如月学園大学部のカフェテリアで俊哉(しゅんや)と昼食を摂っていた真奈実(まなみ)は、完全に箸を止めて深く考え込んでいる彼にそっと声をかけた。
「俊哉君、何を考えてるの?」
「あ、ごめん。何でもないんだ」
「本当に、何もないの? 最近ずっとこうじゃない……」
「心配かけてごめんね。だけどマナが心配する事は何もないよ」
何事もなかったかのように微笑む俊哉に、真奈実は小さく息を吐く。
考え事をしているっていうのに、何を訊いても教えてくれない……。自分はそんなにも頼りないのだろうか。
彼がこんな風に考え込む様子を見せはじめた日を、真奈実ははっきりと覚えている。
あれは、そう。十一月も終わりに近づいたある日の事だった――
『ねえ、マナ。クリスマスは何かしたい事とかある?』
『うーん……特にこれっていうのは、ない、かなぁ……』
熱く甘い時間を過ごした後の気だるさの中で、真奈実はどこかぼんやりと返す。
『本当に? 都内のレストランでディナーデートとかしてみたいと思わない?』
『あたしはそういうの、あんまり……』
『……マナって、本当にそういうところ、欲がないよね』
くすくすと笑って髪にキスを落とし、俊哉は今にも寝入ってしまいそうな恋人の肩を抱き寄せる。
『じゃあ、プレゼントは何がいい? 言ってくれたらなんでも用意するよ?』
『突然言われても、咄嗟には思いつかないよ……』
『全然突然じゃないだろ。前々から考えててって言ってたじゃない』
『だけど……本当に思いつかないし』
困ったように息を吐く真奈実の髪をそっと梳いて、額に唇を落とす。
『マナって、どうしてそんなに欲がないかなぁ』
『別に、欲がないってわけじゃないよ。ただ、今はどうしても欲しいってものがないだけ』
『本当に?』
『……うん』
返事が返るまでのほんの僅かなタイムラグに気づいて、俊哉が真奈実の顔を覗き込む。
『マナ? 素直になってごらん? 何が欲しいんだい?』
『あたしは、ただ……俊哉君とこうしていられたら、それで十分だもん。』
『本当に? 何か隠してない?』
俊哉の裸の胸に頬を摺り寄せる真奈実の肩を抱きながら、俊哉は重ねて問う。けれど今度は、間を置かずに答えが返ってくる。
『ないよ。……もう、やだな。そんな顔しないで』
どこか哀しげな顔をして見つめてくる俊哉の頬をそっと撫で、真奈実は柔らかに微笑む。
『本当だよ。あたしは俊哉君と一緒にいられる時間さえあれば、本当に満足なの』
『ああもうマナ、君って子は本当に……僕を喜ばせるのが上手すぎる』
『え、や、俊哉く――んんっ!?』
唐突に痛いくらい強く抱きしめられ、真奈実が驚きの声を上げる。けれどその声は、途中で俊哉の唇に塞がれる。そのまま思いも寄らない激しさで貪られ、ようやく治まりかけていた身体の熱が一気に再燃する。
『ふぁっ、ん……んんっ、う……ぁ、や、ぁんっ、駄目、そこは……あぁあっ!』
『可愛いね、マナ。……うん、いいよ、そのまま僕を感じて……』
煽り立てるように身体をまさぐる手と熱を持つ肌に触れる唇が、一気に真奈実を昂ぶらせていく。どこか急くような俊哉に流されるまま、与えられる悦楽を甘受する。
目が眩むような感覚に翻弄される中、真奈実は熱に浮かされながらも何かを深く考え込んでいる俊哉に気づいていた。
あの日からずっと、俊哉は真奈実といてもどこか上の空だ。深く考え込む様子を見せたと思えば、こちらを見て困ったような顔をしている事もある。
やっぱりあんな事、言わない方がよかったのかもしれない。あんなセリフ、普通に考えても重たく感じるというのに。
いくら俊哉が真奈実を大切にしてくれているからといって、甘えすぎてはいけなかったのかもしれない。
……考えれば考えるほど、不安が胸を締め付けてくる。二人で過ごすクリスマスが近づいているというのに……こんな気持ちじゃ、きっと楽しくなんかなれない。
「どうしたら、いいのかな」
空いた時間を利用して編んでいるセーターを見下ろして、真奈実はまた、溜め息を吐く。
「無駄に、ならないといいんだけど……」
呟いた言葉が胸に染み入る。零れそうになった涙を飲み込み、完成間近なセーターへと、改めて取り組みはじめた。
「マナ、メリー・クリスマス」
「メリー・クリスマス」
祝いの言葉を交し合って、シャンパンの入ったグラスをカチンと合わせる。
テーブルの上には、真奈実が用意したクリスマス・ディナーが並んでいた。さすがにチキンを焼くのは難しかったのでそれだけは買ってきたものだけれど、それ以外は全部真奈実の手作りだ。
あんまりお酒には強くないからいつもは飲まない。だけど俊哉といる時だけは、甘える事ができるから、ほんの少し飲む事もある。黄金色の泡を立てるアルコールを含むと、口の中で炭酸がしゅわしゅわと弾けるのが心地いい。
「美味しい……」
「だろう? これならマナの口にも合うんじゃないかと思ったんだ。甘めだし、アルコールも弱いから、多めに飲んでも大丈夫だよ」
テーブルの向こう側で微笑む俊哉に笑みを返し、真奈実はもう一口シャンパンを飲む。グラスを机上に戻してからほんの少し逡巡し、膝の上においてあった包みを取り上げる。
「えと、これ」
「プレゼント? 嬉しいな。開けていい?」
心底嬉しそうに訊いてくる俊哉へ、真奈実ははにかみながら頷いた。
がさがさと音を立てて包みを開いて中身を見た俊哉は、ひゅっと息を呑んで目を輝かせる。
「これ……マナが?」
「う、うん。サイズとか、合ってると思うんだけど……大丈夫かな」
「きっと大丈夫だよ、ほら」
言い終わるより先に、俊哉は手の中のセーターを身に着ける。それはシャツの上からも驚くほど俊哉の身体にぴたりとフィットしている。突っ張りもしなければ、大幅に弛んでもいない。
「うん、さすがはマナだね。こんなにも着心地がいいセーターって初めてかもしれない」
「もう、やだな。そんなにおだてられても、用意してるのはこれだけだよ?」
「おだてじゃないよ。本当に思ってるから言ってるんだ。――なら、次は僕の番だね」
浮かべていた笑みを消し、胸ポケットから取り出した小さな包みを真奈実へと差し出した。
「これ……?」
掌に乗るサイズの平べったい箱を手に、真奈実は俊哉を見つめる。形や大きさからしてアクセサリーではないらしいという事はわかる。ならこれは、一体何なんだろう……?
