First impression
「え……あ、深見(ふかみ)君……?」
今日一日の講義をすべて受講し終え、ほとんど日課となっている図書館への道のりを歩いていた真奈実(まなみ)は、背後からかけられた声に振り返った。そこに案の定とでもいうべきか、最近になってようやく見慣れた相手を見つけ、小さく息を吐く。
この深見俊哉(しゅんや)なる人物は、どちらかといえば人見知りしがちな真奈実にとって、如月学園で――否、小学校以来初めてできた男友達だ。これまでにほんの少し交わした言葉から、彼の実家が老舗の旅館であり、それゆえ如月学園に幼稚舎の頃から通っているエスカレーター組である事や、上に兄と姉が一人ずついるため家業を継ぐ必要はまったくなく、可愛がられている末っ子という立場を利用して、興味のある学問をとことんまで勉強してやろうと思っている事を知った。
ちなみに興味を持っている学問というのは経済学で、如月学園で経済学を学ぶ大半がそれを利用して身を立てようとする者だというのに、彼はあくまで学問として研究したいのだと言う。
一歩間違えるとぼさぼさ頭としか見えないだろう中途半端な長さなため、前髪が目に少しかかっている。真奈実からすれば目が悪くなりそうな髪型なのだが、周囲の評価を聞く限りでは、どうやらこれも最近ではオシャレな髪型なのだとか。同年代の男の子の平均身長より少し高めの背丈だけれど、がっしりタイプではなくひょろりと細いタイプだ。真奈実自身は目指せ平均身長! なあたりの背丈なので、目の高さは多少離れている。なのに彼と話している時は、あまり無理をして上を向かなくても、アーモンドの形をした優しげな瞳と視線が合う。けれどそれは、彼が真奈実のために少しばかり背中を屈めてくれていたからなのだと、最近になって気づいた。
付き合いの長さを考えれば、幼馴染と呼んでも差し支えないようなエスカレーター組の人たちと一緒にいる姿もよく見かける。そのほとんどは男の子たちのグループなのだけれど、時々、やはり元同級生なのだろう、可愛らしくて明るい女の子たちと楽しげに話しているのを見た事が一度ならずある。
真奈実が俊哉と知り合ったきっかけは、この春先に、一般教養の必修科目である古文Ⅰで指名された俊哉が答えられずにいられたところを、ほんの少しの親切心から手助けした事にあるのだが、その日以来、彼はなぜか真奈実の周りにやけに頻繁に出没するようになった。
今日だって、同じ講義はないし、特別約束をしていたわけでもないのだから、こうして出会う必然性はまったくないといってもいいはずだ。
昔から内気で引っ込み思案な上、興味があるのは古典文学などという古臭い分野だったりするため、男子からは、中学でも高校でも、暗いだとか変わっているなんて評価しか得た事がない。そんな彼女に、どうして俊哉のような人が興味を示すのかが理解できない。
そんなところも含めて、俊哉に対する真奈実の素直な印象は「不思議な人」。これに尽きる。
なんだかすっかり行動を読まれている事に気まずいものを感じるけれど、答えたところで支障はないとも考え直した。
「えと、今日は勉強じゃなくて、我楽多文庫が読みたくて……」
「がらくたぶんこ……? ええと、なんか聞き覚えがあるような、ないような……ごめん、何だっけ?」
「明治時代に創刊された、日本で一番最初の文学同人誌だよ。当時の同人誌で有名なものだと白樺があるし、少し後の大正初期だと新思潮あたりかな。有名な作家が寄稿や執筆していたんだけど、刊行数が少なかったせいで現存しているものがすごく少ないの」
「へぇ、そんなのもこの図書館にあるんだ?」
「……深見君、もしかしなくてもこれまであまり図書館使ってない?」
ほんの少し意地悪な気分になって訊ねてみる。すると彼は、ほんの少しだけ頬を染めて真奈実から視線を逸らした。
「図書館、自体は使ってたけど、あまり置かれてる本には注目してなかったんだ」
「普通はそんなものだと思うよ。私はなんていうか、図書館に来ると探索せずにはいられなくて、司書の人も知らなかったような希少本とか見つけるのが好きなの。我楽多文庫も、この間明治文学コーナーを探索していた時に偶然見つけたんだ」
話していると、自然と見つけたその時の嬉しさや興奮が蘇ってくる。俊哉の自分を見つめる目はいつもながらやさしくて、まるで先を促してくれているように思える。そのせいで気が付けば、真奈実は段々と饒舌になっていた。
