かぶ

真実の目覚める時 - 26

「まさかとは思うが君は、エコ・ウォリアーの一員になりたかった、なんて言い出さないだろうね?」
 エコ・ウォリアーとは、時折ニュースなどで話題になる実に活動的な環境保護家の事だ。彼らはウォリアーなどと呼ばれているが、別に武器を取るわけではない。彼らの戦う相手は、自然を切り開いて道路や工場などを建設しようとする企業や自治団体であり、その戦い方はといえば、建設予定地に不法侵入して何日もキャンプを続けたり、切り倒される予定の木々にロープで身体を縛り付けたりといった、ともすれば理性の存在を疑いたくなるような行動なのだ。
 現代のヒッピーとでも呼びたくなる彼らの中には、意外な事に、それなりに名の知れた著名人が混じっていたりもする。以前にも、とある企業のCEOの一人の奥方が大学生の娘に感化されてエコ・ウォリアーの活動に参加しようとし、家庭争議となったと嘆いていた事があった。後に噂で聞いた話だが、彼女は夫の反対を押し切って出て行ったものの、最初の二日で完全に音を上げて逃げ帰ってきたという。
 今でこそ意志の強さを隠しているマデリーンだが、万が一にも彼女がそういった活動に参加する事を決めたりしたら、きっとそう簡単には逃げ出したりしないだろう。そんな妙な確信があるからこそ、ランドルフは不安を覚えたのだ。
「もう、あなたったらやめてちょうだい。私は所詮箱入りのお嬢さんなのよ。彼らのような生活なんて絶対にできないし、やりたいとも思わないわ」
 真剣な顔をして問いかけてきた夫に、マデリーンは笑いながらあっさりと否定の言葉を返した。とたん安堵を浮かべた彼にまた小さく笑みを漏らす。それから笑みは頬に残したままで視線をテーブルの上のグラスへと移すと、彼女は緩やかに過去を振り返った。
「私が地球環境学を選んだのは、言ってしまえば当時一番話題になっていたからよ。大学に入ったのはいいけれど、半ば以上意地だけで進学したようなものだったから、いざ専攻を決める時期が近づいてくるとどうしようもなく途方にくれてしまってね……。そんな時、何気なく参加したフォーラムが偶然にも地球環境に関するものでだったの。はじめは意味がよくわからなかったのだけれど、スピーチやディベートを聞いているうちにぐいぐい引き込まれてしまって、翌日朝一番でアドバイザーに面会の予約を取ると、地球環境学専攻の意を伝えたの」
 結構単純でしょう? 苦笑を浮かべて肩を竦め、彼女は更に言葉を続ける。
「環境について色々と学ぶのはとても興味深かったわ。まだ新しい分野だったから、講義も一方的なものより意見交換の方が多くて、教授たちも学生の意見を積極的に取り入れてくれていた。公害が酷い地域について、その実態や原因などをリサーチするのも楽しかったし、環境破壊の実際を見るための研修旅行に参加した時は、この道を一生進むのもいいとさえ思ったわ」
「だけどそれを、俺が妨げた?」
 そっと差し込まれた質問に少し考えて、マデリーンはゆっくりと首を振った。
「……いいえ、そんな事はないわ。確かにのめりこんではいたけれど、きちんとわかっていたもの。環境問題に関する研究や活動の一端を担う事はいくらでもできるけれど、それでは生活していけないって。特に当時は良識のある人たちが警鐘を鳴らしはじめたばかりで、人々の理解も薄かったし」
「食材を扱う関係で、モーガンヒルでは農薬問題に早い時期から対応していたが、地球規模の環境破壊問題に対しては、ごく最近になって、ようやく思い腰をあげはじめたところだ」
 企業人の顔になる夫へと、彼女もまじめに頷く。
「でしょう? ――だからね、私はそれで食べていけるとは思っていなかったの。だけど将来を決めるための指針とするべき専攻に環境学を選んでしまって、しかもそれを職にできないと悟ってしまった。おかげで専攻を決める時以上に悩んだの。ただ、自立しようって事だけは決めていたから、周囲のアドバイスもあって、興味のある企業については片端から調べてはいたわ」
「ああ、やっぱり家に戻るつもりはなかったんだ?」
「これっぽっちも! だって考えてみてもちょうだい。卒業後の計画を何も立てずに帰ったりしたら、卒業祝いと称してどこからともなく見繕ってきた花婿を押し付けられていたにきまってるわ!」
 笑い飛ばすようなマデリーンの言葉は、しかしランドルフには聞き捨てるわけにはいかなかった。解けた氷のせいでかなり薄くなったウィスキーを口に含み、彼は平坦な調子で訊ねる。
「だとすれば、やはり君にとってこの結婚は、望まないものだったんじゃないか?」
 不意打ちの質問に、マデリーンは心臓を鷲掴みにされたような気分になった。質問には正直に答えてほしいとランドルフは言っていたが、それを実行してしまっては彼女自身が苦しむ羽目になる。けれどだからと言って、嘘を口にする事もできなかった。
 戸惑いの中で必死に考えて導き出した結論は、一番楽な道に逃げ込む事だった。
「その質問には、黙秘権を行使させていただくわ」
「……そう来るか」
 どうやら彼は何らかのはっきりとした回答を期待していたらしい。残念そうな顔をしながらも、吐かれる息には安堵の色が混じっている。……もしかして、彼もマデリーン自身のように何かを恐れているのだろうか?
