かぶ

惑いへの誘い

 世間というものは元より狭いもので、中でも行動範囲がある程度決まっており、それが一部でも重なっているのであれば、偶然に出会うという事は少ない事ではない。
 たとえばそれが、常に人でごったがえしている紀伊国屋の雑誌コーナーであったとしても。
「……刑部(おさかべ)さん?」
 まさか、と思いながらも裕美子(ゆみこ)は思わず呟いていた。
 彼女が目に留めたのは、彼女の勤める小料理屋「梓(あずさ)」の常連で、女将の養い子である要(かなめ)が執心している男客だ。はじめて店に来たのは冬の終わりの事で、ちょっとした突発的な事件をきっかけに要が彼に近づいたのが春の最中。晩夏にもなろうとしている今では、うっかりすると鼻で笑いたくなるほどに清潔な距離を保ちながらも、二人の間で通じ合うものが、結び合う何かが、確かに芽生えているのが見て取れるまでになっていた。
 仕事がとても忙しい人だと聞いている。実際、彼にとっての繁忙期は見事なまでにぴたりと店に来る足が途絶え、たまにやってきても閉店間際という遅い時間だったりする。要の話では、休みの日には万博や緑地公園などで昼寝をしたり、時には彼女の元を訪れて安らいだりしているのだとか。そして時間ができると、積極的に一回りも年下の少女を誘ってはあちこちに出かけている。
 短い髪を整髪剤で軽く立てているせいか、元々男らしい顔が更に精悍に見える。百八十を越える長身に見合ってしっかりとした体格なのは、学生時代から続けているスポーツのせいだとか。まだ暑い日が続くせいで、今日も今日とて身に着けている薄いシャツを通して、なめし皮のような張りを持つだろう筋肉質な背中のラインがはっきりと見えていた。
 ――はじめに見つけたんはうちやのに。
 季節は色を変えつつあるというのに相も変わらず肌をべとつかせる湿気のような、じっとりとした暗い感情がふと湧き上がってくる。
 男がいない、わけじゃない。それなりに長く付き合っている相手はいる。少しばかり問題のある男だけれど、大切に想われているし、こっちも同じだけの想いを返しているつもりだ。だけどよりいい男に惹かれるのは女としての本能だし、時には少しばかり羽目を外したくもなる。
 確かに彼女自身は誰かのものだけれど、彼は違う。彼を求める少女はいるけれど、彼自身はまだ誰のものでもない。だから彼女が彼に手を出しても、誰かから責められる云われはない。
 ちろりと口紅で彩った唇を舌先で舐め、裕美子は艶めいた笑みを口元に浮かべて目指す相手へと近づいた。
「こんなとこでお会いするなんて、偶然ですね」
「え? ……ええと……?」
 そっと肩に手で触れて、雑誌を立ち読みしていた青年の顔を覗き込む。
「いややなぁ。うちですよ。『梓』で働いてる裕美子です」
「あ――ああ! すみません、思い出しました。ていうか、いつも和服姿しか見てないんで、ちょっと一瞬わかりませんでしたよ」
 ぱたんと雑誌を閉じながら、からりと彼が笑う。その笑顔の純粋さに少しばかり罪悪感が浮かんでくるが、意識的に飲み下す。
「まあ、洋装と和装ではお化粧も変えますさかい、すぐに気づいてもらえへんのはしょうがないですわ。それより今、お暇ですか? もしお時間あるんでしたら、せっかくやし少しお茶でもしません?」
