かぶ

晴れのち雨・花火 - 01

 出会って二度目の夏が来た。
「去年は無理やったけど、今年は行こうか」
 梅雨らしい梅雨もない六月のある夜、いつものように『梓(あずさ)』で夕食を摂り終えた後に居間へとやってきた刑部秀人(おさかべ ひでと)がそう誘ってくれた。
 その日から坂上要(さかがみ かなめ)は、花火大会の日を心待ちにしていた。
 去年はまだ互いに遠慮とかがあったし、何より秀人が仕事でデスマーチを繰り広げさせられている真っ最中だとかで、どう足掻いても行けない状況だったのだ。
 残念だとは思ったけれど、仕事なのなら仕方ないと零れかけたため息を呑み込んだのも懐かしい。それだけの理由で新調するのを取りやめた浴衣も、今年こそは少しばかり気合を入れて新しいものを選んだ。
 場所取りもしたいし、何より屋台を冷やかしたいからという秀人の要望にあわせて待ち合わせの時間を四時にした。だから要は、少し遅い目のお昼ごはんを食べ終わると、梓に笑われながらもすぐ準備に取り掛かった。温度を低く設定したシャワーを浴びて、肩までの長さしかない髪を梓になんとかまとめてもらって、それから浴衣の着付けに入る。
 何しろ周りには着物を着る事に慣れた人がいるのだから、下手な着付けをしては容赦なく駄目出しを食らってしまう。そうでなくても、今日は見せたい相手がいるのだ。いつもよりよっぽど丁寧に着付けをがんばったおかげで、梓からは一発オーケーをもらえた。それからわざわざいつもより早く出てきてもらった裕美子(ゆみこ)姉さんに頼んで、髪も可愛らしく結ってもらう。さすがに嬉々として化粧道具をずらりと並べられた時は、口紅以外は慇懃なまでの丁重さでお断りした。
 少し早いとはわかっていたけれど、果てしなく浮かれる気持ちに急かされて三時には家を出た。けれど阪急の梅田に到着したところで少しだけ冷静さが戻ってきて、気分を落ち着かせるために紀伊国屋へと足を運んだ。
 なんとか三十分潰したけど、そわそわし通しで読んだはずの雑誌の内容をこれっぽっちも覚えていない。むしろ携帯電話のサブディスプレイに表示されたデジタル時計が四十分を表示してくれた時には、ほっとしさえした。
 ほんの二駅の時間さえもどかしく、一番後ろの車両、一番後ろのドアのそばに立ったままじりじりと、外を流れていく風景を見るともなく見ていた。
 浴衣率の異常に高い電車から降りた先は、やはり案の定浴衣姿の人たちであふれかえっていた。改札を出て左手側にある踏切を渡ったところで一度足を止め、きょろりと周りを見回す。こういう時、待ち合わせ相手の背が高いというのは少し嬉しい。大して時間をかける事無く目指す相手を見つけた要は、相手の名前を呼ぶより先に、笑いの混じった驚きの声を上げていた。
「刑部さん、ちょっとそれ、一体何ですのん!?」
 どうやら踏み切りを渡るあたりで彼女に気づいていたらしく、いつもの要らしからぬ不躾な声をあげる少女へと楽しげな笑みを投げた秀人は、「それ」と呼ばれた品を持ち上げてみせる。
「見てのとおり、風呂敷包みや」
「いや、確かに風呂敷包みですけど……なんでまたそんなんを……」
「だってやっぱ、和な格好するんやったら、持ち物まで和に徹するべきや思わへん?」
 呆れた声が出てしまうのも仕方がないかもしれない。なにしろ秀人が手にしているのは、コントかギャグあたりに出てくる泥棒さんご用達な、渋い緑に白抜きでぐるぐる模様が入った風呂敷なのだ。形としては、要でもぎりぎり小脇に抱えられそうな大きさの平べったい長方形をしていて、なんとなく中に入っているものの正体は察する事ができる。しかし、しかしだ。
「あー……基本的な趣旨には賛成しますけど、そういう方向で徹底する必要はないような気も」
「そか? けどさ、浴衣に洋モンの鞄とかって、よっぽどの事でもないと合わんやん。大正あたりの雰囲気狙うにしても、あれは袴やから合うたわけで、着物や浴衣じゃどうにもあかんで」
 なんて事をしかめっ面でもっともらしく述べる秀人にひとしきり声を上げて笑い、要は改めて彼の姿に意識を向けた。ちりめんっぽい、どちらかと言えば甚平にこそ相応しげな生地の浴衣は深い藍染で、細い白線が二本入った黒い帯が腰の正しい位置できちんと留められている。ちらりと見えた感じでは、結び目の貝ノ口も形がしっかりとしているようだ。
