あまり大掛かりなプロジェクトが入っていない事もあり、刑部秀人(おさかべ ひでと)もここのところ比較的早く帰宅できていた。
今日に至っては、世にも珍しく定時上がりが部署内で五人もいるという、ある意味異常事態と呼べるような状況すら起きていたりする。
その希少な定時メンバーの一人に、秀人も含まれていた。
「あー、これからどないしよ……」
後ろから「暇なら手伝えー!」という呪いじみた唸り声を浴びせられながらもさっさと退出した彼は、しかし会社からの最寄り駅に近づくにつれ途方にくれてしまう。
現在時刻は午後六時二十分。日が長くなったおかげで見上げる空はまだまだ明るい。こんなに明るい空を仕事帰りに見るのは、一体いつぶりだろう。
今からまっすぐ家に帰ったところで夕食を摂って風呂に入ってしまえば他にやる事はないのだ。けれどだからと言ってふらふらとそこらをふらついたところで一人では面白味がないにも程がある。
「とりあえず、梅田でも出るか」
時間を見るために開いた携帯電話をぱちんと閉じてスーツの胸ポケットに放り込む。そのついでに定期入れを取り出して、軽快な電子音を聞きながら改札を通り抜けた。
環状線に十五分も乗れば、キタの中心である梅田に到着する。
ミナミも嫌いというわけではないが、あっちはどちらかと言えばどんちゃん騒ぎをするために行く地域であって、ノリのいい同僚と一緒ならともかく、仕事帰りに一人で行きたいとはあまり思わない。対してキタは、みんなで盛り上がるにも便利だが、ミナミよりも「都会」らしい空気が一人で時間を潰すには心地いい。
とりあえずあまり腹も減ってない事だしと、秀人は御堂筋口から改札を抜けていつものように左手側へと足を向ける。新しくできた綺麗なスーパーや本屋に視線を向けながらも足は止めず、駅構内から一度出れば、目の前にはヨドバシカメラのどでかい建物が広い道路の向こうに見える。
ここからヨドバシカメラに行くにしても阪急に向かうにしても、地上をそのまま移動する事はできない。歩道橋を渡るか地下道を通るかの二者択一になる。特に目的もなく梅田に出てきた秀人は、少し考えて歩道橋ではなく地下道の階段を下った。
年代を感じずにはいられない薄汚れた階段を降りて短い通路を進むと正面に見えるヨドバシカメラの入り口は、清冽な白い光が誘蛾灯のように客を呼び込んでいる。その光にうっかり誘導されそうになる自分を戒めて右に曲がり、地下鉄の改札を通り過ぎれば阪急の地下街に入る。
画材ショップや宝石店、ドラッグストアにカフェが連なり、空間が広がる直前には銀行が連なっている。一瞬財布の中身に思いを馳せるが、記憶が正しければ諭吉が三枚は入っていたはずだ。それだけあれば当面は大丈夫だろうと判断し、ここもやはり通り過ぎる。人の流れに逆らわず地上に出るエスカレーターを上れば、地上に出るなり視線の先で宝塚歌劇のCMがどどんと巨大なモニタで繰り広げられていて、その華美さに毎度の事ながらうっかり笑いを漏らしてしまう。
遠回りになる事は知っているが、待ち合わせをしているであろう人ごみにもまれるのが嫌で、手近な入り口から紀伊国屋に入り、雑誌を立ち読みする人を避けながら奥に進もうとする流れに乗る。文庫コーナーに入ったところで敢えて一番奥まで進む。平積みになっている本に適当に視線を向けながら角までまっすぐ歩き、道なり右に曲がった。そのまま進めば目的のパソコン関連書籍が並ぶコーナーへと辿り着ける。
「ほんま、いつもながら人多いなぁ……」
苦笑混じりに呟いて新しく出ている雑誌へと手を伸ばしたところで、ふと見覚えのある横顔に気づいて動きを止めた。
一見ただの真っ白なワンピースに見えた彼女の服は、よくよく見れば清潔な水色の襟がセーラーカラーの形をしているし、特徴的にカットされたタイが胸元を飾っている。何より少女の持つ鞄は、どう見ても学校指定の物としか思えない非機能的かつシンプルなものだった。
「要(かなめ)ちゃん……?」
距離と喧騒からして呟いた声が届いたとは思えなかった。けれど、まるで呼ばれたかのように顔を上げた少女は秀人の方へとまっすぐに視線を向け、
「刑部さん?」
と、驚きに声を上げた。
どうせ会ったのだからと要を送るついでに『梓(あずさ)』で夕食を摂る事にした秀人は、要と並んでお初天神通りを歩いていた。
道中聞いた話では、茶屋町にある英会話スクールに通う友人と、クラスがはじまるまでの時間をファストフードショップで潰していたらしく、紀伊国屋にはどうせ近くに来たのだからとほんの思いつきで立ち寄ったらしい。
ほんの少しでもそれぞれのタイミングがずれていれば、会うどころかすれ違う事すらできなかったと知り、二人して呆然と顔を見合わせる。
「それにしても、こんな偶然ってほんまにあるんですね」
「いやでも結構こういう事はあるで。思いも寄らん時に限ってばったり誰かと出くわすってのは」
感心したように呟いた要に秀人は苦笑混じりに返し、傍らを歩く少女へと改めて視線を落とした。
まだ成長期が終わっていないせいもあってか、こうして並ぶと要はやけに小さく見える。頭のてっぺんがみぞおちの辺りだから、一五〇センチにぎりぎり届いていないはずだ。その背丈の低さと、初めて見る制服姿が、彼女がまだ幼い少女である事を、秀人にまざまざと思い起こさせる。
「……刑部さん、どうかしはりました?」
「へ? ――あ、いや、別に……。つーか要ちゃんって、どこの学校行っとるん? 制服からして公立やないやんな?」