 嫣然と微笑みながら、そうと知らなければ気づかれないほどさりげなく、身体の距離を近づける。今日の服は、日常着にするには少し度胸がいる、ブランド物のサマードレスだ。胸元が、正面からではわかりづらいが、斜め上の角度からだと意外と大きく開いていて、男性の視線を奪うにはちょうどいい。着物を着る上では邪魔になりがちなほどたっぷりとした容量を持つ胸を更に強調させるための補正下着も着けているから、今の思惑には実に相応しいと言える。
 ……その、はずなのに、なぜか彼は逆に一歩退いた。
「すみませんけど、遠慮させてもらいます」
「え……?」
 やんわりと笑みを浮かべながらも、高い位置にある目は笑っていない。
「俺、今でこそこの体格ですけど、昔はほんまにチビやったんです。おかげで年上のお姉さんには可愛がられてたんですがね、それはあくまでも可愛がられてた、珍しがられてたってだけで、向こうが本気やった事はなかったんです」
 周囲の喧騒に紛れそうなほど穏やかな声は、それでありながら不思議とまっすぐ裕美子に届いた。
「モテるんが嬉しかった時期は、そういう相手の思惑ってのにも鈍かったもんで、勝手にのぼせ上がっては辛い目にあう事がちょくちょくありまして。まあ、そのおかげで、今ではちょっと相手の目とか見たら、何考えてるんか、大体察しがつくようになりましたけど」
「察し、つきましたのん?」
「ええ、残念ながら」
 どこまでも誠実な対応をしてくる男に、ほんの少し苛立ちを覚える。
「残念な事なんか、なんもあらしまへんでしょうに。ここんとこ、子供の相手ばっかりしたはるんでしょう? たまには年相応の息抜きも、必要や思いますけど」
「なら逆に訊きますけど、オレと息抜きした後で、要ちゃんの目、真正面から見る事できる思いますか?」
 その名前を耳にした瞬間、汚泥の中に投げ込まれた清涼剤のように、まったく穢れない光を放つ少女の面影が脳裏に浮かんだ。
「あなたにできても、オレは絶対無理です。あの子を一度でも裏切ったら、きっと二度と、彼女の前には立てなくなる。だからありがたいお誘いを受けても、オレは絶対断るんです」
 その気持ちはわからないでもない。
 元来楽しい事なら何でも好き、という気質を持つ裕美子は、若い頃から興味を持てばなんでもしてきた。恋人がいながら他の男と寝てみたり、友達の恋人を寝盗ってみたり、不倫をした事さえある。その時々で、疑いの欠片すら持たない恋人や、友人や、不倫相手の子供の写真などに強く罪悪感を刺激された。
 だけど、所詮はその場限りの楽しみだと割り切ってきた。自分自身の楽しみが原因で、一生口を利けなくなった相手もいるけれど、それはそれとして諦めてきた。
 要に嫌われるのは、正直これまで付き合いのあった誰に嫌われるより苦しいだろう。だけどあの子は、子供だけれど十分すぎるほど大人だ。要が自分自身を使って刑部を楽しませる事ができるようになるまで、まだ長く待たなければならない。身体的にもそうだけれど、法律がまず認めない。
 だからここで自分が彼と一度や二度、関係を持ったとしても、彼の欲求を解消するための刹那的な楽しみのためだけだと言い聞かせば、理解できるだけの頭はあるはずだ。
 それがわかっていないはずがないのに、どうして目の前にいるこの男性は、裕美子を拒否するのだろう?
