かぶ

真実の目覚める時 - 04

『……イエス?』
 どこか抑えたような幼い声に、ランドルフは僅かな戸惑いを覚えた。
「ジュニア、どうかしたのか?」
『父さん! うそ、本当に父さんなの!?』
「なんだそれは。父さんが電話してはいけないか?」
 あまりにも驚かれてしまい、つい声が憮然としたものになる。けれど考えてみれば、こんな早い時間に家に電話するのは、そういえば珍しい事だ。
『そうじゃなくて! うっわー、びっくりした。ねえ、こんな時間に一体どうしたの? 今どこにいるの?』
「今か? 今は会社に戻る車の中だが……」
『会社に? それ、本当? 実は別の場所に向かってるとか、ない?』
 不審げな息子の声に、苛立ちが静かに湧き上がる。それを押さえ、ランドルフはきっぱりと答えた。
「当たり前だろ。こんな事で嘘を吐いてどうする」
『ちぇっ、なーんだ。実は僕らを驚かせるために本当は家に向かってる、なんてオチを期待してたんだけど』
 飄々と返してくるその声には安堵と僅かな失望が混じっていて、息子が再会を期待してくれていたのだとようやく理解する。一気に機嫌を直したランドルフは、笑みさえ浮かべながらいいニュースを伝える事にした。
「それはすまないな。これから会社でミーティングを開くから今すぐは帰れないが、それでも夕食には間に合うように帰るつもりなんだ。……そういえば、マデリーンはどうかしたのか? いつもは彼女が出るだろう?」
『――母さんなら、ちゃんといるよ。今回は、僕が偶然電話の近くにいたから僕が取った。ただそれだけだよ』
 ふと、息子の声に緊張の色が宿る。マデリーンに何か悪い事でもあったのだろうか。
「本当に?」
『本当だよ。あ、ちょっと待ってて。すぐ母さんに代わるから』
「ジュニア、ちょっと――」
 止めかけたところで受話器が硬い物の上に置かれる音がし、それに少年の駆けていく足音が重なった。
「……まったく、あいつはあんなにせっかちな奴だったか……?」
 苦笑混じりに呟き、ランドルフは車窓から外に視線を向けたまま受話器が取り上げられるのを待つ。舗道にぽつぽつと植えられている街路樹はどれもこれも素裸で、木枯らしに細い枝先を震わせている。時々見える常緑樹は、いまだに放置されたままのクリスマスデコレーションだ。
『……から大丈夫だって。ちゃんと父さん……今日は早く……言ってたし……のは嘘……』
『アマデオ、あなたまた……たのね……』
『あはは……』
『……い事じゃ……しょう。まったく……なんだから』
『ごめんなさ……って、僕はいいから! 父さんが待ってるし、早く取ってよ!』
 どうやら受話器を前にして何か言い争っているらしい。アマデオが保留せずに飛び出していったおかげで向こうの声が、途切れ途切れとはいえ筒抜けなのだが、なにやらあまり楽しげな内容ではない。
 やはり何かあったのだろうか。もう一度そう考えたところで、ようやくマデリーンが電話口に出た。
『――ランドルフ、あなたなの?』
「ああ、俺だ。もしかして何かの邪魔をしたのか?」
『いいえ、そんな事は。それより、アマデオが言っていたのだけれど、今日は早くお帰りになるとか……?』
 怪訝そうな、ためらうような、どこか不安げな、そんな声が耳に届く。先程の息子の様子といい、このマデリーンの様子といい、やはり何かがあったらしい。問題は、二人がそれを意図してランドルフに隠そうとしている事だ。
「そうだ。とはいえ、すぐには帰れない。これから社に寄って打ち合わせをしなければならないんだ。けれどそんなに時間はかからないと思うし、夕食には間に合うだろうから、俺の分も用意しておいて貰えるか?」
『そういう事でしたら、準備しておきますわ。何か食べたいものなどあります?』
 安堵したように息を吐きながらも、言葉や声はいつものよそよそしさを纏っている。電話をかける前に夢想していた内容が不意に脳裏に蘇り、ランドルフは意地の悪い笑みを浮かべ、短く返した。
「そうだな。――久しぶりに、君がほしいな」
『なっ……ランドルフ!?』
 電話の向こうで顔を真っ赤に染めて慌てふためいているだろう妻を想像し、ランドルフは低く声を上げて笑う。
「何をそんなに驚いている? ここしばらくご無沙汰だっただろう? 俺が君を求めて何が悪い」
『わ、悪いなんて言ってません。ただ、あなたらしくない言動だと思って……。――それより、冗談抜きで何かないのですか? ないのでしたら、当初の予定どおりにソテーしたチキンのトマトソース煮込みとパスタにしますけれど、それで構わないかしら?』
「おや、驚いた。どうやら俺は本当に幸運の女神に愛されているらしい。好物が供される日に帰宅できるとは」
