今更ながらに気づいたが、ベッドメイクなんて、これまで数えるほどもした事がない。
取ってきた真新しいシーツを袋から出し、邪魔になるからと掛け布団を床に落としたところで、隆はシーツに付いた小さな赤い染みに気づいた。
さっき避妊具を外す時にもあった破瓜の印に、また心臓がきりりと痛む。
自分はただ気持ちよくて、気を抜けばそれ以外何も考えられなくなりそうだったというのに、依子の身体は、たとえ彼女がどんなに否定しようとも、確かに傷ついていたのだ。
それが女性の身体の仕組みだから仕方がないのだと頭で理解していても、感情はそう簡単に納得できない。
もし、依子がまた次を許してくれるなら、その時はもっと彼女の負担を減らせるように努力しなければ。
そんな事を考えながら、どこかもたついた手付きでシーツを剥ぎ取り、新しいシーツを広げていると、背後で扉の開く音がした。
「……早いな」
「シャワー、浴びただけだから」
「ゆっくりしていいって言ったのに」
「うん。でも、なんとなく……。ね、あたし続きやっておくから、神沢君もお風呂入っておいでよ。あたしより神沢君の方が汗だくになってたでしょ?」
隆の手から新しいシーツを受け取り、依子が微笑する。
「それにほら、多分、あたしの方がこういうの、慣れてるし。ね?」
そう言われてしまっては反論もできない。苦笑混じりに隆は頷いた。
「……だな。じゃあ、お言葉に甘えて」
足元に落としておいた汚れたシーツと着替えを抱えてバスルームへと向かけた隆は、ふと足を止めた。
「そういえば峰倉、着てきた服はまだ洗濯してないんだろ?」
「あ、うん」
「なら、これと一緒に洗っとく? 今から洗えば明日の朝には乾いてるから、着て帰れるだろ?」
「あー……うん、じゃあお願いするね。あたしの服は洗濯機の上に置いてるから」
「了解。あ、普通に洗っていいのか?」
「うん。ていうか、普通に洗えないのは買わないし」
あっけらかんと笑う依子に笑みを返して、隆は今度こそ廊下に続くドアの向こうに消えた。
手早くシャワーを浴び、こざっぱりした気分で戻ってきた隆は、綺麗にベッドメイクされた寝台にちょこんと座っている依子を見つけて小さく笑った。
「先に寝ててもよかったのに」
「でも、なんとなく、待っていたくて」
「そっか」
率直な言葉にくすぐったさを覚えながら、隆は依子をベッドの奥へと促す。素直に従って壁側に移動した依子はそこでまた、膝を抱える。
「うん。なんか、寝ちゃうのがもったいないような気がしたの」
「それはわかる、かな。俺も、このまま寝るの、もったいないと思ってるし」
同意しながら隆もベッドに上がり、上掛けを引張り上げながら寝そべる。けれどどこか戸惑ったように隆を見下ろしたまま動かない依子に気づき、片腕で上半身を支えたまま、上掛けを持ち上げて空間を作る。
「ほら、峰倉も」
「う、ん……」
おずおずとその隙間に足を滑り込ませ、横たわろうとした依子を、しかし隆は待って、と止めた。
「腕枕、したいんだけど」
「……うでまくら?」
思わずひらがなで返してしまった。
きょとんと見つめ返してくる依子に、隆はこくりと頷く。
「そう、腕枕。峰倉は、嫌?」
「嫌も何も……された事、ないし」
困ったような表情で告げられて、隆は一瞬言葉を失った。
子供なら当然のように享受していると思っていた親の温もりすら知らないとは、どんなに寂しい事なのだろう。
今更そんな事を言ったところで何にもならないのはわかっている。ならばせめて、自分に与えられる全てを与えてあげたいと、隆は切に思う。
「じゃあ、試してみよう。多分、そんなに悪くないと思う」
「そう? なら……うん」
頷けば、隆はぱっと嬉しそうに笑顔を向けてぺたりとマットレスに寝そべる。Tシャツの裾からまっすぐに伸びた腕は依子の柔らかな二の腕と違って太く硬質に見える。感触を確かめるようにそっと指先で触れると、くすぐったいのか隆が小さく笑い声を上げる。
寝る時はいつもするように髪をうなじの辺りでくるくると一つに束ねて手に持ち、おずおずと彼の腕に頭を乗せた。手を離すと、長い髪がぱっと隆の腕とシーツの上に散らばる。先程のシャワーでまた湿り気を取り戻した髪が触れる感触に頬を緩ませながら、隆は肘を曲げて依子の肩に腕を回す。
さっきまで抱き合っていたというのに、たったこれだけのふれあいがやけに気恥ずかしい。だけどほんの少し離れた所にある身体から体温がじんわりと伝わってきて、不思議な程に依子の心を安堵感が満たしていく。
「……寝る時って、そんな風に髪押さえるんだ」
「うん、長いとどうしても邪魔になるから……。暑いし、やっぱりそろそろ切ろうかな……」
最後はほとんど独り言だった。けれどこの距離だから当然隆にもその言葉は届いてしまう。
「切るの、髪?」
「うーん……せっかく伸ばしたのに、って気持ちもあるし、邪魔だって気持ちもあって……」
「そうなんだ。俺は峰倉の髪好きだから長くてもいいと思うけど……ちょっと短いのも見てみたい、かな」
「そう? じゃあ切っちゃおうかな。なっちゃんに言ったら、嬉々として切ってくれそうだし」
「切ったら、真っ先に俺に見せてくれる? ていうか、いっそ切る時付いていってもいい?」