「……ほな、なんやの。刑部さんは、あの子が大きぃなるまで、禁欲し続ける気でおるの?」
「けど、それで要ちゃんの隣におる権利を握ってられるんやったら、オレはいくらでも我慢しますよ」
 まさか、と思った。そんな事があるはずないと。相手はなんだかんだ言っても、所詮中学生の子供なのだ。心が子供らしくなくても、見た目が大人びていても、未熟な存在である事に変わりはない。
「刑部さん、実はロリコンですか?」
「やめてください。オレは別に、要ちゃんに欲情してるわけやありません」
「ほな、なんでですの?」
 きっぱりと否定する青年へと、素の表情で視線を向ける。その違いに気づいたのだろう。さっきまではどこか身体ごと引いた感じだったのに、今度はきちんと真正面から向き直って、彼は告げた。
「子供やからって、その感情を軽んじたらあかんって事を、オレはこれまでに経験してきたし、見てきてるんです。実際にそういう目に遭うたんも、そういうのを見たんも要ちゃんより幾分上の年齢ででしたけど、それでも根本は一緒や思います。せやからあの子がまっすぐな想いをオレにぶつけてくる間は、オレも真正面から心を返すて決めたんです」
 どくん、と、心臓が奇妙に跳ねた。爆発しそうなまでの熱と、凍てつく程の冷たさが同時に身体の内部を侵食する。
「それって、まるで刑部さん、あんたあの子の事、好きやて言うてるみたいやない……」
「ああ、そうですね。多分オレは、いずれ要ちゃんに心底から惚れるやろ思てますよ。だってあんなええ子はそうおりませんし、何より彼女と一緒におると、一番自然な自分でおれるんです」
 これまでは、荒削りな男臭さを感じていた顔が、はにかんだとたんにまるで十代の少年のように見えた。
 まったく馬鹿馬鹿しい。これではどうしようもないじゃない。他人の入る隙間なんて、最低でも今は、ほんの一ミリもない。今時こんなまっすぐな人間が存在するなんて、考えもしなかった。はっきり言って、絶滅危惧種レベルじゃなかろうか。
 数分前まで身の内を狂おしく焦がしていた暗い情欲がすっかり冷めてしまった。よほどの事でもない限り、この相手に同じものを持つ事は難しいだろう。
 諦めと降伏のため息を吐いて、裕美子は薄っすらと微笑を浮かべる。
「……そういう告白、うちやのうて、本人にしたりなさいな。あの子、きっと喜ぶ思いますえ」
「はは、そうですね。ちょっと考えてみます」
「早めにしといた方がええ思いますよ。何しろあの子も結構人気はありますさかい、うかうかしてると横から掻っ攫われるかもしれまへんえ」
「うわ、それは困るな。早うなんとかせな」
 冗談めかした笑い顔の下で、目と声だけはどこまでも真剣だ。
「要ちゃんのためにもそうしたって。そしたらあの子、きっともっとどっしり構えられるようになりますさかい」
「そうですね。忠告、感謝します。――オレ、そろそろ行きますんで」
 ちらりと腕時計に目を走らせて、男は手にしていた雑誌を棚へと戻す。どうやら立ち読みが目的だったようだ。それなら邪魔をしてしまったのかもしれない、なんて殊勝な事を考えながら、裕美子は頷いた。
「ええ。またお店にも顔見せてくださいね」
「はい、近々」
 大人らしく社交辞令と会釈を交わしあい、頭一つ飛び出している後姿が人ごみに紛れながら店の外へと向かうのを見送る。
 うっとうしいほどにひしめき合う人波の中でしばらく立ち尽くしていた彼女は、ふと肩からかけたバッグの中へと手を差し込み、先日買い換えたばかりの携帯電話を取り出した。
 フリップを開いてキーパッドの上に指を乗せれば、意識をするより先に、指が一つの名前を画面に表示させた。
 夜明けまで仕事をしている男だから、きっとこの時間もまだ寝ているだろう。そうと知っていながらも呼び出してやりたいような気になって、発信ボタンを軽い力で押した。
『誰……?』
 いつもなら絶対待たない回数の呼び出し音の後に聞こえてきたのは、果てしなく不機嫌で無愛想な声だというのに、裕美子の頬には穏やかな笑みが浮かぶ。 どうしよう。何を言おう。とりあえず、無愛想な声に対して抗議をする事は決定だ。その後はこちらから向かうべきか、それとも迎えに来させるか……
 本当に不思議だ。さっきまでは別の男を誘惑しようとしていたのに、今の裕美子が会いたいと思うのは、触れたいと思うのはただ一人だけ。
 唐突に突きつけられる要求へ電話の向こうにいる相手がどんな反応を示すのかを想像する。書店を一歩外に出れば、熱を大量に含んだ空気が身体を一気に包み込む。だけど今の裕美子は、その不快感も気にならなかった。