かぶ

真実の目覚める時 - 11

 どこか古めかしく重厚な内装でありながら、実際には最新鋭のセキュリティシステムが搭載されているエレベーターを降りたケネスは、やはり重々しい印象を与える樫の扉の前に立った。
 さすがに鏡を持ち歩く癖はないから、磨き上げられた扉にぼんやりと映る自分の影へと目を凝らし、服や髪に乱れがない事を確認する。ペイルブルーのシャツの襟を整え、臙脂のネクタイをきっちりと締め直す。エレベーターの中で脱いだコートを丁寧に腕にかけて、緊張から騒々しい音を立てている心臓を抑えるため、ゆっくりと深呼吸をした。
 すっと伸ばした指先で呼び鈴のボタンに触れる。完全防音の施されたドアの向こうからは何の音もしないが、その向こうが無人かもしれないとは、欠片ほども思わなかった。
 しばらくの間を置いて、それらしい予兆もないまま取っ手が音もなく下がり、やはり僅かな軋みも上げずに分厚い樫の扉が開かれる。開かれた玄関の一歩内側でマデリーンが、純粋な喜びを浮かべてケネスを出迎えた。
「久しぶりね、ケネス。来てくれて嬉しいわ」
「マデリーン……こちらこそ、お招きくださってありがとうございます」
 丁寧に言葉を綴りながら、大きく腕を広げて待つ女性をそっと抱きしめる。
「ああもう、そんな風に言わないで。あなたは私達家族にとって大切な人なの。だからいつもの様にフランクに接してちょうだい」
 穏やかにハグを返しながらくすくすと笑う彼女の声が耳にくすぐったく響く。親密な挨拶を交わして身体を離したケネスは、目の前にいる女性へと改めて視線を落とした。
 今日のマデリーンは、ブルーグレーのニット地ワンピースに濃灰色のボレロを合わせ、首元を二重になった真珠のネックレスで清楚に飾っている。公式の場では夜会巻きでまとめられる髪は、今夜は穏やかに波打ちながら肩から背中へと流されている。
 それが紛れもない事実であるというのに、マデリーンが自分より四年も歳を経ているという事を、ケネスは何度彼女に会っても信じられない。
 しかしそれは、ケネスと同年代、もしくは彼より年下の女性に比べて幼いというわけではない。それどころか逆に、重い責任を背負う夫を持つ妻に求められる強さや、聡明な息子を持つ母としての落ち着きといったものを、マデリーンは十分すぎるほど持ち合わせている。そしてそういった要素が女性に与える影響を、ケネスはこれまで十分すぎるほど目の当たりにしてきた。
 なにのマデリーンにはそれがない。
 それどころか、いつ見ても彼女は彼女の持つ豊かな愛情を夫と息子へ、そして彼女を含む三人が敬愛する人々へと惜しみなく与え、どんな困難が降りかかろうともまっすぐ前だけを見つめて乗り越える。その透き通るような純粋さは彼女の内側から輝きとしてこぼれだしており、マデリーンの元からの魅力に更なる磨きをかけているのだ。
 まるで姉が弟に見せるような柔らかな笑みを浮かべて返事を待つマデリーンに、ケネスは苦笑を押し隠して素直に従う。
「わかりました……じゃない、わかったよ、マデリーン」
「それでよし。じゃあ、早速夕食にしましょう。私もアマデオも、夕食とあなたを待ちかねていたのよ」
「なるべく早く着けるように、近道を辿ってもらったんだけど……」
「もちろんわかってるわ。そうでなくて、どうしてこの時間に着けるというの? 私達はただ、あなたと一緒に摂る食事をとても楽しみにしていただけなの。だから何も謝る必要なんてないのよ」
 明るい笑い声を上げながらマデリーンは玄関の鍵を厳重に閉めた。ケネスの腕から取り上げたコートをクローゼットにしまってから、先に立って部屋の奥へと向かう。その後を追いかけながら、ケネスはふと、彼女の背中が以前見た時より一回りほど細くなったような錯覚を覚えた。
 その原因に、心当たりがないわけではない。
 実際問題として、彼はほんの一時間近く前に彼女の輝きを曇らせるであろう要因を目の当たりにしたばかりなのだ。
「マデリーン、近頃の様子はどうだい?」
「そう、ね……特に変化はないわ」
 ちらりと視線を投げてよこしたその横顔に落ちて見えた翳は目の錯覚だろうか?
