かぶ

天邪鬼な想いの行方 - 02

 情事の後はいつも、しばらくの間文字通り動けなくなってしまう。
 特に手足の末端が酷くて、これまでそれなり以上の回数を杜樹とシてきたけど、いつになってもこの痺れる感覚がなくならない。なんだろう。シてる間は血液が繋がっている場所に集中しすぎて手足からなくなってしまうのかな? 原理はよくわからないけれど、なんとも不思議な現象だ。
 体力を使い果たしてうとうとと微睡みながら、手足に血液が循環して、じんわりと感覚が戻ってくるのを待つ。ここで気を抜くと熟睡してしまうのだけれど、ここは杜樹の部屋で、まだ終電には間に合う時間だから寝てしまうわけにはいかない。今日は金曜日だからってうっかり杜樹からのお誘いにほいほい乗ってしまったけど、考えてみれば本来は彼女ちゃんを優先すべきなのだ。もしかすると、明日は朝からここに来るのかもしれない。来ないとしても、朝からデートってのはありうる。や、杜樹の事だから昼からの方が現実的か。
 どちらにしても、やっぱり長居はできない。
 そう考えて、あたしはゆっくりと身体を起こした。
「どした? 喉でも渇いた?」
「んー、それもあるけど、そろそろシャワー浴びないと」
「別に後でもいいじゃん。どうせまた汗かくだろ」
 のんきな杜樹の声に、あたしはため息を吐く。
「まだやるつもり? そんな事してたら終電間に合わないでしょ」
「は? なんで?」
「なんでって……」
 きょとんとした顔で寝そべったままこちらを見上げる杜樹に、あたしはついつい言い聞かせるような口調になってしまう。
「決まってるでしょ。帰るからよ。まったく、休み前の貴重な時間だってのに、なんであたしとこんな事してるのよ」
「休み前だからだろ。それに帰るってなんだよ。泊まってけばいいだろ」
「や、よ。万が一にも彼女ちゃんが来ちゃったらどうするつもりなの? 電話してる向こうでシャワーの音とかも最悪だし」
 また、溜め息。ああもうどうしてこの男はこうもニブいのかしら。でもってあたしはどうしてこんなニブい男が好きで仕方ないんだろう。
「……誰も来ねえし、電話も来ない。だから泊まってけよ」
「あんたはそう言っても、相手が突然来るかもしれないじゃない。電話だっていつしたくなるとも限らないんだし。言っとくけどあたし、修羅場はごめんだからね? ……なんて、あたしが言っても重みないけどさ」
 自嘲は嫌いだけど、こういう時はどうしても浮かんできてしまう。っていうか、こういう会話そのものが嫌なんだけど。杜樹とはもっとこう、さっぱりきっぱりした関係でいたいのに。
 まったく、気を遣ってるこっちの身にもなってほしい。
 深い息を吐きながら、あたしはなにやらものすごい目であたしを睨みつけてくる杜樹の身体をまたいでベッドから降りる。んー、やっぱ今の言い方は少しばかり酷だったか。でもまあ、たまにはこうしてきっちり線引きするべきだよね。自分の立ち位置をきちんと確認するためにも。
 脱がされてベッドの下に落とされた下着へと手を伸ばす。後ろから杜樹がじっとあたしを見ている事には気づいていたけど、恥じらいはあえて無視して手早く服を身に着けた。……本当はシャワーを浴びてからにしたかったけど、とりあえず、今は家に帰るのが先決だ。これ以上、ここにいるのは駄目だと、直感していた。
 一通り服を着こんで立ち上がろうとしたあたしの腕を、不意に杜樹が捕まえる。
「――っ!?」
「お前さ、なんでいつもそうなの?」
「……え?」
 ――やだ、嘘。杜樹、マジで怒ってる?