「いいから開けてみて」
「う、うん……」
緊張に震える指で包装を解き、箱を開く。そこにあった物を見つめたまま、真奈実はしばし完全に呼吸を忘れた。
「今の部屋を、出る事にしたんだ。今住んでるところほど広くはないけど、二人で暮らすには十分な広さがある。如月から程近い住宅街で、近くに商店街もあるから色々と便利だと思うんだ。去年できたばかりの綺麗な建物でね、きっとマナも気に入るよ」
「え……?」
「わからない? 僕はね、一緒に暮らそうって言ってるんだ」
告げられた言葉の意味を、一瞬理解しきれなかった。ようやく理解できた時に浮かんできたのは、純粋な疑問だった。
「ど、うして?」
「どうしてって……だってマナ、僕と一緒に過ごす時間が一番幸せだって言ってくれたでしょう? だから、以前から考えていた事だし、実行してもいいかなって思ったんだ。一緒に籍を入れるのも悪くないとは思うんだけど、まだ僕一人の力じゃマナを養えないから、それはもう少し待ってもらう事になるけど……」
申し訳なさげに苦笑する俊哉に、真奈実は勢いよく首を振る。その拍子に、堪えようと思っていた涙が零れ落ちた。その光景に慌てて立ち上がり、俊哉がテーブルを回ってくる。
「マ、マナ!? どうして泣くの!?」
「だって……だって俊哉君、このところずっと何か考えてるみたいだったし、訊いても何も言ってくれなかったし、やけに無口だったし……もしかしたら俊哉君があたしを嫌になるような事、言っちゃったんじゃないかって思ってて……」
「――ごめん、僕がマナを不安にさせてたんだね」
指先で涙を拭い、涙を零す真奈実を優しく抱きしめる。
「このところ上の空だったのは、一緒に住む部屋を探していたって事もあるし、その事を今日まで秘密にしておきたかったからなんだ。マナの顔を見ると、どうしても話したくなってしまって……だからなるべく話さないようにしてた」
ごめん、とまた呟いて、俊哉は抱きしめる腕に力を込める。
このところ、不安が先んじていたせいで、俊哉の腕の中にいてもずっと安らげなかった。だけど不安の種が消えた今、この場所は真奈実にとって、再び一番安心できる場所になる。
「謝ら、ないで。ちゃんと……わかったから」
そっと胸を押して顔を上げる。涙はまだ完全に止まっていなかったけれど、それでも笑顔を浮かべる事はできた。
ぎこちない笑みを浮かべる真奈実を見つめる俊哉はやっぱり少し困り顔で、彼の不安と心配を取り除くためにも真奈実は言葉を続ける。
「本当だよ。それにね、嬉しいの。俊哉君があたしの事そこまで考えてくれてるって言うのが、すごく嬉しいの。……泣いちゃうくらい、嬉しいの」
涙ぐみながら真奈実が浮かべた笑顔はこれ以上にないほど純粋で、彼女が自分を気遣っているだけでなく、本当に、心から喜んでくれているのだと気づく。
「……ねえ、返事、聞かせてもらっても、いい?」
答えはわかっているつもりでも、緊張感から呼吸が苦しくなる。
こくん、と小さく頷いた真奈実は、きっぱりと短い言葉を口にした。
「あたしも俊哉君と、一緒に暮らしたい」
「マナ――!」
強く、苦しいほどに強く抱きしめられる。けれどそれはそのまま俊哉の喜びの強さだから、真奈実は笑って受け止める事ができた。
「明日、起きたら部屋を見に行こう? それから急いで色々な手続きをして、早く引越してしまおう?」
「やだな、俊哉君。今日、明日で引っ越すのは無理だよ」
「わかってる。だけど……ああ、どうしよう。嬉しすぎてどうにかなりそうだ」
ぎゅうぎゅうと締め付けてくる腕の中で、真奈実は声をあげて笑う。
その笑顔には、もう、一点の曇りも残っていなかった。