「まあいい、どうせこの質問は、はじめのものから少し飛躍しすぎていた。答えてもらえなくて当然か」
 言いながら、すっかり薄くなったウィスキーを、酔うためではなく口を潤すためだけのために飲む。隣ではマデリーンも、水割りにしても薄すぎるだろう酒を啜っていた。
 グラスの中身を一度乾し、新たな酒を注ぎなおす。それをストレートのまま、その芳醇さを楽しむために一口含んだ。まろやかに喉から胃へと滑り落ちるアルコールが腹の底をじんわりとあたためるのを感じながら、いつになく不安定な感情を安定させようと最大限の努力をする。
 少しはマシになったかもしれない。そう思えるようになってようやくランドルフは口を開いた。
「では、今度は君の番だ。君が俺に訊きたいというのはどんな事だい?」
 まるで世間話でもはじめるかのような自然な夫の態度に、マデリーンは少しばかり面食らってしまった。これではなんだか自分一人が感情の嵐の中に放り込まれているようではないか。
 わずかばかり損ねてしまった機嫌が彼女の中のためらいをなかったものにし、半ば以上勢いに任せて頭に浮かんだ言葉をそのまま放っていた。
「あなたはどうして、パーティやイベントに私以外の女性を伴うの?」
 自分が口にした言葉の意味を理解した瞬間、マデリーンは今すぐこの場から消え去りたいと強く願った。これまで必死でなんでもない素振りをしていたのに、本当はずっと気にしていたのだと白状したようなものではないか!
 内心の動揺を隠すため、先ほど作り直した薄い水割りを口にしながら必死で頭を働かせる。
「いえ、別に咎めているわけではないのよ? 元々、人の目が多い場所にはあまり出たくないと言い出したのは私だし、実際ああいった煌びやかな場にはどうにも慣れないし、得意じゃないもの。だからあなたが他の人をエスコートするのは当然だって、ちゃんと理解しているわ。それでもね、夫であるはずの人が他の女性と一緒にタブロイドやゴシップ誌で話題になっているのを見ると、どうしてもあまりいい気分ではいられなくなるのよ」
 これで少しは失敗を取り繕えただろうか? 彼に対して特別な感情は抱いているという真実を隠し通せるだろうか? 手の中のグラスをテーブルへと戻し、恐る恐る夫へと視線を向けると、彼は限りなく無表情にマデリーンを見つめていた。
「……君は、気にしていないものだと思っていた」
「ええ、だから他の女性を同伴する事については……」
「そっちじゃない。いや、それもだが、俺が今言っているのは写真の件だ」
 鋭く遮られ、マデリーンは思わず夫の顔を真正面から見つめてしまう。変わらない無表情の中で、翳を湛えた瞳だけが爛々と輝いている。
「そっちだって一緒よ。私はなるべく気にしないようにしてはいるのだけれど、あまり見せ付けられるのは嬉しくないと言っているの」
「見せ付ける?」
 苦笑を浮かべて、仕方ないわね、とでも言うように頭を振りる。それから申し訳ないという思いもそのままに、彼女は夫へと告げる。
「そうよ。どうせほとんどがパパラッチの仕業なのでしょうけど、彼らが写したものって、実情はどうあれやけに親密に見えるものが多いでしょう? そういうのを何度も見ていると、だんだんそんな風に感じるようになってしまうの」
「――俺が君以外の女性をエスコートするのは、君が同伴を拒んだからだ」
 無理やり作った苦笑は、その一言であえなく霧散した。
「え……」
「ジュニアの世話をしなければならないし、あの手の催しは好きじゃないからできれば出たくない。そう言われたから、俺は一人で参加するようになったんだが、俺が一人だと知れば周囲は奇異の目で見てくるんだ。何より知り合いや、中には自分自身をパーティなどでのエスコート相手として売り込んでくる人間がイナゴのように群がってくるのがいい加減うざったくなって、次第に俺はパーティの間、一緒にいたところで妙な勘違いをしないだけの良識を持つ女性を伴うようになった。仮にでも隣に誰かがいれば、不純な目的で声をかけてくる人間は一気に減るからね」
 淡々と告げられる言葉から、やはり夫を欲しがる女性はたくさんいるのだと改めて思いしらされる。一気に降下していくマデリーンの気分に気づいているのかいないのか、ランドルフは平坦な調子で言葉を続ける。
「ゴシップ記者やパパラッチが俺を喜んで追い掛け回すのは、多分同伴者がころころ変わるからだろう。けれどこれも、実を言えば実に単純極まりない理由によるんだ。何しろ俺のエスコート権は先着制だから、会場に到着して真っ先に同伴を希望してきた女性を伴っているという、本当にそれだけだ」
「……どうしてそんな事を……」
 どこまで本気なのかはわからないが、ジョークにしてもタチが悪い。戸惑いながらさらにその理由を問えば、ランドルフはあっさりと肩を竦めた。
「エスコートしたいと思っている相手が不参加なんだ。だからその空席を埋める代理は、状況をややこしくさえしない人間でさえあれば誰であってもかまわない。何しろ――酷い言い方になるが、俺にとってエスコート相手とは、あくまで面倒を減らすための手段でしかないんだからね。それを選ぶために割く時間など俺にはないから、よほど不都合のある相手でない限り、はじめに声をかけてきた女性を伴う。だというのに、どうやら周囲は俺を希代のプレイボーイとして祀り上げたいらしい。けれど代理役を一人に決めるのは更に具合がよくないから、俺は今の状況に甘んじているというわけだ」