 ケネスがそれを確かめるより先に、マデリーンはぽんと手を打つと、いつもと変わらぬ笑みを浮かべてくるりと身体ごと青年に振り返った。
「そうそう、電話でも伝えたけれど、とても可愛らしいプリ・マドンナのクリスタル細工をありがとう。予想していなかったから本当に嬉しかったの」
「喜んでもらえてよかったよ。正直なところ、あれを言付けた時、ランドルフがあまりにしかめっ面をしてくれたものだから、てっきり人知れず遺棄されるものだと思ってたんだ」
「やぁね、ケネスったら。あの人がそんな事するはずないじゃない」
「さて、どうでしょう? ランドルフはあれでいて意外と嫉妬深いから」
「……それこそ、ないと思うわ。だって、あの人はそんな人じゃないもの」
 ケネスのからかいの言葉に対するマデリーンの返事は、どこか冷たい響きを伴う否定だった。思わず足を止め、ケネスはじっと目の前の女性を見つめる。
「マデリーン……」
「それにあの人はちゃんと知っているでしょう。私とあなたは心で繋がった姉弟のようなものなんだって。弟が姉にお土産を買って何が悪いの?」
 茶目っ気たっぷりに笑う彼女の周りに、先程の冷たい空気はもはや欠片ほども残っていなかった。
 いつだってそうだ。彼女の強さは、愛する夫や息子、そして彼らを取り巻く大切な人たちを守ろうとする時に最も発揮される。それがたとえ、彼女自身の心をどれほど強く傷つけ、苦しめるとしても。
 それを知るからこそ、ケネスは心を締め付ける罪悪感を無理やり呑み下した。ここで苦しい表情を見せたりしては、マデリーンがまた心をすり減らしてしまいかねない。
「ならきっと、あの時の表情は、予想外のプレゼントが自分からの土産を霞ませると気づいての苦虫だったのかもしれない。だとしたら僕の懸念は単なる杞憂だったという事か」
「当たり前でしょう。あなたの上司でもあるあの人は、そういう卑怯な真似はけっしてしないわ」
 偽りの納得をしてみせるケネスに、マデリーンは揺るぎのない声で言葉を返す。そこには夫への信頼がはっきりと浮かんでいて、それがまたケネスに苦味を覚えさせる。
「母さん、立ち話はそれぐらいにしてさ、早くケネスを連れてきてよ。僕、お客様と晩ご飯をいつまでもいい子の振りして待つなんてできないよ」
 短い廊下の向こうからのこまっしゃくれた声に、大人二人は同時に振り返る。リビングへと繋がるドアの枠に腕を組んでもたれたアマデオが、子供らしく唇を尖らせてケネスとマデリーンにじっとりとした視線を向けていた。
「僕もケネスに会うの久しぶりだから楽しみにしてるって言うのに、母さんが独り占めするなんて、ずるい」
 息子の率直な言葉に、マデリーンが戸惑いと悔恨を浮かべる。彼女のそんな表情に、隣にいたケネスはもちろん、人の心の機微に鋭いアマデオが気づかないはずがない。
 ちょっと拗ねてみせただけのつもりが母親を傷つけてしまった事に息を呑んだ少年へと、ケネスはマデリーンが何かを口にするより先に言葉をかけた。
「お母さんを引き止めてしまってごめん。それにしてもランディ、去年のクリスマス前に会ったきりだから本当に久しぶりだね。元気だったかい? また背が伸びたんじゃないか?」
「あ……わ、わかった? ロビンは絶対認めようとしないんだけど、僕、また一インチ伸びたんだ。ちゃんと公平に背比べしたから絶対確かだよ!」
 マデリーンには気づかれないようにとそっと送られたウィンクの合図を正しく受け止め、アマデオは少年らしい元気な声で応える。そして屈託ない様子で母親と慕っている青年の間に身体を滑り込ませると、二人の手を右と左、それぞれの手で握ってリビングへと先導する。
「ほら、こんなところでぼうっとしてないで、早くディナーにしようよ。今日は学校の後にロビンとロックフェラーセンターでアイススケートしてきたせいで、さっきからお腹が鳴って止まらないんだ」
「アマデオったら。だから帰ってきてからずっと早く晩ご飯にしようってうるさかったのね」
 ようやく衝撃から立ち直ったマデリーンが、息子へと愛情をたっぷりと含んだまなざしを向ける。それを受けてほっと小さく息を吐いた少年は、またわずかばかり唇を尖らせて反論した。
「僕、うるさくなんてしてないよ。ただ、いつもよりほんの少し頻繁に催促しただけだ」
「それをうるさくしたって言うのよ。――ああ、ケネス。いつもの席に着いてちょうだい。すぐに料理を運ぶから」
「僕も手伝う!」
「そうね、じゃあ、アマデオはカトラリーをお願い」
「イエス、マ・ァム」
 ぴっと背中を伸ばして敬礼し、軽い足取りで少年がキッチンへと駆け込んでいく。くすくすと笑いながらその背中を見送り、マデリーンはケネスを振り返った。
「すぐに運んでくるから待っていてね」
「僕も手伝おうか?」
「弟同然だとは言っても、お客様はお客様です」
 きっぱりと告げて、マデリーンはケネスを彼の席へと促す。ここで逆らってもいい事がないのは経験から学んでいる。
「ならせめて、片付けは手伝わせてくれよ『姉さん』」
「どうしてもというのなら、お願いするわね、弟クン」
 魅力的なウィンクを残してキッチンへと向かうマデリーンに気づかれないように、ケネスは苦いものを含んだ息をそっと吐き出した。