かぶ

真実の目覚める時 - 49

「ええ、そうです」
『それは残業の有無についても、かしら』
「はい。何しろランドルフと僕の残業の有無で、彼の帰宅時間も大幅に変わってきますから……」
『それなら確かに伝えないと駄目だわね。ところでそのミスター・アレックスだけれど、最近入った人よね? これまであまりランドルフからその名前を聞いた記憶がないのだけれど』
「彼が入ったのはほぼ一ヶ月前です。元々僕だけでは手一杯になっていたのですが、先日のヨーロッパ行前準備のアシスタントとして入ってもらったんです。でもまあ、彼とやり取りしているのは主に僕で、ランドがアレックスと言葉を交わすのは稀ですから、彼の名前をランドが口にしないのも仕方ありませんよ。何よりアレックスは、ちょっとシャイ過ぎるきらいがありまして、人を威圧して楽しむ趣味のある例のあの人を怖がっているんです」
 ジョークを交えてのコメントに、マデリーンが然もありなんと笑いを噛み殺す。その囁くような声に、ほんの少しだけ鼓動が跳ねた。
『もしあの人があんまりにも新人君をからかいすぎるようなら私に言ってね。強くお灸を据えておきますから』
「先生。僕、ランドルフに日夜いじめられたりしごかれたりしているんですが、何とかしてもらえませんか?」
『うーん、残念だけれど、それはどうにもできないわ。だってあの人、あなたの事をとても可愛がっているし、何よりあなた自身が本気で嫌がってないんだもの。相思相愛の二人を引き裂くなんて、私には到底無理よ』
 相思相愛!? と身を震わせながら叫びを上げると、受話器の向こうからまたしても明るい笑い声が響いてくる。どうして彼女の声だけが、こうも耳に心地よいのだろう? 声美人な女性はいくらでもいるけれど、そのどれ一つとして、こんな風に聞こえてくるものはなかった。
「せっかくですが、その言葉はあなたに謹んでお返ししますよ。僕とランドの熱愛報道記事が世に出るのは真剣にごめんですからね」
『それはちょっと困るわ。せっかくあの人を捕まえたと思ったのに、とんでもない伏兵に持っていかれるのはごめんだもの』
「頼まれても持っていきません。むしろギフトラップで綺麗に包装して、赤い薔薇とピンクのリボンで装飾した上であなたにお返しいたします」
『あら、それいいわね。ぜひバレンタインデーのプレゼントとして用意してくれないかしら?』
「本気ですか? 本気ならこの会話、そのままランドに伝えますよ?」
『――さすがにラッピングの中からあの人が飛び出してくるのは、色々と刺激が強すぎるわ。悪いけれど今の下りはオフレコにしてもらえるかしら?』
「仕方ありませんね。では、僕の好物尽くしのディナーに招待していただくって事で手を打ちましょう。時期はバレンタイン後でいいですよ。その頃ならきっと、あなたのサプライズでランドも機嫌がいいでしょうからね」
『まったく、ビジネスマンってこれだから! ……わかったわ。それで手を打ちましょう』
 実に渋々と息を吐き、マデリーンはいっそ穏やかに念押しの言葉を口にした。
『じゃあケネス、協力をお願いね』
「わかりました。Xデーが近づいたら、改めて連絡しますよ」
『ありがとう。――裏切らないって、信じているからね』
「はい」
 ため息のように付け足された言葉にケネスは思わず神妙な気分で返事を返し、そしてほんの少しばかり後ろ髪を引かれながらも受話器を下ろした。それから年が変わってから一月しか経っていないというのに、すでに書き込みだらけで大部分が黒くなっているスケジュール帳の二月十四日を開く。
 胸の中では、複雑な思いが不穏な陰となり、とぐろを巻いた蛇のような冷たく厭わしい錘となっている。
 無言のままその日付をしばし睨みつけていたケネスは、ペン立てから赤いペンを引き抜くと、苦い息を吐き出しながら三桁の数字に大きくXの文字を刻みつけた。