 きゅうっと胃が縮む感覚に呼吸ができなくなる。ぎこちない動きで振り返って、なんとか声を振り絞った。
「な、にが……?」
「だからその態度。なんでお前が俺の『彼女』の事とか気にするんだよ。んな必要ねえだろ」
「気に、するに決まってるじゃない。だってあたし、杜樹の本気の邪魔をするつもりはないし……」
「へぇ? なら、俺の本気ってナニよ?」
 あたしの腕を捕まえたまま、杜樹が身体を起こす。その目には、剣呑な炎が灯っていて、一つでも対応を間違えたら爆発しかねない危険なものを否が応にも感じてしまう。
 一体どうしてこんな事になってるのか、あたしにはさっぱりわからない。
 わかるのは、あたしの言った言葉が杜樹の逆鱗に触れたらしいって事だけで。
「何って、彼女ちゃんでしょ? ……二ヶ月ぐらい前、会社の合コンで知り合ったって言ってた名古屋巻きの似合う子。いい子だから付き合うって言ったの、杜樹だよ?」
「俺、その後どうなったとか言った?」
「知らないわよ。あたしから訊く義務はないし。それに、杜樹が口説いて落ちない子なんてこれまでいなかったし、あの後しばらく連絡こなかったし」
 そう。だからあたしは彼女と上手くいったんだなって判断した。だけど三週間前からまた誘われるようになって、もう浮気の虫が出たのかと少し呆れながらも、まだ杜樹が食指を動かしてくれるって事に安堵したのだ。
「……お前さ、まさかとは思うけど、俺がそうやってコンパとかの報告するたびそんな風に思ってたのか?」
「そんな風に……って、何が?」
 今度はあたしがきょとんとする番だった。
 その顔を見て、杜樹がありえねぇ、と深い深い溜め息を吐く。
「確認したいんだけど。俺とお前の関係って、何?」
「え? ええと、その、なんていうか、いわゆる一線越えてる友達? セフレほどは軽くないってうぬぼれてたんだけど……やっぱりうぬぼれだった?」
 改めて言葉にすると、なんとも奇妙な関係だと思う。しかも主導権はいつだって杜樹が握っていて、あたしは少しでも長く杜樹といたいからって、他の女が周りにいても傷ついたり変な嫉妬をしないようにと、馬鹿みたいに必死で彼の重荷にならないよう気を遣っていて。
 だけどそれが間違えていたのだろうか。やっぱりどこかで本当は嫉妬深くて独占欲の強い本性が影をみせていたのだろうか。――やっぱり彼女ちゃんの事を口にしたのがまずかったのか。そりゃそうだよね。口にするって事は、つまり彼女ちゃんの事を意識してるんだって知らせる事になるんだもん。ああもう、どうしてあたしあんな事言っちゃったんだろ? もっと何か、そう、適当に明日の予定でもでっち上げてればこんな事にはならなかったはずなのに。
 ほとんど停止している思考の中で、そんな事ばかりがぐるぐると回っている。
 そんな袋小路な思考を止めたのは、杜樹の思いも寄らない言葉だった。
「へぇ……? つまり、なんだ? 俺はお前を一方的に彼女だって思ってたってのか?」
「……はぁ?」
 なんか今、妙な幻聴が聞こえた気がする。
「はぁ? じゃねぇよ。ったく、マジやってらんねぇ。何べんカマかけても嫉妬の素振りも見せてくれないからおかしいとは思ってたけど、まさか本気で俺の一方通行だったなんてな。信じらんねぇ……」
 苦りきった顔でがしがしと短い髪を掻き毟る杜樹に、あたしは思わず声を上げていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ! なによそれ、意味、全然わかんない!」
 さっきからなんだかやけに都合のいい言葉ばかりが聞こえているような気がするんだけど、全部あたしの幻聴だよね? 現実なわけ、ないよね?