うっかり要をじっと見つめていた自分に気づき、秀人はとっさに訊ねた。
訊ねて初めて、これまで要の学校生活について話した事がなかったなと今更に思い返す。
「えーと、制服ではわかりませんか?」
どこか戸惑ったように要が訊き返してくる。その様子に何か妙な事でも言ったかと思いながら、秀人は正直に白状する。
「……悪い。オレ、そういった方面は詳しないねん。今はこっち戻ってきとるけど、成人するまではほとんど関東におったってのもあるしな」
「え、それほんまですの? けど刑部さん、関東訛りほとんどありませんよね?」
「そら、関東訛りせんようにって、変な方向で努力しとったからな。けど、敬語で喋る時は逆に大阪訛りはほとんどゼロらしゅうて、仕事関係で会うた人には関東出身や思われる事が多いんや」
「へえ、そうやったんですか……」
要はどこか感心したように息を吐き、それから改めて口を開いた。
「うちが通ってるんは私立佐乃峰(さのみね)学院中学です。この名前、聞いた事ありませんか?」
「佐乃峰……って、関西でも一、二を争う金持ち系進学校やっけ?」
「まあ、最近はお受験が流行しとるせいで、別にお金持ちばっかりやなくなりつつありますけどね」
やんわりと否定しつつも、実状はその通りだと要は暗に認める。
「ほんまはうちもおばちゃんも普通の公立やろて思てたんやけど、父さんがどうせやったら佐乃峰行け言うさかい、佐乃峰通う事にしたんです」
「通う事にしたんですって言うけど、確か佐乃峰て学費だけやなくて学力もかなり高いんちゃうかった?」
「うーん、まあ、確かに結構スパルタですよ。なんせ五十分授業が毎日七時間あるし、土曜日も午前中だけやけど学校ありますから。ゆとり教育ってなんやねん! って状態です」
からからと笑いながら話された内容に、秀人はげんなりと溜め息を吐く。
「オレの行ってた如月も結構なスパルタやったけど、授業は一日六時間な上、土日はきっちり休みやったで?」
「……え、刑部さんって、あの如月学園の卒業生やったんですか?」
「おう、『あの』如月学園出身や」
目をまん丸に見開く要を見下ろして、秀人はそう言えば話してへんかったっけな、と呟いた。
「小学校三年の半ばから中学一年の末までは親の都合でこっちの公立行っとったけど、それ以外は幼稚舎から高等部までずーっと如月。んで、大学から後はずっとこっち」
「てことは刑部さん、めっちゃ頭ええんちゃいますのん!?」
すっとんきょうな声を上げる要にあっさりと手を振り、秀人はそんな事あらへんと笑う。
「あっちでのツレの一人は元から頭よかったし、もう一人は学年トップレベルな彼女ができたせいで高等部半ばから成績思いっきり伸ばしよったけど、オレは普通に赤点ぎりぎり逃れてた程度やったんや。まあ、勉強の代わりにバスケに熱中しとったってのもあるけどな」
「あー、なんかわかる気します」
「やろ? ――ってそれ、オレが高等部ン頃から成長しとらんって事にならんか!?」
「えーと……ノーコメント?」
「いや、そこは嘘でも否定してや。ここでノーコメントて、肯定されたも同然やんか」
秀人が真顔で突っ込むものの、秀人の正面でくるりと身体を反転させた要は、秀人の言葉に答える代わりに瞳をきらきらと輝かせて口を開いた。
「刑部さん、うち、刑部さんの昔の写真とか見てみたいんですけど!」
「――は?」
「あきませんか? 中学校とか高校とかの頃の刑部さんがどんな風やったんか、めっちゃ興味あるんです」
「…………………………………………ごめん、それ、マジで堪忍」
「え、なんであかへんのですか?」
人波の中でぴたりと立ち止まって上目遣いに見上げてくる少女から視線を逸らし、秀人は首の後ろを意味もなく掻く。
「…………やって、まんまガキやねんもん」
聞き取れるか聞き取れないか、ぎりぎりの声で返された言葉に要は戸惑ったように首を傾げる。
「えっ……ええと、でも、当時は実際に子供やってんから別にええんちゃいます……?」
「せやなくて、周りに比べても、ちゅう事や。――オレ、成長期めっちゃ遅かってん。せやから高校のアルバムまでは、高校生に中学生が混じってるみたいやってな」
はぁ、と溜め息を吐いて、秀人はゆっくりと歩きはじめる。
「特にツレの一人が再会して少しした頃から思いっきりデカなりよったさかい余計コンプレックスで」
「けど刑部さん、バスケ部やってはったんですよね?」
「ああ、せやから、無駄にデカイのに混じってちっこいのがちょろちょろしとったわけや。まあ、ちっこい分機動力と瞬発力あったさかい、高さやのうて速さで勝負しとったんやけど……」
もう一つ苦く息を吐き、秀人は更に続けた。
「成長した今でもまだ、ちっこかった頃ん事がコンプレックスでな」
「せやったんですか……すんません、何も知らんとわがまま言うて……」
しゅんとうなだれる要に、秀人はあっけらかんと笑ってみせる。
「言うてへんかってんから知らんのは当然やろ。ま、そのうち気が向いたら見せたるかもな。――いつになるかはわからんけど」
にやりと笑う秀人に、要はぱあっと表情を明るくする。
「ほんまですのん!? せやったらうち、いつまででも待ちます!」
「おう。待っててくれや。ざっと十年ぐらい」
「ちょ、それ長すぎちゃいます!?」
目を剥く要に秀人がからからと笑い、背中を押して先を促す。
ほんまにもう、と隣で頬を膨らませる要は、それでもどこか嬉しそうに微笑んでいた。