かぶ

真実の目覚める時 - 28

 もし、マデリーンを取り巻いている世界の全てがたった今崩壊したとしても、きっと彼女はそれに気づかなかっただろう。それほどまでに、ランドルフが告げた言葉は彼女の内面を強く揺さぶった。
 これは、現実なのだろうか。聞かされた言葉は、真実なのだろうか。
 もしも今の言葉が真実なのだとするならば、自分はこれまで一体何をしていたのだろう? 長い間感情を押し殺し続けてきたのは無意味だった? それどころかマデリーンがランドルフへの愛情を素直に表に出さなかった事で、彼女自身のみならず、夫も苦しい思いをし続けてきたという事になる。
 婚約をするまでのランドルフは、マデリーンのことを大切な預かり物のように扱っていた。不用意に触れぬよう、汚さぬよう、壊さぬよう、細心の注意を払って。けれど思い返せば、彼女がプロポーズを受け入れた後は一転して、まるで本当の恋人のように扱ってくれていた。過密なまでのスケジュールから時間を作り出しては会いに来てくれたし、素晴らしい贈り物や甘い言葉をたくさんくれた。紳士的に振舞いながらも、情熱の片鱗が抱きしめる腕の力や、貪るような激しい口付けに見えていた。まるで、彼らの結婚は、周囲の期待に応えるための便宜上のものなのではなく、純然たる恋愛結婚なのだとでも言うように。
 ――けれどそれを当時のマデリーンは、前者は婚約者に対する義務感からであり、後者は婚約者がいるため他の女性と付き合えないがための性衝動によるものだと決め付けていた。
 結婚してからだってそうだ。二週間に亘ったハネムーン中も、新しい日常が始まってからも、ランドルフはその必要がない時にもマデリーンの手を握ったり、腕を取ったり、肩や腰を引き寄せたり、意味もなく抱きしめたりキスを降らせたりと、いつでもどこでも彼女に触れていなければ気がすまないのだという態度で示していた。仕事や雑用、もしくは何らかの事情で彼女を置いて出かけた時は、帰ってくると真っ先に妻の姿を探し、これは今も変わらない挨拶のキスをねだった。ただし当時のそれには、おかえりなさいとただいまを告げるためにしては少しばかり甘ったるすぎる感があったのだけれど。
 二人揃って公式の場に出かけた時には、着飾ったマデリーンを、彼女がもうやめてちょうだいと心底から乞うてしまうほどの賞賛の言葉を浴びせ、完璧という以外の評価が思いつかないくらい、それこそ水も漏らさぬような心遣いでエスコートをし、会う人会う人に自慢げに紹介した。ランドルフが行くところには必ずついてくるよう促されたし、マデリーンが向かう先では必ず彼が寄り添っていた。ダンスがあるような催しであれば、彼女が疲れすぎないように気をつけながらも繰り返し踊りに誘った。彼が他の女性の手を取る事はなく、逆に誰かがマデリーンをダンスに誘ったりすれば、彼女が断りの言葉を口にするより先に割って入り、これ以上にないほどはっきりと所有権を主張した。おかげで彼女は、冗談などではなく、化粧直しを理由にしなければ一人になる時間を得られないほどだった。
 アマデオを妊娠した時もそうだった。子供ができたと告げた時、彼は映画や物語の中でしか見た事がないような行動に出た。詳しく状況を述べるなら、こんな風になる。彼は快哉を叫んでマデリーンを抱き上げ、その場でぐるぐると回ってから床へとおろし、身体が軋むほどの強さで彼女を抱きしめた。そして自分がどれほどの力で妊娠中の妻を抱きしめているのかに気づくや否や飛び退り、身体に異常はないかあたふたと問いかけた。
 彼女の負担を減らすためにも、妊娠中の間だけでも家政婦を雇おうかと提案してくれたし、それを断れば、彼は出張や残業をほとんどしなくなり、家にいる時間を長くしてはかいがしく彼女の世話をした。つわりの期間は少しでも彼女が苦しくないようにと薄いお茶を煎れ、果物を手ずから食べさせてくれた。戻している時も嫌な顔をせずついていてくれたし、定期健診には全て付き添ってくれた。いざ出産の時が来ると彼は仕事を放り出して病院に駆けつけ、半日以上かかった出産の間、ずっと彼女の側で手を握って励ましてくれていた。アマデオが生まれた時には、念願の息子を抱くより先にマデリーンを抱きしめ、感極まった様子でありがとうと繰り返した。
 なのにマデリーンは、ランドルフがプロポーズの際に口にした言葉に囚われすぎていた。
『俺たちが結婚すれば、全てが上手く行くんだ。親父は念願の孫を見る事ができるだろうし、君の家族も君の結婚に満足する。相手が俺なら反対もされないだろう。何より、俺も君も、結婚しろと周囲からせっつかれなくなる。――君がどうしようもなく俺の事を嫌いだというわけでないのなら、このプロポーズを受け入れるべきだと思うよ』
 それは、説得の一環で口にした言葉だったのだろう。だけど若かったマデリーンの耳には、ランドルフが彼女にプロポーズをしたのは、それだけが理由なのだと聞こえた。何よりプロポーズの言葉に、愛を示唆する言葉は一つとして含まれていなかった。それゆえ、彼女は決めたのだ。感情を封印し、彼の妻として生きる事ができるというただそれだけで満足しようと。
 故にランドルフの愛情表現を、マデリーンは全て否定した。夫は自分を愛していない。彼の行動に意味なんてあるはずない。一方的にそう決め付けて、築き上げた分厚く硬い殻の中に閉じこもった。そうして目を瞑り、耳を塞ぎ続けた。それだけじゃない。彼女は愛情を差し出しているランドルフに対して、理不尽にもどうしてそんな事をするのかと、なぜ期待を持たせるのかと、怒りさえ抱いた。そのくせいざランドルフがマデリーンに距離を置いて接するようになると、彼女自身が態度でそうしてほしいと訴え続けていたというのに、やはり彼は自分を愛していないのだと結論付けた。これでもう彼を今以上に愛さずにすむと、安堵さえして!
