かぶ

あわてんぼうのクリスマスイブ

 ――ああもうなんだってこんな日に限って残業間際に仕事の依頼が舞い込んできたりするんだろう。ってか、原因が先に帰るとかマジありえないし!
 胸の中で叫びつつ、比佐子(ひさこ)は苛々と手首に巻いている腕時計へと視線を流す。さっき見てからまだ二分と経っていない十九時三十七分。待ち合わせの駅に着くまで問題がなければあと七分。頼むから今日だけは誰もホームから落っこちないでよね! なんて理不尽な念波をそこいら中に送りつける。
 きちんとお付き合いを始めてから二回目のクリスマスイブ。去年はクリスマス当日が金曜日ではあったものの、予約だ何だが間に合う状況でもなかったので、例年通り正式な恋人となった杜樹(とき)の部屋で、あまり力の入りきらない出来合いものメインのクリスマスディナーとクリスマスケーキを楽しんで、週末いっぱいいちゃいちゃとまとわりついてくる杜樹にめろめろに甘やかされた。
 今年はイブからして金曜日だしと、まさに一年前から何かと画策していたらしい杜樹が腕によりをかけてスペシャルなクリスマスをプレゼントしてくれるという。去年に比べれば少しは素直になるという事を覚えた比佐子は、やっぱりどこかで本当にこれでいいのだろうかと怯えながらも、楽しみにしてるね、と返したのだ。
 で、その待ち合わせが午後七時三十分。
 そう、もう既に七分……もとい十分四十三秒遅れてる。
 それもこれも、営業二課の、クリスマスを目前にして彼女に振られたとかいう馬鹿のせいだ。こうなってくると、恋人と約束がある自分をやっかんでの仕業じゃないか、なんて邪推したくなってしまう。
 駅に着くまであと三分! 着いてから待ち合わせ場所まで全速力で走れば二分、だけど今日はちょっとおしゃれな格好をしてるし、そもそもヒールなので全速力の競歩にしかならないから五分はかかってしまうかも。この人出だし。
 ――なんてーかさ、待ち合わせで遅れてくるやつって、俺、マジ無理でさ。
 そんな風に当時のカノジョを振った理由を彼が比佐子に説明したのは一度や二度じゃない。実際、友達同士での約束であっても、きちんとした理由がない限り、遅刻したメンバーはその日一日解散するまで杜樹の不機嫌の当たり先になるのが常だ。酷い時にはさっさと帰ってしまう事だってある。
 比佐子は基本十分前行動だし、遅れるのはのっぴきならない事情ででしかなかった。今思えば、かなり贔屓されていたんだなあとは思うものの、それでも杜樹が何かを計画している時に遅れると、どうしようもなく機嫌が悪くなる事があった。
 今日は、今日だけは、そんな事になってほしくない。そうは思うものの、杜樹の機嫌バロメーターがいつどう振れるのか、数年来の付き合いがある比佐子ですら、実は量りきれないところがある。
 残業が決定した時と会社を出る直前に事情を説明した遅れますメールは送ったし、了解したと返信も受けている。だけど……だけど、本当に大丈夫、なんだろうか。
 電子音声が到着を告げ、ぷしゅーというどこか間抜けな音と共に扉が開く。後ろから押し出されるより先に、ほとんど扉の隙間をすり抜けるようにして飛び出した比佐子は、階段へと小走りに向かいながらバッグの中のSUICAを引っ張りだした。


