かぶ

真実の目覚める時 - 31

「おはよう、父さん。今日はなんだかものすごく機嫌がいいね」
「ああ、おはようジュニア。今日も実にいい天気だな。その分風は冷たそうだが」
「そうだね……なら、ダウンジャケット用意しないと。僕、寒いのあんまり好きじゃないし」
 父さんの頭の中はどうか知らないけど。うっかり口を突きそうになったそんな言葉を押し留めた。
 まろやかな黄色をしたスクランブルエッグの入ったフライパンを片手にダイニングテーブルへと向かう父親を眺めながら、アマデオは真剣に、一体これはどういう状況なのだろうかと悩む。
 ここにいるのは本当に自分の父親なのだろうか。以前、友達の家で見た映画のように、実は父さんと似た体型のスパイが、父さんそっくりに整形して入れ替わっていたりするんじゃないだろうか。それよりは父さんのクローンだと考える方がまだ現実的か。とりあえず、人間の見た目をそっくりそのままコピーできるエイリアンなんて実在しないって事は、さすがに十歳の少年でもちゃんと知っている。
「……そういえば、母さんは? まだ起きてないの?」
「いや、もうすぐ来ると思うが。……まったく、もう少し寝ていなさいと言ったのに、起きると言って聞かなかったんだ。マディのあの妙な責任感の強さは、尊敬すべきものだけれど、時々困らされてしまう」
「までぃ……?」
 思わず悲鳴を上げかけた。文句を言いつつも、どうしようもなく愛しげなその表情にも驚いたけれど、そんなのはどうでもいい。今、父親は母親をなんと呼んだ!? ランドルフはいつだって母親の事を正式な名前で呼んでいたはずだ。それが、マディ? 一体どこからそんな呼び方が出てきたのだろう? いや、マデリーンの愛称はマディだから何もおかしくはないけれど、それでも父親がその名で母親を呼ぶというのは……なんだろう、この、嬉しいような、怖いような、悔しいような、複雑な感情は。
 またしてもぐるぐると思考の迷宮に惑いかけた少年を、父親のまたしても唐突な発言が掬い上げる。
「ああ、そうだ。今日は父さんが送ってやるからな」
「え?」
「たまにはいいだろう? それに、お前のガールフレンドにも会ってみたい」
「ロビンの事?」
「ああ。お前だけじゃなくマディも絶賛している子だ。気にして何が悪い?」
「別に悪くはないけど……」
 そんな会話を交わす間に、どうやら朝食の準備は整ったらしい。いつもアマデオが座る椅子を引いて、ランドルフが促す。
「早く食べなさい。出るまでにあまり時間はないんだろう?」
「あ、うん」
 言われるままに着席して、注がれていたオレンジジュースに手を伸ばしたところでふと気づいた。
「……父さんは?」
「うん?」
「僕を送った後、父さんも仕事に行くんだよね?」
「いや、俺は一度戻ってくる」
「え?」
「昨日は結局携帯電話の使い方も教えられなかったし、たまにはマディとゆっくり過ごしたいと思ってね」
「ああ、そう……って、え?」
 起き出してきてから、今日は一体どれだけ驚かされているんだろう。その中でもこれはまた強烈だった。
 しかも驚きの源が、すでに携帯電話を買ってきていると言われた事なのか、それとも母親と一緒に過ごしたいと言われた事なのか、それともいっそその両方か。まあ、とりあえず、今朝の父親がどうにもこうにもおかしいという事だけは確かだ。
 問題は、その原因なのだけれど……
「あら、あなたたち、まだ食べてないの?」
 少し遠い場所から聞こえてきた声に、そっくりの顔が二つ、揃って振り返る。
 ランドルフが言ったとおり、マデリーンもシャワーを浴びたのだろう。ドライヤーで乾かしはしたようだが、ほんのり湿った髪を見て、アマデオはぼんやりと考える。しかし、それでも母親はやっぱり母親だった。ラフ一直線な格好をしている父親とは違い、淡いブルーのタートルネックシャツに細かな千鳥格子のロングスカートといういでたちだ。さすがにそれはないだろうと思っていたけれど、万が一にも父親と似たような格好で母親が登場したらどうしようかと、ささやかに不安を抱いていたりした少年は、心底から安堵の息を吐き出した。
「おはよう、母さ……」
「……ああ、やっぱりそうだ」
 挨拶をしようと口を開きかけたアマデオを、ランドルフの声が遮った。
「やっぱりって……どうかしたかしら?」
 何か思うところがあるのか、自分の姿を見下ろすマデリーンに、ランドルフが低く笑う。