「この学校って、元々身分の高い方の通っていた学校でしょう? そのせいもあって、寄贈された本の種類や数が並じゃないの。国会図書館ぐらいにしかないんじゃない? って思うような本とか、他では絶対保存されてないって断言できそうな雑誌とかも、実は意外と個人宅には死蔵されてたりするみたいで、ボランティアだとか置き場がないからなんて理由とかでまとめてどこかに寄贈した際にぞろぞろ見つかったりとかするんだけど、ここはそういう率が本当に高いの。以前司書の方に聞いたのだけれど、そういう本は本当はもっとあるんだけど、新しい本が増えるたびに倉庫に運び込まれているんだって。だから機会があれば、ぜひそっちも見たいなっ……て」
にこにこしながら自分を見つめている俊哉の瞳と視線がぶつかって、たった今まで頭に上っていた熱が一気に冷めた。
元々口が上手くないせいでそんなにお喋りなわけではないけれど、逆に好きな事に関してはむやみやたらに饒舌になってしまうのが真奈実のあまりよろしくない癖だ。進路がばらばらになってしまった高校時代の友人たちは彼女のそんなところをかなり尊重してくれてはいたけれど、時々熱が入りすぎた時にはさすがに引いていた。
「ご、ごめんなさい。こんなお話、聞いてても面白くないですよね?」
「いや、そんな事はないよ? 綾瀬さんがどれだけ文学――っていうか、本そのものかな? が好きなのか、声や表情、というよりいっそ全身で訴えてくるから、聞いていても見ていてもすごく楽しい」
「え……と」
まただ。こんな風な反応を返されるのは本当に初めてで、どう対応すればいいのかわからなくなってしまう。
困りました、と顔に大きく書いて眉をひそめる真奈実に、俊哉がしまったな、と苦笑する。
「ええと、あのね、綾瀬さん? そこで困られると、僕も困ってしまうよ。僕が言いたかったのは、綾瀬さんはそのままでいいよって事なんだ。確かに僕が興味を抱いている分野は違うけど、他の分野にはまったく興味がないってわけじゃないし、さっきの綾瀬さんみたいに嬉しそうに話してくれるのを見ていたら、もっと聞きたいって思うし、もっと知りたいって思ったよ」
だからもっと話して?
どこまでも穏やかに、柔らかに、けっして押し付けることのない彼は、古い本の山に囲まれてすごす事を望む真奈実に手を差し出して、外の世界へと連れ出そうとしてくれているように思えてくる。
だけど、いいのだろうか。彼の手を取っても、いいのだろうか。彼に心を預けてしまっても、本当にいいのだろうか……?
「綾瀬さん?」
「あ……あの、なら、一緒に、行きますか? 今とは使われている言葉とか違うから、読みにくいし、退屈なだけかもしれないけれど、一緒に、読んでみますか?」
さすがに顔を見ながらは言えなくて、顔を伏せたままで誘いの言葉を投げかける。
自分の趣味が他の人のそれから大幅にずれているのは知っているから、本を読む時は大抵いつも一人ですごしていた。だからこんな風に、誰かを趣味の世界に誘うのは、正真正銘初めてだった。
緊張と恥ずかしさで、貧血と赤面症が一時に襲い掛かってくるようだ。顔と耳はやけに熱いのに、頭の中心から血の気が一気に引いていく。どちらが原因でなのかはわからないけれど、とうとうくらりと頭が揺らぎかけたところで、俊哉がぽつりと声を漏らした。
「う……わ、やべ、嬉し……」
「え?」
あまりにも予想外の言葉に、真奈実は思わず彼を見上げ――驚きに目をしばたたかせた。
「あ、や、ちょっと待って。今見られるの、ちょっと恥ずかしすぎる」
そんな言葉を口にしながらくるりと背を向けた彼は、耳どころか首筋まで赤く染めて、大きな手で顔を隠したりこすったりしている。
「深見君、あの、だ……大丈夫?」
「あー、えと、大丈夫、かな? うん、大丈夫だと思う。て言うか、大丈夫にする。だからさっきの提案、取り下げないで?」
「う、うん」
やけに必死な俊哉に押されるようにして、真奈実はこくこくと頷く。とたん、彼の顔いっぱいにぱあっと明るい笑顔が広がった。まるで、そう、曇り空が割れて、青空が一気に広がるみたいに。思いがけないほど無邪気な表情に、うっかり真奈実の鼓動がスキップする。
「それじゃ、行く?」
半分振り返るようにして、とても自然に手を差し出してくる。
いいかも、しれない。彼なら信じても、大丈夫かもしれない。
「うん」
頷いて、おずおずと差し出された手を取った。さすがの俊哉もこの行動は想定外だったらしく、はっと息を呑むのが見えた。けれど次の瞬間、手を離されては困るとでも言うように、しっかりと彼女の手を握った。
どうしようもなく心臓がどきどきして、足元がふわふわと定かじゃない。だけどこうして俊哉と足並みを揃えて歩くのは……好き、だ。
少しずつ少しずつ、俊哉へと心が傾いていく。その先に何が待つのかはわからないけれど、二人並んでゆっくりとその先を見にいってみよう。