「……だからさ、僕、ロビンのところに泊まるよ。ミセス・テレンスは僕の事も知ってるし、気に入ってくれてる。いつも手作りのパイをご馳走してくれるんだよ」
「だけどアマデオ。それは夕方までの話でしょう? 今回は夜遅い時間なの。早く帰ってくるつもりではいるけれど、就寝時間を過ぎるかもしれないわ」
「それなら泊めてもらうよ。これまで何度か誘われてはいたんだよね」
 息子を一人置いて出かけるのだと、申し訳なさのあまり沈鬱な気分で口を開いたマデリーンは、心外なまでにあっけらかんとした反応を得て、少しばかり気抜けしていた。
 独立心の欠片もない親にべったりな子供では困るし、アマデオの性格からしてそんな子ではありえないと知ってはいたが、それでもこんな風に両親だけでの外出を喜ばれてしまうと、なんだか悔しいし、寂しい。
「あなたはそう言うけれど、ロビンのお父様はどうなの?」
「どうって?」
「あなたがお家に泊まる事を快く思ってくれるかしら?」
「多分、あんまり気にしないんじゃないのかな。すごく忙しい人だし、ロビンと顔をあわせるのなんか、学校に行く前と寝る前のちょっとだけなんだって。会った事もあるけど、僕らの事なんかほとんど気にかけてもないよ」
「……それは、ちょっと親としてどうかしら」
 思わず渋い顔になる母親に、アマデオは苦笑を漏らす。
「ま、そうでもなきゃ、ロビンのママは出て行ったりしなかったと思うよ。正直、ロビンのお父さんと出会って初めて、父さんは少しばかり忙しすぎるけど、ちゃんと家族の事を思ってくれてるなって気づいたんだ。きっと反面教師にするにはいい人なんじゃない?」
「そういう問題じゃないでしょう」
 呆れ混じりに息を吐き、マデリーンはやれやれと首を振る。
「まあ、確かにまったく知らないシッターを雇うよりはすでに知っている人にお願いする方がいいかもしれないわね。だけどアマデオ、本当に夜遅くまでお邪魔して、場合によってはお泊りさせていただいてもいいのだという事を、ロビンのお父様にきちんと確認してからの話よ? できれば同意書のようなものをもらってほしいわ」
「本当に!? やったぁ! じゃあ、僕、今すぐロビンに言って、明日もらってきてもらうよ。なんて書いてもらったらいい?」
「そうね……来週の金曜日の夜にあなたを自分の家で、私たちが迎えに行くまで預かってくれる事、また、場合によってはあなたが泊まる可能性がある事をちゃんと理解していて、その状況を受け入れます、といった内容でいいと思うわ」
「わかった。すぐに一筆書いてもらうよ」
 躍り上がらんばかりに喜ぶ息子を見て、再び困った事だと息を吐く。
 本当のランドルフを知ったおかげで、アマデオが恋する少女と少しでも長く一緒にいたいと願い、そのために腐心している姿は当たり前のものなのだと納得できてしまう。もしかすると息子は、ロビンが母親の元に行くと言い出したら、追いかけようとするかもしれない。今なら止める事は容易いが、それがあと五年、六年経ってからならどうだろう? 今でも十分大人びているのに、心に身体が追いつき、更に今よりもっと世間を知ってしまっては、ちょっとやそっとでは止められそうにない。
 何しろあの夫の気質をそっくりそのまま受け継いでいるのだ。舌鋒を尽くして説得しようとしたところで、自分が勝てる可能性は大して大きくないだろうし、一番の助けになるはずのランドルフは、もしかすると嬉々として背中を押してしまいかねない。
 そうなれば、マデリーンに勝ち目はない。妻にも娘にもあまり関心を持たない父親では味方にならないだろうから、最後に頼れるのはロビンの母親だけだ。しかし愛されない事に傷ついて出て行った彼女は、娘を愛して追いかけてくる未来の息子をどう思うのだろう?
 いけない。考えれば考えるほど分が悪くなる。それ以前に、これは起きるかどうかもわからない未来の話なのだ。今から心配したところで、取り越し苦労になる可能性の方が遥かに大きい。
 それでも心配は拭いきれず、マデリーンは何度目かのため息を吐きながら、息子へと視線を投げる。それを受けて、少年は怪訝そうに首を傾げた。

* * *

 一方的に通話が切れ、彼女はしばし呆然とその場に立ち尽くしていた。
「……信じ、られない」
 これまでこんな事は一度としてなかった。いつだって、物事は彼女の望むままに動いていた。今回だってそのはずだった。なのに。
「信じられない。ありえないわ、こんなの」
 耳障りな音を立て続ける携帯電話をほとんど叩きつける勢いでテーブルに置き、彼女はもう一度呟く。それからいらいらと指先――本当は爪を噛みたいところだが、つい昨日、新しいネイルをつけたばかりだった――を齧り、けっして狭いとはいえないオフィスの中を歩き回る。
 まだ、あのどこまでも冷たい声が、言葉が耳の奥で響いている。
『残念だが、これまでだ。薄々気づいてはいたが、君が俺に話して聞かせた内容は嘘ばかりだし、俺の目標は君の目標からはかけ離れてしまっている。仕事の関係上、ビジネスの席で顔を合わせる事はあるだろうが、こんな風に連絡してくるのは今後一切なしだ。ああ――それから、先日少し話したMetの祝典だが、君は顔を出さない方がいいかもしれない。馬鹿を見るだけで終わりかねないからね』
「何よ、今更……今更、あたしを見捨てるなんて、できるわけないわ」
 ぎり、と噛み締めた歯が親指の腹に痕を残す。あるはずの痛みを感じる余裕すらなく、彼女は外に広がる高層ビル群へと視線を向けた。
 昔から憧れていた。その場所に辿り着くためなら、どんな手段でも使うと誓った。夢を叶えるためのステップとして狙っていた、大きな窓のついた個人オフィスはすでに手に入れた。だけどそれはあくまで通過点だ。彼女が目指しているのはより南に位置したビルのより高層。それはこの希望と絶望が混在し、どこに転がっていくとも知れない玉石混交のチャンスで溢れている小さな島において、絶対的な権力を表す。
 自分一人の力では手に入れられないと知っていたから、その足がかりをいくつも作った。今のこの場所だって、もちろん彼女自身の才覚もあるが、彼女の直接の雇い主でありパトロンでもある男の引き立てがあって手に入れたものだ。だから今回だって、同じ手段でどうとでもなると、そう思っていた。
 そのはずだったのに、どうしてこんな事になっているのだろう?
「――信じないわ。ええ、そうよ。彼はほんの少し、怖気づいただけだわ。大丈夫。何も変わってない。だってあたしは、何一つ間違えてなんかないんだもの」
 そうだ。そのとおりだ。不鮮明な根拠は無数に流してきたけれど、うかつな痕跡は一つとして残していない。唯一あるとすれば彼の存在だが、彼は自分の立場を守らなければならないのだから、彼女を売る事はないだろう。だから問題はない。――その、はずだ。
「本当はもう少し物事が動いてからの方がよかったんだけどね……」
 苦く息を吐き、冷たいガラスにマニキュアの爪を立てる。
「そちらがそのつもりなら、こちらも相応に動いてあげるわ」
 真紅のルージュを引いた唇に艶めいた笑みを浮かべ、彼女――アリシア・ブルネイは、窓の外に広がるマンハッタンへと背を向けた。