 時と場合によって、自慢にもコンプレックスにもなる長身は、こんな時には意外と役に立たない。むしろ小回りがきかないせいで、歩みが遅くなってるような気さえする。
 けれども人の頭の隙間から前を見通すのには向いているから、ヒール分プラスされた身長を最大限に利用して、待っているはずの杜樹を探す。
 ――いた!
 メールでも読んでいるのだろうか。手の中にあるケータイを覗き込んでいる横顔は楽しげに笑み崩れてて、機嫌は悪くないらしいと心の中でこっそり安堵の息を吐く。そんなに遠くないし、一秒でも早く会いたい、こっちに気付いてほしい、そんな感情の赴くままに、手を上げて杜樹へと呼びかける。
 ……けれどその声が唇から飛び出すより先に、彼のケータイを覗き込む、やたらピンクいふわふわしたファッションのオンナノコの姿を見つけて、その場に固まってしまった。
 どん、と、後ろから突き飛ばされかけて二、三歩たたらを踏む。けれどそれ以上、足は動かなかった。
「う……そ……」
 ざあっと血の気が一気に引いていく。あれは、何? 一体何をしているの? 隣にいるのはダレ? 杜樹のナニ……? 遅れたのが、いけなかったのだろうか。だから杜樹は、他の誰かを見つけた? そうなの?
 思考が一気に負の方向へと傾いていく。心臓が冷たくなって、視界がぼやけた。
 駄目だ。あたし、やっぱ無理。
 そんな冷静な声が頭の中で聞こえた瞬間、ぱっと杜樹が頭を上げて、こちらを向くのが見えた。
「チャコ! 何やってんだよンなとこで!」
 満面に笑みを浮かべて声を張り上げる杜樹に、薄暗くなっていた視界がほんの少し晴れる。けれどこちらに来ようとする杜樹の傍らでばつの悪そうな顔をしているオンナノコが目に入ったとたん、比佐子は無意識に、まるで杜樹から逃げ出したいとでもいうように、数歩後退っていた。
「チャコ?」
 自分でも顔が強張っているのがわかるのだ。比佐子の機嫌だとか心の機微にやたら敏感な杜樹が気付かないはずがない。そう思ってばっと顔を伏せたとたん、ふわりと暖かな腕に抱きこまれた。
「そんな顔するなって。俺別に、チャコが遅れた事怒ってないぜ?」
「……そ、なの」
「おう。まあ、一緒にいる時間が十数分短くなったのは残念だけどさ」
 臆面もなくそんな言葉を継げる杜樹に、比佐子は顔を上げる事もできないまま、重ねて問いかけた。
「あの子、だれ? 何、話してたの?」
「へ? あの子?」
 誰の事だ? と素で返してくる杜樹に、不安から苛立ちへと感情が一気に変化する。
「一緒にケータイ見てた子! 仲良く笑ってたじゃない! そりゃ仕事で遅くなったあたしも悪いけど、どうして急いで待ち合わせ場所に駆けつけて真っ先に杜樹が他の子といちゃいちゃしてるところ見なきゃならないわけ!? どうせ怒ってないのだって、あの子と楽しんでたからでしょ? ――もう、いいよ。やっぱ無理。あたし、やっぱり杜樹とは――」
「っ言うな!」
 鋭い声が耳に届くのと、下げていた顔が無理やり上げられて、止め処なく言葉を吐き出していた唇が塞がれたのはほとんど同時だった。
「っ!」
 驚きのあまり、思考が完全に停止した。
 まるで縋り付くように抱きしめてくる杜樹の腕が痛い。けれどすぐに、その身体が寒さからでなく震えている事に気付いて、比佐子の熱くなっていた感情が、急速にもっと暖かで柔らかなものへと再び形を変える。
「……杜樹?」
「頼むから、比佐子。それだけは、言うな。俺、馬鹿だからさ、お前が傷つきやすいって事、わかってるのにやっちまう。でもお前だけなんだ。俺が好きなのは。なあ、比佐子。頼む。俺の事、捨てないで?」
 杜樹はずるい。本人は計算しているのかどうかわからないけれど、こんな言葉一つで許したくさせるだなんて、本当にずるい。
 ごめん、許してと、比佐子の肩に顔を埋めた杜樹が何度も何度も繰り返す。そんな彼の背中にようやく動くようになった腕を回して、ぽんぽんとあやすように叩いた。
「捨てるわけ、ないじゃない。今更捨てるくらいなら、もっと前にそうしてる」
「……酷ぇ」
 く、と、低く笑う声がした。その声が、僅かに濡れていたのには、気付かなかったふりを貫く事にした。

