かぶ

First Contact

 つまるところ、彼は単純に運が悪かったのだ。
 いつもならばきちんと予習もこなした上でまじめに授業を受けていたのだが、その日に限ってそう上手く行かなかった。
 その主な理由は、如月学園高等部から大学部へとエスカレーター式に入学してしまったがゆえに、その日の講義が終わると同時にかつて面倒を見てくれていた部活の先輩に捕まってしまい、入る気もないサークルの新入生歓迎会に引きずり出されたのだ。そこで生まれてはじめての深酒を経験させられ、その結果、現在進行形で人生初の二日酔いの苦しみを味わっていた。
 そんな状態にありながらも、彼自身が専攻したいと望んでいる内容にはまったく関係のない講義を、必須だからというだけの理由できちんと受けているというところは認められるべきだろう。
 けれど彼の体調など、その講義を受け持つ講師にとってはまったくどうでもいい事であり、名簿からランダムにピックアップした学籍番号を持つ学生が、投げかけた質問に対して適切な返答をできるかどうかが一番重要なのだ。
「――どうしたね。さっさと答えないか。これくらい、高等部で習っているはずだろう?」
 元々この古文Ⅰの授業は、必修とされている一般教科の中でも一、二を争うほど単調でつまらないと評判なのだ。そのためきちんと出席をし、講師の力の入らない講義を軽く聞き流し、教科書を眺めていれば大抵は問題なく単位を取れるはずなのだが、うっかり前日に夜更かしをしてしまったり、もしくは酷い二日酔いに苛まれていたりしていると、講義内容はたちまちお経か子守唄に早替わりして学生を罠に嵌めるのだ。
 そして今、彼は哀れにもその罠にがっちりはまり込んでしまったと言うわけだ。
「ええと……その……」
 起きてすぐ飲んだ薬のおかげで頭痛は治まりつつあるものの、頭の動きは回復しきっていない。しかもさっきまで耳に届いていた声は、彼の頭の中でお経じみた雑音にしか変換されていなかったため、質問内容さえ理解できていなかった。
「わからないのか? それとも聞いていなかったのか? 何とか言ったらどうなんだ?」
 自分の講義の人気のなさが自身の怠慢である事を理解しているのかいないのか、とにかく単調な授業をするしか能がないくせに自尊心だけは高い講師が見下しきった声を出す。
 周囲からは基本的に温厚な奴だと評価されている彼は、体調不良のせいでいつになく短気になっていた。
 あんたのつまらない授業なんか聞く価値もないとでも切り返してやろうかと思ったその時、一つ間を空けた席に座っていた少女が一繋がりのベンチ伝いに、破り取ったノートの切れ端を滑らせてくるのが見えた。教科書をめくり、ノートを確認するふりをしながら差し出された紙をそっと取り上げ、書かれていた文字をそのまま読み上げる。
「……彼らは十二、三になってもまったく成長しない一寸法師を普通ではない、物の怪ではないかと疎んでおり、どこかにやってしまおうと考えていた。両親のそんな感情を知っていた一寸法師は、悔しく思いながらも他に道はないと悟り、自ら旅立つ事にした」
「そのとおり。……さて、そこで次の文章だが――」
 どうやら正しい答えを返せたらしい。ほう、と安堵の息を吐き、彼は視線を講師から助けの手を差し伸べてくれた少女へと向けた。
 冷たい色の蛍光灯の下、肩まで伸びた癖のある髪は柔らかな栗色をしていた。髪に隠れがちな横顔は、あまり高くない鼻梁とふっくらした口元が女の子らしい線を描いていて、きっと可愛らしい顔をしているんだろうと思わせる。一見すると、きちんと講師の言葉に耳を傾け、時にホワイトボードへと書かれた内容をノートに記してはいるようだが、じっと観察していれば、彼女がこの講義を退屈に思っているのが見て取れた。
 如月学園は幼稚舎から大学部までの一貫教育を行っているため、用意されたエスカレーターに安穏と乗ってきた学生であれば、実際に言葉を交わした事はなくても顔は知っているはずだ。けれど彼に、彼女を高等部で見かけたという記憶はまったくない。となれば結論は一つ。彼女は大学部からの外部生なのだ。
 たった今、指名されて、答えるに答えられず目を付けられているはずの状況で私語をすればどうなるか、わからないはずがない。ほんの少し考えて、彼は手の中の切り取られた紙に、手早く文字を書き込み、講師がこちらを見ていない事を確認した上で、ほんの少し彼女の方へと身を乗り出した。
 その動きに気づき、彼女がきょとんとした視線を向ける。横顔から想像したとおり、彼女は愛らしい顔立ちをしていた。ノーメイクかと一瞬思ってしまったほど薄くメイクを乗せた肌はとても綺麗で、日に焼けた様子がほとんどない。くるりとした目は小動物のようで、まっすぐに見つめ返してくる視線が不思議と心地いい。紺色のラウンドネックシャツの上からアイボリーのふんわりとしたチュニックを重ねていて、ほっそりとした足はふくらはぎまである黒いレギンスに包まれている。
 純粋に、可愛らしいな、と、そう思った。
 うっかり見とれっぱなしになりかけた自分を叱咤して、つるりとしたデスクの上で、先程渡された紙を滑らせる。
 別にいいのに、という表情を浮かべてノートの切れ端へと視線を落とした彼女は、程なく自分で書いた文章の下に、癖のある文字が書き足されている事に気づき、ふわりと頬を緩めた。
『さっきはありがとう。おかげで助かったよ。俺は深海俊哉(ふかみ しゅんや)っていいます。お礼がしたいんだけど、昼食に誘ってもいいですか?』
 こんなナンパめいた事をするのは、実は初めてだ。
 情けないくらいどきどきと音を立てる心臓を押さえながら、彼女の反応を待つ。
 ほんの少し首を傾げた彼女は、カラフルなドット付きのシャープペンシルで、さらさらと紙に文字を書く。それから視線を彼へと向けて、そっと紙を戻してきた。
『私は綾瀬真奈実(あやせ まなみ)です。別に大した事じゃないので、気にしないでいいですよ』
 名前も可愛いいんだ。そう思いながらも、彼はすばやく言葉を書き連ねてまた紙を滑らせた。
『俺は気にしたい。君が遠慮するなら、売店にある自販機のドリンクでもいい。なにかおごらせてください』
 困ったような、戸惑うような表情を浮かべ、彼女はしばらくの間、手元の紙と彼の顔を見比べていた。
 それから一つ息を吐いて、さらさらと返事を書いた。そしてどこか恥ずかしげにはにかんで、彼の手元へと紙を返してきた。
『わかりました。では、お昼休みに図書館の前で待っています』
 図書館で待ち合わせだなんて変わっているな、と、そう思ったものの、売店やカフェテリアのあたりだと、人が多すぎて行き違いになりかねない。そう考えると、確かに図書館前というのは中々いい選択だと思えた。
 紙から視線を彼女へと戻し、彼はにっこりと笑って大きく頷いてみせる。それを正しく了解の意味だと受け取った彼女は、ふんわりと、まるで野原に咲くしろつめ草のように可憐な笑みを浮かべた。
 どくんと、鼓動が一つ跳ねたのと、彼が恋に落ちたのはほとんど同時だった。