているのか?」
 あまりにも予想外すぎる質問に、一瞬ぽかんとしてしまった。
「は? ――いえ、していません。していた事もありません」
「なるほど。では、私生活を共にする恋人やパートナーはいるかい?」
「残念ながら。私、そういった方面に対する欲求が、どうも知識欲に流れているようなので」
 これはもしかしてセクハラだろうか。などと考えつつ、これ以上の質問を牽制するためにも事実を述べる。
「ほう? それはまた。だが、そういう人がいるのもまた事実だな」
 何か一人で納得しているらしく、ふむふむと頷く相手に地味に苛立ちが募る。
(結局この人は何が知りたいの? どうせならこれまでと同じくはっきり言い出してくれたらいいのに!)
 内心での叫びを聞き取ったわけではないだろう。けれどそうとしか思えない理由で、彼はこう告げたのだ。
「なら、君が僕に恋をして仕事を疎かにする心配はないというわけだ」
「……………………は?」
 実に、そう、実に満足そうに微笑んで告げられたその言葉に、今度こそナタリアの思考は完全に停止した。
 けれどそんな彼女に気づいた様子もなく、実に上機嫌なローランドは言葉を続ける。
「いや、これまで何人かいたんだ。秘書として雇ったというのに、なぜか僕の私生活まで采配しようとするようになる女性秘書がね。だから女性を雇う場合は、既に恋愛関係にあるか、結婚している女性でない限り雇わないようにしているんだ。本来であれば、君もこの最後の質問で落とすべきなのだけれど、うん、君なら大丈夫そうだ」
 なんだろう、この傲慢極まりないセリフは。それになんなのだ。決まった相手がいるなら自分に恋しないと決め付けるとか、実は結構なロマンチストなのだろうか、この人は。
 そもそも、だ。面接の時点で自分に恋されては困るなんて告げるとか、これってまるっきり――
(ロマンス小説のヒーロー気取りじゃない……!)
 そう思い至った時点で、もう駄目だった。
 一気に、冷めた。たしかにあったはずの緊張すら、瞬時に消えた。
 確かにナタリアは、特別美人でもなければかといって不細工でもない。両親から受け継いだ暗めの金髪はきちんと櫛を通しているし、眉も野暮ったく見えない程度には手入れをしている。けれどメイク自体は(そもそも今日は面接なのだから)けっして華美なものではなかった。スーツだって実用性重視のぱっとしないものだ。
 その上できちんと知識があり、これまでの会話の中で媚めいたものを見せなかった事で、ちょっとした事で勘違いをして恋に落ちる、地味だけど純情で夢見がちな女性でもないとでも判断したのだろうか。
 けれど、いくらなんでもそういった考えは侮辱が過ぎないだろうか。
(女だったら誰でも自分に惚れるとか思ってるわけ? 傲慢にも程があるってのよ!)
 どうやら採用の判断は下されたようだけれど、正直、辞退してやろうかと真剣に思う程度の怒りを覚えていた。かといってせっかくの採用を無駄に棒に振るのは口惜しい。こんな男はどうでもいいが、得られるはずの待遇と経験と知識とお給料が、実に惜しかった。
 ゆっくりと、息を吸う。
 静かに長く呼気を吐きながら、荒れる感情を凍らせた。
「――そうですね。確かに、私であれば大丈夫でしょう。男性を恋の相手として選ぶ際、相手の美醜や財産や社会的地位はは特に気にした事はありませんので」
 にっこりと微笑んでやると、さすがに不穏を感じたのか、ローランドの表情が僅かに改まる。
「ですが、もしこちらで働かせていただけるのでしたら、ミスター・アルマンにも、多少の努力はお願いするかもしれませんわ」
「努力、とは?」
「もちろん、私をあなたに恋させないための努力です」
 形のいい眉を跳ね上げた暫定上司に、にっこりと笑みを返して滔々と語り始める。
「あなたが本当に恋されたくないと思うのであれば、女性に対する接し方を若干改められた方がいいかもしれませんね。色々やり方はあるでしょうが、一番いいのは徹底的にビジネスライクな態度に徹し、素のご自身をけっして見せないことです。その上で、職務上はともかく、それ以上の信頼を預けない。弱っている面や私生活を見せるなどもってのほかです。握手はいいとして、ハグやキスなどといった身体的接触も厳禁ですし、感謝の印としてアクセサリーや花を贈るのもよろしくはありません。そういう場合はいっそボーナスとして現金か小切手を渡すべきでしょう。また、どうしても必要な場合を除いて家族や友人の話をするのも好ましくないかもしれません。また、恋人がいらっしゃるのであれば、そういった方々との関係を見せつけるのもいい傾向ではないようです。万が一、来客として該当する方々が訪問される場合には、前もってその方々の事を、人としてではなくデータとして伝えるべきです。――そうして徹底的に『君とはビジネス以外で繋がるつもりはない』と見せておけば、はじめからあなたを夫や恋人候補として求めてくる相手でなければ、うっかりいらない勘違いなどしないのではないでしょうか」
 言い切る頃にはさすがに当初の怒りも収まっていて、自分でも実に秘書然として締めくくれたと思った。
 けれどこの言い分は、ローランドには多少どころでなく不満な内容だったらしい。
「――なるほど、つまり、君は僕にも非があったため彼女たちは僕に恋をしてしまったと言いたいのか」
「非、とまでは申しません。ただ、女性は男性に隙や私的な面を見せられると弱い性質があるようですので、そういった事が頻繁に起きると、自分だけに特別に見せてくれているんだ、と勘違いしてしまう傾向にあるようです。ですのでそのあたりを気を付けさえすれば、私以外の方でも特に問題はないかと存じます」
「それは君自身の経験から出た言葉か?」
「私自身の経験も若干はありますが、それ以上に友人やこれまで周囲にいた女性たちを観察してきた結果、でしょうか。単純に男性遍歴が華やかな方や、どうしようもない恋愛体質な友人が少なからずおりますので……」
「だが、今僕たちが話題にしているのは君だろう?」
 きらりと、色味のよくわからない瞳が光る。
 それに何か不穏なものを感じ、ナタリアは小首を傾げた。
「は? え、ええ、そうでしたね」
「では、問題ないだろう。何しろ君は僕の見た目には興味がない上、恋愛ごとに対する欲求は知識欲に向いているとのことなのだからね。――君で決まりだ。来週の月曜日から来てくれ。レセプションに話は通しておく」
「さようでございますか。ありがとうございます」
 礼の言葉を返しつつ、にんまりと、まるで獲物を前にしたネコ科の大型獣のような笑みを浮かべる新上司に、どうやら何かを酷く間違えてしまったらしいとナタリアは内心深く嘆息した。