 淀川の方向へと促され、秀人の横でちょこちょこと歩きながら要は率直な疑問を口にする。
「――刑部さん、どっかで着付け習わはりました?」
「特別習ったわけやないけど、おかんとダチの一人がその辺やかましゅうてな。着るたびいちいち叩き込まれたんよ。……要ちゃんも、さすがっちゅーかなんちゅーか、やっぱ和装もしっくりくるなぁ」
 口にしながら、秀人は目を細めて要の浴衣姿を堪能する。
 元は白地なのだろう布に、上下から刷毛で刷いたような黒が入り、それを鉢の支え代わりとして藍色をした大輪の朝顔が、ちらほらと清楚に花を咲かせている。帯は花芯として入れられたと同じ鮮やかなピンクで、手にしているのも、竹細工に桜色の巾着をくみあわせたもので、しっくりと統一感がある。いつもは肩口でさらさらと揺れている髪は、頭の後ろで一つにまとめて捻り上げ、その端をかんざしのようなクリップで留めている。正月明けに『梓』を訪れた時にも、要の着物姿を見た事があった。その時も思ったのだが、要はどうやら和服を着ていると、妙に匂い立つような空気をまとうようだ。
 好きな人から与えられた率直な褒め言葉に頬を染め、髪を崩さないようにと気をつけながら首を横に振る。
「まさか、さすがにそれは無理です。裕美子さんに無理言うて来てもらったんです。あの人、自分で自分の髪結えるんですよ?」
「へぇ、それは……すごいんか?」
「そりゃあ、もう。形を作るだけやったらできん事もありませんけど、乱れのない綺麗な結い髪ってなったら普通は無理です」
 秀人らしいと言えば秀人らしい反応に笑いながらもきっぱりと頷く要に、なるほどと返しながら秀人は軽く肩を竦める。
「その辺は、男にはわからん苦労やな。何せ和服着るからこの髪型なんて決まりはないしな」
「あったら刑部さん、やらはりますの?」
「やるやろなぁ。けど、正直和装の面倒さは着付けだけで十分や」
 笑って頷いたものの、続いた言葉の語尾に、深い嘆息がけちをつける。
「おかんはある程度したら諦めてくれてんけど、ダチの方がほんまにうるそうてな。『秀人、着崩すのと着乱すのはまったく違うんだよ? 着崩しは上手くやれば粋になるけれど、着乱れはみっともないだけだ。そんなみっともない格好をするのなら、頼むから僕の傍には寄らないでくれ』なんてな。どうも下手な着付けしてる奴を見ると、手ぇ出したなるみたいで、イライラしてんのが丸見えになるから、こっちが折れてきちんと着るようになってんけど」
「ああ、それわかります。おばちゃんがここ最近ずっとそれで、お祭とか花火があるたび、外で見かける浴衣の着付けの拙さにぷりぷり怒ったはりますよ」
「やっぱり? まあ、オレもあんま強い事言えへんねんけどな。さっき言うたダチのおかげで、オレまで浴衣とか着物の着付けの拙いの見たら、つい手やら口やら出したなって……」
「刑部さんもですか? うちもですよ。男性のはまだごまかせるような気がするんですけど、女性のは一目瞭然やないですか。せやからうちもこう、お端折はもっときちんと! とか、そんなつんつるてんにしてどないすんの! とか、襟元はぴしっとする! とかいらん口出したなる事がちょくちょくと……」
 ちらちらと周りの浴衣姿に渋い視線を向けながら、御堂筋線の高架下を南に向かって歩く。大きな交差点を過ぎ、この日のために借り出されてきたのだろう警備員の誘導に従って堤防を上る。そこから見下ろした河川敷には、すでに屋台が長蛇となって並んでいた。
「多分この時間帯じゃ、準備中のとこが多い思うんやけど……」
「かまいませんよ。うちは屋台やのうて、花火が目当てで来てますから」
「あー……せやんな。今日は屋台がメインちゃうもんな……」
 ちょびっとばかし遠い目になる秀人を見て、零しかけた笑いを押し殺しながら要は朗らかに告げた。
「最大のお目当てが花火や言うても、屋台めぐりも楽しみの一つにはかわりませんやろ? とりあえずうち、いか焼きと玉子せんべい狙いなんですけど、刑部さんは何目当てですのん?」

* * *

