夏の虫駆除方法。
せっかくバイトも予定も何もない日だから、昼までぐーたらと寝過ごして、夕方あたりから都心へ繰り出そうかなんて怠惰極まりない計画を立てていたものだから、余計に面倒くささが募る。
出すものを出してさっさと帰って寝なおそう、なんて思いつつ、カフェテリア横の自販機コーナーを通り抜けて近道すべく進路を変更したところで、見間違える方が難しいほどに見慣れた姿を見つけて足を止めた。
「あれ、あそこにいるの……チャコ、か?」
かんかん照りに日が差している自販機コーナーの前で、自分で買ったのか奢られたのか、缶入りのドリンクを手に持って、梨尾比佐子(なしお ひさこ)は杜樹にはまったく見覚えのない男と、やけに楽しげに話をしていた。
多分相手は、比佐子と同じ講義を取っている学生だろう。それ以下ではあったとしても、それ以上であるはずがない。ぶっちゃけ、あってたまるか、ってのが杜樹の素直な心情だ。
出会った当初は本気で男としか思えないような格好の多かった比佐子だが、最近は不意打ちでフェミニンな格好をする事が増えてきた。おかげで目には楽しいけれど、杜樹の心臓にはいい意味でも悪い意味でもあまりよろしくなかったりする。
見た目も中身も実にイケメンな彼女は、話してみればめちゃくちゃ話しやすいし、趣味も合うし、まるで男同士でいるような気安さがあるため、他のそこらへんにうじゃうじゃしているオンナどもとは違う意味で、男ウケがいい。だから気がつけば、彼女の周りには、色めいた感情を含まない男が無駄に多かったりする。しかし色を含まないのははじめのうちだけで、少しずつ彼女との距離が近づくにつれて、だんだんと気づきはじめるのだ。彼女が本当はどんなに女の子らしい子なのか、という事に。
自分自身が、多分他の誰よりも比佐子を一番男扱いしていたからこそ、杜樹には嫌というほどそのギャップがどんな効果をもたらすのか、身に染みてわかる。
おかげさまで今の杜樹にとっては、彼女を取り巻く『男友達』は、よっぽど頑強に他に意識が向いてでもいない限り、みんな敵だ。
そんなわけで、ほんの数分前までは肩から下げているショルダーバッグの中にあるレポート一枚を教官室に運んで家に帰る事が最優先事項だったのだけれど、今は比佐子の前で、比佐子の笑顔を鼻を伸ばしながら堪能しているいけ好かないあの男を排除する事が第一目的と成り代わった。
体育会系っぽいゴツい身体とクリーンカットな髪型のその男は、夏だからというには少しばかり日焼けがきつく見える。ありゃあ絶対海ナンパのための日サロ焼けだろ、と心の中で勝手に決め付けて、杜樹は躊躇なく二人の方へと足を向けた。
「よ、比佐子。こんなところで何やってんの?」
自分の声に反応してくるりと振り向いた彼女の頬が嬉しそうに輝いて見えたのは、目の錯覚じゃないと思いたい。
「あれ、杜樹じゃん。何って、えーと……世間話?」
「この暑い中で? ったく、帽子ぐらい被れよ。日射病になっても知らねぇぞ?」
ぽよんとした反応に苦笑して、すっかり熱くなった髪をかき混ぜる。比佐子にこんな気安さを許されているのは、男の中では杜樹ぐらいのはずだ。隣の男がむっとした顔になるのを見て、杜樹は内心でほくそえむ。
それにしても比佐子と来たら、今日も今日とて女の子らしい格好をしてやがる。
以前ならば選ばなかったような身体にぴたりとフィットしたパステルイエローのシャツは、元水泳部員的な細くて無駄な肉のない肩から背中にかけてのラインを強調しているように見える。腰に巻いたシャツの下からすらりと伸びている足を裾がレースになったアイボリーのレギンスがふくらはぎまでを包んでいた。足先はヒールのない革靴だが、角ばったデザインながらもくるぶしの下にあるちょっとした切込みと、それを留める形で結ばれている革紐が実に洒落ている。
他の男の前では、できる限り女らしくしないでほしい杜樹としては、今の比佐子の格好で唯一許容できるのは腰に巻かれているシャツだ。なぜかって? そりゃあ、きゅっと引き締まった丸くて可愛いヒップがきちんと隠されているからってのも大きいが、何よりそのシャツが、元は杜樹のものだったから、ってのが一番の理由だ。
春先にちょっと薄着をしていた比佐子に杜樹がそれを貸したのだが、ミスプリントしたような、いびつで大柄な白と茶色のチェック柄が似合っていたし、何より彼女がそのシャツを気に入っていたようなので、ほいっとあげてしまったのだ。それからしばらくの間、比佐子がちょくちょくそれを着ているのを見ていたが、暑くなってからはさっぱりだったから、飽きたのだろうかと思っていた。だけどどうやらそうじゃなかったらしい。