「俺もワケわかってねぇよ! 俺はもう、お前と四年近く付き合ってるつもりだったってのに、まさかお前がそんな風に考えてたなんて信じらんねぇ」
「だ、けど杜樹、ずっと彼女とかいたじゃない! それにあたし以外にも浮気相手もいたでしょ!」
「いねえって。だって俺、お前と初めて寝てからすぐにその辺整理したんだぜ? その後はお前だけ。まあ、楽しい事は好きだからコンパとか飲み会には顔出してたけど、やましい事は――初めの頃はともかく、最近は全然してねえよ」
「うそ……」
 急激にもたらされた情報に、頭が完全にショートしてる。何も考えられない。
「第一考えてもみろよ。ここんとこずっと、イベント事は俺ら一緒だっただろ? 誕生日もクリスマスも年末年始もバレンタインもホワイトデーも」
「だ……って、杜樹、その頃になるとフリーになってるんだもん」
「俺的にはなってねえ。つーか、そんなタイミングでわざわざフリーになる馬鹿いねえだろ」
「それは……そう、だけど……」
 でも、一緒に過ごす彼女とかいないの? って訊くたび、杜樹は「だからお前と過ごすんだろう」って……
 ……………………うん? って、あれ? え? ちょっと待って。
「うそ。やだ、ぇええっ!?」
 もしかしてあたし、なんだか変な方向に考え違いし続けてた?
 これまでずっと、あたしは杜樹の浮気相手の一人だって思ってたから、杜樹の言葉を「他に相手がいないから仕方ない」って意味で取ってたけど、その大前提が根本的に間違っていたとすれば。
 それはつまり、杜樹は「あたしがその彼女だから、あたしと一緒に過ごすんだ」って言ってくれてたって、わけ、で……
「……うそ」
 ああ、だめだ。本当に頭がパンクしそう。だってだって、こんな都合のよすぎる可能性は一度も考えてなかったんだもん。はじめっから諦めてて、誘われた時に本命ちゃんから借りる事ができればそれで十分ってずっと自分に言い聞かせてきてたんだもん。
「……なんか色々今更気づいたような顔してるけど、俺は嘘は言ってねえ。まあ、確かにはっきりした言葉は言ってなかったけど、態度とか行動で分かってくれてると思ってた」
「わ、かるわけないじゃない! だってあんたの好みはあたしと真逆だったし!」
「俺の好み? 昔から俺にまとわりついてきてた連中の事言ってんなら、ありゃただ単にすぐヤらせてくれる女だったから周りに置いてただけなんだけど?」
 あっさりとなにやら酷い事を言う杜樹に、あたしは喘ぐように問い返す。
「じゃあ……杜樹の好みだからじゃ、なかったの?」
「当然。つか、俺の好みはあっさりさっぱりしてるお前がど真ん中なんだけど?」
「っ――! なにそれ!? そんなの知らない! 聞いてない!」
「だから察しろって。そうでなくて、なんであんなにもお前とばっかあちこち出かけるんだよ」
 呆れたように息を吐いた杜樹はフリーズ寸前のあたしをじっと見つめて、何かを企むようないたずらっぽい笑みを浮かべた。
「とりあえずさ、お前が抱えてた妙な誤解も解けたわけだし? 改めてちゃんと付き合おうぜ、比佐子」
「っ――」
 めったにないくらい甘ったれた顔をして、杜樹があたしを見つめてる。
 そんな杜樹の顔と言葉に、どくん、と、まるで全身が心臓になったみたいにあたしは揺れた。
 駄目。こんなの、駄目だ。だって杜樹は。杜樹と付き合うってのは、それはつまり――数ヶ月もすれば飽きて他の子に興味を移されるって事で。
 さっきからの杜樹の言葉を信じたくないわけじゃない。ううん。信じたくて仕方ない。信じたいって、心が叫んでる。
 だけどあたしはこれまで出会ってから六年もの間、ずっと杜樹を見ていたのだ。ただの友達だった頃から、抱かれるようになった今まで、ずっとこの浮気性でどうしようもない杜樹を、見ていたのだ。そんなあたしが、あんな都合のいい言葉をそう簡単に信じられると思う!?
 今の関係がこんなに長く続いてきたのは、あたしが友達ときどきセックス相手として自分を抑え込んできたからだって自信を持って言える。本当のあたしを――あたしは本当は、独占欲が強くて嫉妬深て、これまで杜樹が付き合ってきた女の子たちの比じゃないくらい重い女だってを知れば、きっと杜樹は重たがってすぐに離れていくに決まってる。
 それがわかっていながら『ちゃんと付き合う』なんて――できるはずがない。
「……………………い……」
「い?」
「…………い、やだ。いや、って言うか駄目。そんなの駄目。絶対駄目! 駄目ったら駄目!」
 気がついた時には、あたしは全力で叫んでいた。