「……あ、あの! 違うんです! 彼氏さんは悪くないんです!」
 唐突に投げられたそんな言葉に、比佐子ははたとここが人の行きかう大通りである事を思い出し、いまだにぎゅうぎゅうと自分を抱きしめる杜樹を力いっぱい突き放した。
 ぐわっ、とかおかしな声を上げる恋人の事はあえて頭の中から追い出して、さっきまで杜樹と仲良く話していた、けれども今はなぜか半泣きになっているオンナノコへと振り返った。
「違う……?」
「はい! あの、彼氏さんはわたしをナンパしてたとか、わたしが彼氏さんをナンパしてたとかじゃありません! 実は私も彼氏と待ち合わせをしてるんですが、その彼氏がいつまで経っても来なくて、ようやく『時間計算間違えてた!』ってなメールが届いたのが、彼氏さんにあなたのメールが届いたのと偶然にも同時で、思わず文句言ったら笑われて!」
 どうやら杜樹の誤解を解こうとしてくれているのだろうその子は、寒さからだけでなく顔を真っ赤にしてまくし立てる。
「それで、待ちぼうけどうし、相方の愚痴りあいがはじまったんですけど、気がついたら思いっきりのろけられてて。あの、さっきは彼女さん――えと、あなたがどんなにかっこいいのか見せてやるとか言って、昔の文化祭の写真見せてもらってたんですけど本当にかっこよくて、わたしの彼氏よりかっこよくて羨ましいとかむしろ彼女さんを彼氏にしたいとか言ってて」
「……はぁ」
「でもでも本当にごめんなさい! やっぱり信じられませんか? 今、こっちに向かって全力疾走してるはずの馬鹿に連絡して、わたしの彼氏ですって言ってもらった方がいいですかっていうかあいつ走ってなきゃ来た時殴るし。そもそもイブの待ち合わせで時間計算間違えるとかありえないですよね!?」
「えーと……あの、うん、わかった」
「やっぱりそうですよね! だけど本当に彼氏さん、アナタの事好きなんだと思います! そうでなくて、初めて顔をあわせた相手に、あんなに熱心にのろけるとかできませんもん!」
「や、あの、わかったから! 杜樹が悪さしてたんじゃないってちゃんとわかったから!」
 激しく主張してくれる相手の肩を両手で掴まえて、真正面から大きな声で言い聞かせる。というか、杜樹は比佐子が到着するまでの間、この子に一体何を話していたのだろう。知りたいような知りたくないような……いや、きっと知らずにいた方が心の平穏が保たれるだろう。
「本当に……ですか? ちゃんと、わかっていただけましたか?」
 じっと、マスカラとアイライナーで大きく縁取られた黒い瞳が見つめてくる。それをまっすぐ見返して、比佐子ははっきりと頷いた。
「うん、わかった。あたしの早とちりだったんだね。迷惑かけて、こっちこそごめん」
 真摯に告げて、そっと微笑む。そのとたん、目の前の彼女はぽかんと比佐子を見上げ、それからぼぼぼと顔を真っ赤に染めた。
「――チャコ、おいコラお前、俺の目の前で女の子コマしてんじゃねぇよ」
 にょきりと顔の両横から伸びてきた腕が比佐子を羽交い絞めにする。わ、と声を上げて掴まえていた肩を放し、自分のものだとでも主張するかのように抱きしめる杜樹へと振り返る。
「コマしてなんかないってば」
「お前にその気がなくても、その子は実に見事にコマされてるっての。そりゃ最近めっきり女らしくなっちゃいるけどさ、いまだにイケメンキャラは通用するんだって事、きっちり認識しててくれ」
 頼むよ、と、さっきまでとは違った声で告げる杜樹に、比佐子は小さく笑ってうん、と頷く。
 そんな二人を見て、ふわふわピンクの女の子は、実に嬉しそうに笑った。

* * *

「……にしてもさ、別に、そうならそうでちゃんと説明してくれたらそれでよかったんじゃないの?」
 そろそろ来るだろう彼氏を待つという、騒動のきっかけとなってしまった彼女と別れてからしばらくして呟くように問いかけた比佐子に、杜樹はうーん、と一つ唸る。
「まあ、そりゃそうなんだけどさ、あの時はそんな余裕なかったわけよ。別に疚しいところはなかったけど、ああいうのって見た目が結構重要だったりするだろう? お前の顔見た瞬間にさ、お前の目に俺とあの子がどう映ってんのか理解して、ヤバイ! ってのが先走ってもうすがりつくしかなかったっていうか」
 情けないよな、と自嘲を頬に上らせて笑う杜樹に、比佐子は馬鹿、と返す。
「本当に馬鹿だよ杜樹は。でも、あたしも馬鹿だね。あれきしの事であんなに揺れるなんて、正直自分でも思ってなかった。もっと強くならなきゃならないね。ちゃんと、自分は杜樹に愛されてるって、信じなきゃだよね」
 そっと微笑んで振り返る。その先にはちょっと驚いた顔の杜樹がいて、何か変な事を言っただろうかと首を傾げた。
「杜樹?」
「いや……まさか、そう言ってもらえるとは思ってなくて。うん、あれだ。俺ももっと自信持たなきゃだな。俺もチャコにちゃんと愛してもらってるんだって」
 そう口にして初めて実感したかのように、嬉しそうに幸せそうに杜樹が笑う。その笑顔になぜか泣きそうになりながら、比佐子はそうだよ、と返した。
 繋いだ手と繋がった心がとてもあたたかくて、しあわせだな、と素直に感じられた。