その上、あれが元々自分のものだったシャツなのだと考えると、比佐子の腰を包み込んでいる袖の部分が自分の腕の代わりのように思えてきて、ほんの少しばかり心が浮かれてくる。
「んー、それは考えたんだけど、ほら、あたしが持ってるのって、キャップばっかだろ? だからこういう格好にはどうにも合わなくて」
「そういやそうだっけ。――あ、そだ。こないだ見つけた古着屋がさ、無駄に帽子類充実してるところだったんだけど、行ってみるか? お前が好きそうなの、帽子だけじゃなく色々あったぜ」
「マジ? え、どんなのがあった?」
比佐子の目が一気に輝いて、さっきまでは半分しか向けられていなかった意識と身体が、完全に杜樹へと向けられる。世間話の相手だった男は、きっともう、意識の片隅にも残っていないだろう。
「どんなのって、んー、たとえばいろんなデニムの布が寄せ集めのパッチワーク? みたいになったツバなしの帽子とか、剥きかけのバナナをさかさまにしたみたいな形のレインハットとかあったはず」
「ちょっと、待って。それ、もう聞いただけで買い決定なんだけど。その店どこにあるの?」
「教えたらお前、絶対一人で行くだろ。俺も買いたいのあるしさ、一緒行こうぜ」
「いいよ。いつにする?」
大乗り気の比佐子に、この機を逃してなるものかとばかり、杜樹は考える隙を与えないまま告げる。
「俺はいつでもいいし。てか、今日、今からとかどうよ?」
「今日? ……あ、今日は、ええと……」
表情を曇らせて隣にいた男へと視線を向ける比佐子に、やっぱりな、と口の中で呟く。そうでもなけりゃ、比佐子がわざわざこんな格好をするはずがない。
最近、比佐子はどうやらカレシを作ろうとしているらしく、甘い誘いには基本片端から乗っかっている節がある。杜樹としては目の前に俺がいるだろうと言いたいのだけれど、これまでの自分の行いを振り返ったり、何より実際にそう口にした時に返ってくるかもしれない反応が怖くて何も言えずにいる。
まあその代わりと言っては何だが、可能な限り邪魔をしている。まさしく今、彼が実際にやってのけているように。
「悪いけど今日は、俺と先約があるんだ。だからそっちは後日にしてくれないか?」
ようやく存在を思い出してもらえたと安堵する男は、どこか得意げに告げた。しかしそんな奴には目もくれず、杜樹は比佐子から敢えて視線を外さないまま尋ねた。
「何? チャコ、今日予定あんの?」
「う、うん。ほら、前に話したっしょ? 上野でエジプト・メソポタミア展があるんだって。実は今日、それの最終日でさ……」
申し訳なさそうな、哀しそうな、そんな顔をしながら事情を説明する比佐子の髪を、もう一度くしゃりとかき混ぜる。罪悪感を帯びた瞳をそっと上げる彼女に微笑んで、杜樹はほんの少しだけ下にある目線をきちんと正面から合わせるために腰を屈めた。
「それなら仕方ないか。お前、開催決まってからずっと行きたがってたしな。なんか珍しい出土品が今回限りで展示されてるんだっけ?」
「そうなの! だけどほら、夏が始まってから、何かとばたばたしてたでしょ? おかげでまだ行けてなくて。その事を先週のセミナーで話してたらさ、藤川(ふじかわ)君が――」
「なら先にそれ、行けばいいんじゃね?」
話の展開が明らかに読めた瞬間、杜樹はすかさず口を挟んだ。
比佐子にあれ以上話をさせていれば、きっと割り入る隙を見つけるのが困難になっていたはずだ。え、と声を上げてきょとんとする彼女に、杜樹はなるべく平坦な声で提案する。
「だからさ、先にそれ見に行って、それから古着屋行けばいい話じゃん。ついでにメシでも食いに行こうぜ」
「え、でも時間とか……」
「最終日って言ってもさ、そういうのって終わるの、どうせ六時ぐらいだろ? そこまでぎりぎり粘ったところで、俺の言ってる店が閉まるのが更に遅いから、急げばぎりぎり余裕で間に合うし。晩メシは遅くなるかもだけど、先週、バイト代入ってちょっとリッチだから、今なら三千円ぐらいまでなら奢るぜ?」
「えー、リッチなくせに奢ってくれるの三千円だけ? それってショボくね?」
ちょっと前まではお断りモードだった比佐子が、今はだんだんと乗り気になってきている。それが明らかになるに連れて、隣の男が不機嫌さを増す。
面白いくらい思惑通りに事が運ぶのを見つめる杜樹は、内心でそっとほくそ笑みながら拗ねた風に反論した。
「ショボい言うな。買い物の事考えたら、諭吉がどう考えても足りなくなるんだって」
「あはははは。やっぱ杜樹って金運薄いよね。ちょっと、遊びすぎなんじゃね?」
遊びすぎ、という言葉にひっそりと含まれた棘を感じる。それを嫉妬として受け取るのは、思い込みが激しすぎるだろうか?