「いや、君はどうもしていない。ただ、朝の日差しの中で見る君は格段に美しいと、俺が改めて気づいただけだ」
「っ――!?」
 オレンジジュースを飲んでる最中じゃなくて、本当によかった。さもなきゃ盛大にむせ返るか、一歩悪けりゃ品のないコメディみたく、思いっきり吹き出していた。
「ランドルフ、あなた……」
 呆れと照れの入り混じった表情を浮かべる妻の元へと、ランドルフは足を向ける。そのまま、どうしたの? と視線で問いかけるマデリーンの身体をしっかりと抱きしめた。
「ジュニアは俺が面倒を見ると言っただろう?」
「ええ、だけどあなたにばかり任せるわけには……」
「これまで俺が君に任せすぎていた。これからは俺も、きちんとなすべき事をなすさ」
「あなたは十分してくれているし、お仕事もあるじゃない。家庭の事をするのは私の仕事でしょう?」
「だけど、それで君に息苦しい思いはさせたくないんだ。君にも自由な時間が必要だろう?」
「やだ、その話、まだ続いていたの?」
「当たり前だろう? 昨夜は結局、話し合いをきちんと終わらせられなかったからね。それもあって、今朝は時間を作ったんだ。ジュニアを送ったら戻ってくるから、今度こそきちんと話をしよう」
「……本当に、話をするのね?」
「他の事がしたいなら、俺はそれでもいいけれど」
「ランドルフ! あなたって人は――!」
 顔を真っ赤に染めた母親が、父親の身体を押し返す。 つまり、これまでの間、二人は――というか、父親が母親へと一方的に、際限なくいちゃいちゃしていたってわけで。
 ――こんなシーン、これまでに観た数える程度の恋愛映画の中ぐらいにしか存在しないと思ってた。これが、アマデオの率直な感想だ。現実世界でこんな風にどうどうといちゃいちゃする夫婦がいるなんて、ありえないと思っていた。
 目にも明らかなほど愛し合っている両親の姿というものに、憧れがなかったわけじゃない。だけど自分の存在を忘れるほどにいちゃいちゃされるってのは、なんだか悔しいし、寂しい。
「ははっ、冗談だ。だけど君にその気があるなら、本気にしても……」
「もう十分! まったく、アマデオもいるっていうのに、一体何を考えているの!?」
「もちろん、君の事だよ。ああ、そんな顔をしないでくれ。怒った君も綺麗だけれど、やっぱり俺は、笑顔の君が一番好きだからね」
 そんな甘ったるい言葉を吐いて、ランドルフはマデリーンに、朝の清涼な空気にはまったくもって似つかわしくない口付けを与える。一瞬抵抗しかけた彼女は、驚いた事にアマデオの予想を裏切って、夫へと身を任せた。
 とりあえず、両親の間にあった壁は、昨夜の内になくなってくれたらしい。その点については喜ぶべきだろうけれど、なんだか理不尽に悔しい。それが仲間外れにされているせいなのか、それとも他に理由があるのかは、よくわからなかったけれど。
「……あのさ。邪魔するのは嫌なんだけど、そこでいちゃいちゃされてたら、僕、朝ご飯、すっごく食べ辛いんだよね」
 下手に口を出せば馬に蹴られるのはわかっていたけれど、これ以上この空気の中に一人だけ冷静なまま取り残されるのは心底からごめんだった。呆れと不機嫌を前面に出して少年がそう口にしたとたん、はっと我に返ったらしい母親が、慌てて夫の腕から逃れようとする。……まあ、彼がそれを許すような真似をするはずもなかったのだけれど。
「ジュニア。お前ね、空気を読むってスキルは身につけてないのか?」
「僕的には、空気より時計の文字盤読んでほしいんだけど。まさか父さん、そのままの格好で僕を学校に送るつもり?」
 美味しいはずの朝食を機械的にもさもさと何とか食しながら、アマデオは冷静に時計を指差す。
 ここにきて、ようやく現実的な思考を取り戻したらしく、ランドルフは深々と名残惜しげなため息を吐き、マデリーンを腕の中から解放した。
「確かに、この格好では外に出るわけにもいかないな。わかったよ。すぐに着替えてくる。その間にお前も食事をすませておきなさい。……ああ、マデリーン。君はゆっくりしていてくれて構わないからね?」
 邪魔されたのが不満なのか、息子には厳しい視線を向けながらも、妻には蕩けるような笑みを投げる。
「え、ええ……わかったわ」
「じゃあ、すぐに戻るから」
 おまけとばかりに音を立ててマデリーンの頬に口付け、一家の大黒柱はリビングから足取りも軽く出て行った。