『それ、は……その、アマデオもチキンのトマトソース煮込みが好きですから、食卓にはよく上がるんです』
 浮かれていた気分が一気に下降する。自分のためではなくやはり息子のためなのかと、そんな不満が口を突いて出そうになるのを、ランドルフはぎりぎりのところでで押さえ込んだ。
「それは初めて知ったな。それなら、もっと家で食事をするようにしようか。そうすれば好物にありつける回数も増える事になるし」
 口にして、ランドルフは自分が家で食事をするのは、確かにとても珍しい事なのだと改めて気づく。最後に家族揃って食事を摂ったのはいつだっただろう? 出張の準備で忙しくなる前からあまり家には帰っていなかった。記憶のスケジュールを捲ってようやく辿り着いたのは、ニューイヤーのため、ニュージャージーにあるランドルフの両親宅で、モーガンヒル一家が集まった時の事だ。
 なんという事だろう。これでは妻や息子が驚くのもおかしくない。
『……なた、あなた? まだそこにいらっしゃるの?』
「あ、ああ、大丈夫だ。すまない。やはり少し疲れているようだ」
『そうね、お仕事で旅行されていたのですから。今日は家でゆっくりされるべきだわ』
「本当に、早く帰ってゆっくりしたいよ。……いっそミーティングを週明けに延ばして今から直帰しようかな」
『そんな事、あなたはなさらないわ』
 冗談にかなりの本気を交えて告げた言葉は、驚くほどあっさりと否定された。
「しない?」
『ええ。だってあなたは、とても責任感の強い人ですもの。それに、お仕事をとても楽しんでらっしゃいますし』
「だけど、家に早く帰りたいという思いは本物だ」
『それでも、やっぱりお仕事を後回しにされるなんて想像できません』
 頑固に言い募ると、まるで聞き分けのない子供を相手にするように、マデリーンは小さく笑いながら返してくる。
 自分はそんなに仕事ばかりしているように思われているのだろうか。確かに仕事が忙しいせいで家族と過ごす時間が取れずにいるが、家庭をないがしろにしているつもりはない。空いた時間を使って、息子と色々な事をするよう努力をしているというのに。
 そう反論をしようとしたところで、車がエンジンを止めるのを感じ、ランドルフは窓の外へと再び視線を向けた。
 見慣れたビルが窓越しに見え、いつの間にか社に戻ってきていたのだと知る。
「君と口論しているうちに到着してしまったよ。仕方がない。仕事をしてから帰る事にするよ」
『ええ、そうなさってください。お帰りは何時ごろになりますか?』
「さあな。仕事が楽しすぎて遅くなるかもしれないし」
 言った瞬間、しまった、と思った。電話の向こうは完全に沈黙してしまっている。
 まったく、俺は一体どうしてしまったんだ? 彼女相手にこんな子供じみたな態度を取るだなんて!
「……とにかく、なるべく遅くならないようにする。帰る前にまた電話するから」
『はい、わかりました。お待ちしています』
 さっきまでのちょっとした言い争いが、彼ら二人にしては珍しく打ち解けたものだったのだと、冷たく感情の篭らない妻の声を聞いて思い知る。
 どうやら幸運の女神の加護は、すでに消え失せてしまっていたらしい。一体どこで間違えたんだろう。ああ、やはりあの失言だろうか。それとも女神の加護は、はじめからビジネス方面にしか向いていなかったのか?
「じゃあ、また後で」
 苦い息を吐きそうになる自分を抑え、ランドルフは通話を打ち切った。まるでそれを待っていたかのように、ケネスが後部座席のドアを開ける。
「社長、どうかなされましたか?」
「何がだ?」
「いえ、その、ご機嫌がよろしくないようなので」
「……別に、なんでもない。少し疲れただけだ」
 指摘されるまでもなく、自分が不機嫌な事はわかっていた。だが、いくら相手がケネスとはいえ、八つ当たりをするわけにはいかない。わざとらしいと知りながら、眉間とこめかみを揉み、軽く肩を回す。
「でしたらミーティングは短めに切り上げた方がよろしいですね。夕食はどうされるのですか?」
「今日は家で摂る。今その連絡をしたところだ」
 自分の短い返答に有能な秘書が一瞬の戸惑いを見せた事に気づき、車を降りながらランドルフは諦めにも似た息を吐いた。
「何だ。お前も俺が家で食事を摂るのがそんなに珍しいと思ってるのか?」
「そう……ですね。僕の知る限りでも、今年に入ってからは初めてのはずです」
「わざわざ教えてくれて感謝するよ」
 少し考えるようにしてから肩を竦めたケネスへと噛み付くように返し、ランドルフは自社のビルディングへと大股に歩きはじめる。重い回転ドアを通り抜ける頃には、家に電話をかけた当初、息子と妻から感じた違和感の事は完全に記憶の中から消え去っていた。