「それ、本気で言ってる? 二人で行ったりしたら、なっちゃんに思いっきりからかわれちゃうよ?」
楽しげに声を上げて笑う依子は、隆の腕の中ですっかり気を許している。たったそれだけの事でこんなにも幸せを感じるなんて、思いもよらなかった。
彼女を抱いたから、なのかもしれない。依子への愛しさが、隆の中で一気にその度合いを増している。ほんの少し前まで隆の中を占めていた、彼女を捕まえていたいという強迫観念にも似た切望はすっかり消えうせて、彼女を包み込むように守りたいという想いが満ち溢れている。
「……俺は、別に構わないよ。その人って、峰倉にとってお姉さんみたいな人なんだろう? なら俺も、会ってみたいと思うし。まあ、無理強いはしないけどさ」
息を呑み、目を丸くしてじっと見つめてくる少女の額に、隆はそっと口付ける。
「そろそろ、寝よう? 峰倉は明日、仕事だろ? 俺も今日、一日中部活だったからさすがに疲れてて」
「ん……」
依子の肩を抱いたまま、右腕を伸ばしてベッドランプのスイッチを切る。部屋の中を闇が満たした瞬間、隆の胸の辺りにあった依子の手が、彼のシャツをきゅっと握るのを感じた。
「峰倉?」
「なんだか不思議な感じ。誰かの傍で眠るなんて、初めてだから」
気配で彼女が静かに微笑んでいると知り、隆は穏やかに依子の身体を抱きしめる。
「きっと、すぐ慣れるよ。これからは、いくらでも一緒に眠れるんだから」
「ん……そう、だね」
くす、という小さな笑い声に、小さなあくびが重なる。その可愛らしさに笑みを漏らし、隆は囁いた。
「それじゃあ……お休み、峰倉」
「お休みなさい」
目が覚めた時、目に飛び込んできたのは覚えのない色の天井だった。
ここはどこだろう、とぼんやりする頭で考えかけ、依子は自分を包み込むように抱きしめている腕の存在を思い出す。
その腕の持ち主が誰なのかを思い出したとたん、昨夜の記憶が唐突に戻ってくる。それがうっかりと危険な領域を含んでいて、頭が一気に覚醒した。
見る見る顔が赤くなるのを自覚しつつ、依子が動くに動けずにいると、不意にすぐ近くで柔らかな笑い声が聞こえてきた。身体は仰向けのまま顔だけでそちらを向くと、まだ少し眠そうな顔の隆が笑みを浮かべていた。
「……おはよう、峰倉」
「か、神沢、君……お、はよう……」
挨拶を返す唇に、隆の唇がふわりと触れる。驚きに目を丸くしていると、隆がまた、小さく笑い声を上げる。その様子があまりに楽しげで、依子は不満げに唇を尖らせる。
「何がそんなに楽しいの?」
「楽しい……っていうか、すごく嬉しくて」
「え?」
「だって、目が覚めて真っ先に見えたのが峰倉だったんだ。嬉しくならないはず、ないだろ?」
いつだって隆は率直な言葉をくれるけれど、目覚めてすぐに、というのは、さすがに破壊力が大きい。
うっかりベッドのマットレスにずぶずぶと沈みこむような錯覚を覚えながら、依子は僅かばかり視線を逸らす。
「なんだ。変な顔してたから、それで笑われたかと思った」
「変な顔? してたっけ?」
「してた、と、思う」
「俺には全然そうは見えなかったけど……っ!」
逸らされた視線を追うように身体を持ち上げかけた隆が、低い呻きを上げてベッドに沈む。
「神沢君、どうかしたの!?」
「……う」
「う?」
「腕……痺れてる……」
数秒の間、言われた意味がわからなかった。ようやく隆の言葉が意味するところを理解した時、依子はおもむろに身体を起こし、隆に向き直った。
「ごめんなさい!」
「――どうして峰倉が謝るんだ?」
「だって……腕枕のせい、でしょ?」
気弱な表情で確認する依子に、隆はふわりと微笑む。
「腕枕は、俺が言い出した事だろ? 峰倉が悪いんじゃないよ。それにぶっちゃけ、この痺れも嬉しい事の一つだし」
「……腕が痺れるのが嬉しいの……?」
これっぽっちも理解できないと表情で語る少女に、隆はあっさり頷く。
「峰倉に腕枕して寝たっていう何よりの証拠だろ?」
そのあまりにあっけらかんとした隆の雰囲気に、依子は一気に毒気を抜かれてしまう。はぁ、と小さく息を吐いて、呆れたように呟いた。
「寝起きの神沢君って、いつにも増して前向きなんだね……」
「違うよ、峰倉」
「え?」
きっぱりとした否定に、依子がきょとんと隆を見下ろす。左手を押さえて寝そべったままの隆は、これ以上にないくらい満足げな笑みを浮かべる。
「幸せだって実感してるから。峰倉と一緒にいるだけで、実感できるから。だからどんな事も前向きに受け取れるんだ」
予想していた答えをどれもぶっちぎりで裏切るその言葉に、一瞬ぽかんとした依子がその頬を真っ赤に染める。
左腕を庇いつつ身体を起こして伏せられた少女の赤い顔を覗き込むと、恥ずかしげな、困ったような、それでいてどこか嬉しさも僅かに交えた表情が浮かんでいた。
感情を素直にぶつけられる事に慣れていない彼女は、事ある毎にこんな顔をする。それを見るたび、隆の中で彼女への愛しさは純粋に増していく。
「峰倉」
穏やかに呼びかけながら無事な右手で熱い頬に触れ、顎を持ち上げる。今にも伏せられそうな双眸をまっすぐに見つめ、隆はありったけの想いをこめて囁いた。
「君の事が、好きだよ」