かぶ

真実の目覚める時 - 38

 たっぷりすぎる朝食を摂ったというのに、ランドルフが会社に向かう都合があるからと少し早めに昼食を済ませ、マデリーンは食後のコーヒーを飲みながら、夫が着替えてくるのを待つ。
 思いがけず訪れた二人きりの時間はとても穏やかで幸せで、うっかりするとまた次回を望んでしまいそうだ。だけどそんな事を今のランドルフに向かって口にしてしまったら、冗談ではすまなさそうなので絶対に隠し通そうと心に決める。何しろ午前中だけとはいえ、こんな突然に休みを取ったりしても本当によかったのか、マデリーンには判断がつかないのだ。
 しばらく悩んだ末、彼女はその疑問を率直にぶつける事にした。
「ねえ、ドルフ。今日は突然お休みを取ったりして、本当に大丈夫だったの?」
「もちろんだとも。モーガンヒルは俺が一日どころか一ヶ月の休みを突然に取ったところで簡単に倒れるような貧弱な企業じゃない。何より俺には、早朝から叩き起こして当日の休みを宣言しても、口では盛大に文句を言いつつ代理の仕事を完璧にこなしてくれる、実に優秀な秘書兼片腕がいるからね」
 気分をスーツの色に反映しているのだろうか、ランドルフは薄い灰色のダブルスーツの下にペールブルーの細かな格子が入ったシャツを着込み、スーツよりは少し濃い灰色の、無地のネクタイを合わせていた。基本的に幅広のネクタイを好んで着けるランドルフだが、今日はかなり細めのものを選んでいる。ただ着けなれていないせいか違和感を感じるらしく、咽元の調整を繰り返しながらマデリーンの隣へと腰を下ろす。
 どうにも見ていられなくて手を伸ばせば、その意図を敏感に察して手を下ろし、首彼女の方へ差し出す。何が気に入らないのだろうかと思うほどに綺麗な結び目を、少しばかりもったいないと思いながらも一度解き、従来のスタンダードな結び方ではなく、夜会などで用いられるような、少し洒落た形に結いはじめる。
「ならあれは……ケネスだったのね」
 器用に動くマデリーンのほっそりとした手に見蕩れていたせいで、彼女がぽつりと漏らした言葉を一瞬聞き逃す。
「うん?」
「ほら、私が目を覚ました時、あなた携帯電話で誰かと話していたでしょう? その相手よ」
「ああ、あれか。あれはケネスだ。あの時間なら起きているかと思ったんだが、ぎりぎりいつもの起床時間より早かったらしい。相手が俺だとわかったとたん、『一体何事ですか!?』と叫んでベッドから飛び起きたのが気配でわかったよ。どうも緊急事態が発生したんじゃないかと心配したらしい」
「それはまあ……当然じゃないかしら」
「すぐに何事もないのだと納得してくれたが、その反動もあってか、俺が午前は休んで午後から出社するからスケジュールを調整してくれと告げたら非難轟々だったよ。――おかげで懐かしい事まで思い出してしまった」
 青年の様子を思い出してはくすくすと笑う夫に向かって、呆れた人だと息を吐く。そんな妻に、ランドルフは少しばかり意地の悪い笑みを浮かべる。
「あれはまだあいつが俺の傍で働きはじめて二年が過ぎたあたりだったかな。ようやく仕事の内容や自分の置かれている立場、地位なんてものに慣れてきた頃、ふとした拍子に零したんだ。巨大企業トップの秘書なんて仕事は、聞こえこそいいものの、その実態は上司の遣いっ走り兼雑用係兼尻拭い係なんですね、とな」
「――あの子がそんな事を?」
「ああ。何しろあいつも、当時は所詮、前途洋々な夢と希望を抱く若い青年ってやつだったからな。で、だ。俺はその言葉に、なんて返したと思う?」
 頬に刻まれた笑みが深みを増すのをじっと見つめるマデリーンは、微弱な頭痛を覚える。もう一つ大きく息を吐き、肩を竦めるジェスチャーで降参だと示せば、彼は楽しげな声でこう告げた。