「比佐子、お前俺の事、めっちゃ誤解してんぞ」
「誤解ってどんな?」
「俺、最近あんまり遊んでないんだけど。金貯めたいから、結構真剣にバイト三昧だったりするんだよな」
「杜樹が貯金? どうして?」
「んー、やっぱ国内でも海外でもいいから旅行とかしたいなーって思ってるんだ。おかげで使える分が少なくて、マジ、給料日直後ぐらいしか金使えねぇ」
お前と一緒に、という不用意な言葉が口に出かかるも、ぎりぎりのところで押し留めた。勝率はかなり高いと踏んでいるが、万が一って事があるのだ。もし比佐子と二人で旅行に、なんて考えを口にして引かれたりしたら、絶対に立ち直れない。断言できる。いっそ賭けてもいい。
そんな杜樹の、実に情けない心情にはまったく気づかない様子で、比佐子はふうんとだけ呟いた。
「でもさ、そう言う杜樹こそ今日は大丈夫なの?」
「おうよ。バイトもないし、提出物さえ持っていったらなんもなし。――だからさ、ホント言うと、はじめからお前誘おうって思ってたのよ」
たった今思いついた言葉。だけどこんな一言がどれだけの効果を発揮するのかを、杜樹はよく知っていた。
マジ? と驚きの声を上げてほんの少しだけ戸惑いに瞳を揺らした比佐子は、しかし次の瞬間、ほんの少し残されている良心がずきりと痛むくらいに眩しい笑顔を浮かべた。
「そうだったんだ? 冗談とかじゃなく?」
「こんな冗談言ってどうするよ。本気だしマジだしガチだし。だからさ、一緒行こうって」
「でも杜樹って、ああいうの、あんま興味ないっしょ?」
「けど、お前はあるんだろ? 何が面白いとかそういうの、教えてくれたら俺も興味持つかもしれないし。こう見えても俺、歴史は成績いいんだぜ?」
「だよね。そう見えて杜樹、暗記物強いよね」
「ちょ、そこ否定するところだろ! 肯定するなって!」
「えー、だけどあたし、嘘吐けないヒトだしー」
「んだと!? ンな事、言う奴は――」
ヘッドロックかけてゲンコで頭をぐりぐりとかいぐりまわしてやろうと腕を伸ばす。しかしそんな貴重なじゃれあいは、すっかり忘れ去られていた邪魔者によって無理やりに断ち切られた。
「あのさ! 今日は梨尾、俺と約束してたんだろ!? 古着屋なんていつでもいけるんだから、次の機会にしろよ!」
「あ――そ、うだね。ごめ……」
「なら、あんたも一緒に来ればいいじゃん。えーと、エジプト・メソポソミソ展だっけ?」
はっと現実に返って謝りかけた比佐子の肩に制止のための手をかけて、再び強引に会話に割って入る。その際、わざとセンモンヨウゴを間違える事は忘れない。炎天下に突っ立ってるし、目当てのオンナが他の男に取られかけているという焦燥と苛立ちで正常な思考ができなくなっていたその男子学生は、思わず笑いたくなるくらい杜樹の狙い通りに反応した。
「エジプト・メソポタミアだって。何、お前こんな言葉もマトモに言えないわけ?」
「めそぽたみあ? うわ、舌噛みそう。こんな早口言葉みたいなの、よくすらすら言えるよなー」
「学生なら当たり前だろ。お前さ、本当にこの如月の学生? 運良く上にあがれたエスカレーター組か?」
「エスカレ組なら旅行代金ごときのためにバイトするかって。俺はちゃんと大学受験して合格した外部生だよ」
「それにしては頭悪そうなんだけど。お前さ、あれだろ。外部生でもアソビまくってるって連中のひと――」
「――あのさ」
り、とまで言い切るのを待たず、表情と同じくらい硬い声を比佐子が上げる。
「あたし、他人の事、よく知らないまま悪く言う人嫌いなんだよね。チャカした杜樹が悪いのはわかってるけど、藤川君も言い過ぎ。このまま一緒に行動しても、きっと今日は気分悪いままだから、また今度何かに誘って?」