 これまでにくじ引きで当てた事のあるどこまでもしょうもない景品の事だとか、「いか焼き」とは、水に溶いた粉を混ぜた玉子焼きでいかをとじた物であって、「いかの姿焼き」とはまったく異なるものであるが故に「いかの姿焼き」を「いか焼き」と呼ぶのは大いに間違っている、なんて事を大真面目に演説したり、みつ入れ放題のカキ氷屋で全種類の蜜を入れてどれほどまでにえぐい色ができるのかを試してみたり、実に愛想のないオヤジのミルクせんべい屋でそれぞれに引いたくじが見事にスカで、五枚重ねのぱさぱさのせんべいにしみじみと黄昏てみたり、最近やたらに増えてきたケバブの屋台で、調理の様子を感心しながら眺めたり、きゅうりの一本漬けを齧ってみたり、などと、たんまり屋台を堪能しながら距離にして一駅ちょっとを歩ききった頃には、待ち合わせてから二時間近くが経っていた。
 梓と一緒にこの花火大会にやってくる時はいつも、近くまで車でやってくるか、めったになかったが電車の場合は十三で降りるから、この川原をこんなに長く歩くのは正真正銘初めてだ。それに、今回は堤防から花火を見るのだ。これも要には初めての事だった。なにしろいつもは梓の付き合いなどで安く、もしくはただで特別観覧席に入れるからと、きちんと椅子のある場所で、大人たちに囲まれて見た目ばかり高級な弁当をつつきながらだった。
 実のところ、秀人が要を花火に連れて行きたいと梓に告げた時、彼女はその事を口にした。よければ観覧席のチケットを融通しますよ、と。しかし秀人は堤防から見る方が視界が広くて全体が見れるし、何より気兼ねしながらというのは苦手なのでと断ったのだ。梓は残念がっていたが、要としては秀人と一緒に花火を見られる、というそれだけが重要だったので、どこで見るのかについてはまったく意に介していなかった。
 今だってそうだ。秀人と一緒だというだけで気分が高揚して、疲れも足の痛みもほとんど気にならない。その理由の中には、秀人がこういった催しを全力で楽しむから、というものもあるだろう。彼が楽しんでいる姿を見るだけで、要も楽しくなる。彼が美味しいと笑うから、実際には大して美味しくもない屋台売りの食べ物も美味しく感じられる。
 屋台の列がようやく途切れ、人ごみも収まって来たあたりで、ふと思い出したように秀人は要へと改めて視線を向けた。
「そういえば要ちゃん、足、痛ない?」
「あ、はい。うちは大丈夫です。下駄には慣れてますんで」
「ほんまに? 女の子の下駄って男のよりキツイって聞いた事あるけど……」
「ああ、確かに男の人のよりは鼻緒がきついか思いますけど、うちはほんま、大丈夫です。どっちか言うたら、歩きすぎの方で膝の裏が少し痛いです」
 はんなりと笑ってみせると、ああ、と納得した顔になり、風呂敷を持たない手で要の手を取った。
「お、刑部さん!?」
「もうちょいがんばってな? あっこのでっかい階段の向こう側がベストポジションなんよ」
 突然の事に咄嗟に反応できずにいる要に力づけるような笑みを向け、さっきまでより少し急ぎめの速さで秀人は先導する。それでも要がついて行けないほどの歩幅でも速さでもないあたり、きちんと気を使ってくれてるようだ。だけど秀人と手を繋いで歩く、なんて経験は本当に数える程しかないため、そんな事に気づけるような余裕が要に残されているはずもない。それなりの距離を歩いてきたからだけでない理由で体温が上がるのを感じながら、時々振り返っては大丈夫か? と目で問うてくる秀人に遅れぬよう、必死で足を動かす。
 特別観覧席の仕切りと河川敷で花火を待ち構えている人たちの間を通り抜け、堤防に設けられた大階段を上る。その時も、裾を乱さぬようにと一段一段丁寧に上る要を秀人はどこまでも丁寧に支えてくれていた。
 こんな風に接されるのはとても嬉しいのだけれど、同時にとても苦しくなる。まるで、そう、彼が自分を一人の女性として見てくれているみたいだ、なんて自惚れてしまいそうになる。
 ……なんて思いながらも、少しでもこうしていられる時間を長くしたくて、周りの邪魔になるとは知りつつ、階段を上る一歩一歩がゆっくりになってしまった。おかげでようやく上りきった時には、普通とは真逆の理由で疲れきってしまっていた。