「『秘書なんてそのためにいるものだろう?』と、こう返したんだ。そしたらあいつ、一瞬ぽかんとした後に、本気で射殺されるんじゃないかってな物騒な目で睨みつけてきてな。こっちはジョークのつもりだったのに、本気に取ったあいつの頭の固さがおかしいやら可愛らしいやらでうっかり笑い出しそうになったんだが、さすがにあそこで笑ったら殴られるのは必至だってのがわかってね。ぎりぎりのところで抑えきったよ」
「それは、殴られていても自業自得ってものだわ。本当に、あんまりケネスをからかって遊んでいると、いずれ殴られるどころか本気で造反されても知りませんからね!」
 懲らしめる意味を含めて少しきつめにネクタイを締めてやると、咽の奥でぐっと悲鳴が上がる。
「わ、わかった。肝に銘じるよ。あいつをからかいすぎると、君の怒りを買ってしまうとね」
「ランドルフ」
「――冗談だ。ちゃんとわかってる。だからマディ、頼むからもう少し緩めてはくれないか?」
 ちらりと冷たい視線を投げれば、せっかくの男らしい太い眉を下げて、実に情けない顔になっている。反省の色は正直あまり見られないが、自分が彼にこんな顔をさせているのだと考えるだけで溜飲が大いに下がる。マデリーンはそっと口元に笑みを浮かべながら結び目をほんの少し緩め、今度こそ適切な位置で形を整える。
「完成よ」
「ありがとう。……ああ、なるほど。このネクタイなら、こういう結び方もできるんだな」
「たいした事じゃないわ。だけどもしかするときちんとした場には相応しくないかもしれないから、もしそうなら、悪いけれど自分で結びなおしてちょうだい」
「まさか! 誰かに文句を言われたとしても、妻に結んでもらったんだと逆に自慢してやるさ」
 堂々と宣言したランドルフは、嬉しげに何度も結び目に指を滑らせつつマデリーンの頬に軽い口付けを落とす。その間に内ポケットから取り出したらしいネクタイピンを留めながら、ふと思い出したように呟いた。
「それにしても、気になっていたのなら訊いてくれたらよかったのに」
「え?」
「電話相手だよ。口にしたって事は、実はずっと気になっていたって事だろう? どうしてあの時に訊かなかったんだ?」
 心底から不思議そうに訊ねる夫へと、マデリーンは思わずじっとりとした視線を投げてしまう。
「そんな暇をくれなかったのは、一体どこのどなただったかしらね?」
「……ああ、そうか。俺だな。すまない。完全に失念していたよ」
 果てしなく恨めしげな声でなされた指摘に今朝の成り行きを思い出し、これっぽっちも悪びれず謝罪の言葉を述べる。そんな夫にまったく、と息を吐けば、彼はマデリーンの肩を抱き寄せて、真摯な声で話しはじめた。
「だけど、俺は本当にいい男を見つけたと思っているんだ。あいつは強い向上心や上昇志向を持っているが、同時に忠誠心という、最近じゃ軽んじられつつあるものを持ち合わせている。自分が頂点に立つためなら、世話になった相手を踏みつけたり陥れたりしても構わない、そんな連中が増えてきつつある中では、実に貴重だと思わないか? 勉強熱心だし、学んだ事を次に生かす応用力にも秀でている。新しいものに対する積極性や好奇心の強さもさることながら、古いものを尊重しつつ、現代的な手法と融合させるあの絶妙なセンスは、俺には絶対に真似できない。自分の実力というものを正しく理解していながら天狗になる事もなく、周囲の抜けているところを補いつつ伸ばすなんて芸当もこなしてみせる。まるで砂漠の中の砂金粒のような人材だ」
 ランドルフがケネスを褒める事はそれなりにあったが、ここまで手放しでというのは初めてかもしれない。驚きと戸惑いを浮かべた瞳で夫を見上げれば、彼はどこまでも真剣な瞳でマデリーンを見つめ返す。
「まだ父にも話していないし、本人にも冗談交じりでしか言った事がないから、きっと信じていないはずだ。だから今からの話を打ち明けるのは、君が一番目となる」
 だから誰にも漏らしてはいけないよ。そう念押しして、彼はマデリーンが欠片ほども想像していなかった言葉を口にした。