「だけど梨尾さん、俺は……」
顔にでっかくしまったと書いて、フジカワとか呼ばれた男は何とか比佐子のご機嫌を取り直そうとする。けれど一度不快を覚えた相手を許してやるような、優しい真似を比佐子はしない。
「取ってくれたチケット代は払うし、あとで杜樹にもきちんと言い聞かせておくから。……ええと、いくらだっけ」
「比佐子、俺が払う」
トートバッグに手をかける比佐子を押し留め、杜樹はジーンズのポケットに突っ込んであった財布を取り出した。
「でも、杜樹……」
「俺が原因なんだろ? だからペナルティって事で俺が出すのが当然じゃん。で? いくらなわけ?」
「……………………………………………………二千六百円」
沈黙の長さは葛藤の長さを表しているのだと、最終的に金額を告げた声からわかった。
「そ。俺、今小銭ないから三千円で頼む。あ、釣りは手間賃と迷惑料って事で受け取っといて?」
にっこりと、いつもならオンナノコにしか向けない笑顔を作って財布から抜き取った紙幣を差し出す。ぶっきらぼうにそれらをもぎ取ったフジカワは、もう一度比佐子へと縋るような視線を投げた。
「あ、のさ。また今度誘ったら、その時は……」
「うん。その時はその時考えるよ」
そっけなくさえ聞こえるその言葉に、フジカワがあからさまに傷付いた顔になる。きっと彼は今の言葉を、次のチャンスなんてない、と理解したのだろう。
けれど比佐子との付き合いがそれなりにある杜樹にはちゃんとわかっている。彼女は本当に、次に誘ってくれたなら、誘ってくれたその時にどうするかを考える、と言っているのだ。なにしろ今の時点ではいつ誘われるのかも、何に誘われるのかもわからないし、誘われたその時点でいつどんな予定が入っているかもわからない。だから今は何も明言できないと、そう言っているだけなのだ。
しかしそんな解説をしてやるような優しさを、当然杜樹は持ち合わせていない。代わりに彼は、邪魔者一人排除終了と、口の中で笑いを殺す。
「じゃ、チケットはこっちが引き取るよ」
「はぁ? なんで?」
「だって俺、料金払ったじゃん。それにさ、もともとチャコのために買ったんだろ? ならせめて、きちんとチャコのために使ってやらなきゃ。チケットに罪はないし?」
無邪気を装って手を差し出す。ここでゴネたら比佐子の心象が更に落ちる事がわからない筈もなく、男は心底から嫌そうな顔をして杜樹の手に二枚の紙片を乗せた。
「ドウモアリガトウゴザイマシタ」
もう一度、薄っぺらい笑みを顔に貼り付けて、杜樹はくるりと比佐子に向き直る。手の中のチケットをショルダーバッグに片手でしまい込みながら、空いた手を彼女の細い肩へと実に自然に回す。ぴくりと不自然に腕の中の身体が緊張するが、それには気づかない振りをして杜樹は歩きはじめた。
「早速行こうかって言いたいところだけど、ちょっとだけ付き合ってくれね? 実はこないだ提出したレポートでさ、一枚だけなんかどっかに紛れてなくなってたみたいで、足りないから持ってこいって呼び出しくらったんだけどどう思うよ?」
「……とりあえず、馬鹿?」
「ちょ、一刀両断とか酷くね? なんかさ、こう、優しい慰めの言葉とかかけてくれよ」
「はいはい、かわいそうかわいそう。大変だったねー、杜樹」
「うわぁ、なにこの棒読み加減。全っ然嬉しくねぇ……」
あっさりと話題を切り替えて歩き去っていく二人をフジカワがいつまで見ていたのかを、杜樹は知らない。敗れ去った敵の存在など、手に入れた比佐子との時間の前には、風の前の塵以下の存在でしかないのだから。