 気遣いや、差し伸べてくれた手を跳ね除けていながら、彼は自分を苦境に陥れても気づかずにいるのだと、一方的に批難していた。夫はいつだってマデリーンからの言葉を待っていたのに、彼は自分の言葉など聞いてくれないだろうと独りよがりに傷ついていた。
 それなのに、自分はこんなにも弱くてずるい女だというのに、ランドルフは今でも彼女を愛していると言ってくれた。嫌いたいと思っても嫌えなかったと。それほどまでに愛しているのだと。
 後悔と罪悪感が濁流のようにマデリーンの中へと流れ込み、彼女の心を強固に覆い尽くしている殻へと圧し掛かり、ひびを生じさせた。感情の重みがそのひびを裂け目へ、そして割れ目へと変化させる。分厚い殻によって抑圧されていた情熱は、今ようやく目覚めの時を迎えたのだ。
 心のある場所から胃の奥へと熱い塊が送り込まれる。それは心臓と喉へと競り上がり、止め処ない奔流となって眦から溢れ出した。熱い雫は頬から顎へと重力に引かれて滑り、ぱたぱたと膝の上に落ちる。
「マデ、リーン……?」
「ごめ、なさ……私、本当に――!」
 言葉を紡ぐのはそこまでが限界だった。洩れそうになる嗚咽を手で押さえ、涙でぼやけた視界にも明らかなほど愕然としている夫の視線から逃れるため、彼へと背を向ける。ぐっ、と何かを呑み込むような音が聞こえたと思った次の瞬間、強い力が彼女を後方へと引き寄せた。
「――どうせ泣くのなら、俺の腕の中で泣いてくれ!」
 苦しげな声が耳に届き、せっかく背中を向けたというのに、また相対させられる。だけど夫の姿を目に留めるより先に、大きくてあたたかな腕と身体にしっかりと包み込まれていた。
 優しい手が背中を撫でる。
 これが数分前に起きた事なら、マデリーンはきっとこの手の優しさは同情から生まれたものだと思っていただろう。けれど彼女の視界を歪ませていた殻が壊れた今、抱きしめる腕にも宥める手にも、戸惑いが多分に含まれてはいるものの、確かな愛情を感じる事ができた。
「君を、こんな風に動揺させるつもりはなかったんだ。まだあんな事を言うつもりでもなかった。だけど自分でも止められなくて……本当に、すまない」
 耳から聞こえるより、顔を埋めている胸から直接響いてくる声に、マデリーンは強く頭を振った。
「悪いのは……私の方だわ。あなた、は、いつだって、私を愛して……くれていた、のに。なのに私が、ずっと勝手に怖がって、目を……逸らし続けて、いたから。……そうかもしれないと、期待して、間違いだった時に、傷つくのが、失うのが、あまりにも、怖くて……!」
 喉の奥を塞ぐ塊に邪魔されながらも何とか搾り出した声は、情けないほど涙に濡れ、震えていた。きっと聞き取りにくいだろうに、ランドルフは呼吸さえ潜めて耳を澄まし、彼女が告げんとしている言葉をじっと待っている。
「怖かった……絶対手に、入らないと……そう思ってた。なのに突然、あなた、が私の……ものに、なってしまった、から。降って湧い、た、幸運が……消えて、しまう事が、……どうしようもなく、恐ろしかった、の。失いたく、ないと……失えないと、思った……から。だから私、あな、たの言葉……を、利用……して。この結婚は、便宜上のもの、なんだって、ずっと……思い込ん、でい、た……の」
「まさか――」
 どくりと、夫の鼓動が鈍くなったのを、マデリーンは確かに聞いた。
 彼があまりよくない方向に思考を向けつつあると気づき、彼女は急いで言葉を続ける。
「いいえ、あなた、が、悪い……んじゃ、ない、の。私が、逃げ続けて……いたか、ら……。きち、んと、向き合って……い、ればよか、たのに……なのに、怖がって……いた、から……」
「ああ、マデリーン……まさか君は……」
 一度は速度を緩めかけたランドルフの鼓動が、今は驚くほどの速さで鳴っている。背中を撫でていた手は止まり、不自然な形でこわばっている。
 彼の緊張がマデリーンのためらいを打ち消した。身を守るように自分自身を抱きしめていた腕を解き、おずおずと逞しい身体に回す。彼女からこんな風に彼に抱きつくのは、もしかすると初めてかもしれない。ああ、どうか彼に拒否されませんように、と、心の中で神様に祈る。その祈りが確かに聞き届けられたのだとわかったのは、数秒の逡巡の後、ランドルフが確かに彼女を抱きしめた時だった。
 全身を安堵が駆け抜け、甘く熱い何かが彼女の中で存在を新たにする。いいえ、これは『何か』なんてものではない。これは、これこそが――『愛』と呼ばれるもの、だ。
 もはやためらいはなかった。今度こそしっかりと夫の身体を抱きしめ、マデリーンはうっとりと囁いた。
「愛しているわ、ランドルフ。ずっとずっと、愛してる」