「俺はね、マデリーン。いずれはアマデオがモーガンヒルを引き継いでくれればと思ってはいるが、それを無理強いするつもりはない。もしあいつがモーガンヒルの一角を担いたいと思ってくれているとしても、実際に任せる事ができるようになるまでには長く待たなければならないが、それでは俺にとって都合が悪い。だから俺の後継は、ケネスに任せようかと思っているんだ」
 話題の転換が唐突なら、告げられた内容も唐突だった。返すべき言葉を見つける事ができず、マデリーンはただじっとランドルフの次の言葉を、彼の真意が語られるのを待つ。
「実行に移すには、きっといろいろ問題が出てくるだろうし、反対意見や他の派閥の突き上げもあるだろうからそう易々とは行かないだろうが、俺はなるべくなら早く一線を退きたいんだ。父はまだ会長職に就いているが、身体のためにも早く引退してほしいし、俺自身が忙しすぎる毎日に辟易しているんだ。多少の無理なら押し通す事もできるが、だからと言って、たとえば毎日昼から出社して、午後の早い時間に帰宅する、なんて事を実行できるほど、CEOという地位は甘くない」
 苦さの混じる息を吐き出し、ランドルフは言葉を続ける。
「父にとって何より優先すべきは家業だった。家族はいつも二の次で、自然と家族の絆も冷たく薄いものとなってしまった。……俺は父を尊敬しているが、この点だけは絶対に真似たくないと思っていた。同じ持つのなら、絆の強い暖かな家庭がほしい。ずっとそう思っていたんだ」
「あなた……」
「そんな顔をしないでくれ。確かに俺たちの仲はずっと拗れていたが、ジュニアは君のおかげで俺のような思いはしていなかったはずだ。それに、まだまだこれからがあるんだ。その気になればいくらでも取り戻せるし、取り戻すつもりだ」
 マデリーンの胸に押し寄せた罪悪感に気づき、ランドルフは宥めるようなキスを彼女の額に落とす。
「俺にとっての最優先事項は家族だ。君と結婚してからその思いは事ある毎に強くなっていたんだが、これまでは君に望まぬ結婚を強いていると思っていたからね。だからせめて俺という存在がプレッシャーにならないように、そして君の望みなら何でも叶えられるだけの財を持つために、自ら忙しさに身を投じていた。――だけど君は、俺を愛していてくれた。この結婚は君が望んでくれたものだった。となれば俺には、心から愛する相手を後回しにしてまで金儲けに走るなど、馬鹿馬鹿しい限りじゃないか」
「……公の場でうかつにそんな言葉を吐いたりしたら盛大にバッシングを受けてしまいそうだけれど、個人的には賛成よ」
「もちろんわかってるよ。だからこの本音も含めてオフレコだ。……いや、ここはあえて人前で話して、その発言の責任を取るという形で退陣するというのも悪くはないか?」
「ランドルフ、馬鹿な事は考えないで。私はあなたと一緒にいられるのなら、たとえあなたが破産したとしても構わないと思っているけれど、それが原因でモーガンヒルの名に傷がついたりしたら、お義父様の心臓には悪影響が過ぎてしまうわ」
「やはり駄目か。いい考えだと思ったんだがな」
 あっさりと肩を竦める夫に、朝から数えれば何度目になるかわからないため息を深々と吐く。
「駄目に決まってるわよ。まったく、あなたって妙なところで妙な暴走をするんだから」
「妙なところじゃない。君に関しては、だ」
「……家族に関しては、ではなくて?」
 対象を自分に限定された事に違和感を覚え、マデリーンは即座に問い返す。しかしそれに対する返事は、実にランドルフらしいものだった。
「いや、君に関しては、だ。何しろ俺の行動原理は君なんだ。ジュニアは次位に就いているが、その差は太陽と月の距離ほどに離れている」
 完全にお手上げだった。なんだかこれっぽっちも勝てる気がしない。
「あなたって……本当に、どうしようもないのね」
「ああ、どうしようもない。自分でさえ、自分がコントロールできないんだ。だから諦めてくれ」
 いっそ爽やかに駄目押しをされて、マデリーンは本当に仕方のない人、と、苦笑混じりに白旗を揚げた。