かぶ

真実の目覚める時 - 51

「そうだな。――行こうか、マディ」
「ええ、あなた」
 うっとりとした視線を妻に落とし、さりげない仕草で石階段へと促す。歩き出しても手を離そうとしない夫に歩きにくいわとマデリーンが反論したのだが、ランドルフは腰に回した腕に更に力を入れ、彼女を放す意思はないのだと無言で示す。
 何度も繰り返し使われているはずなのに、足元に敷かれているレッド・カーペットは意外なほどの柔らかさを靴越しに伝えてくる。けれどそれさえも、今のケネスには針の筵にしか感じられない。
 まったく、人の恋心を――それがたとえ横恋慕であったとしても、だ――百も承知でしでかしてくれるのだから、ランドルフ・A・モーガンヒルは、実に大した性格をしている。こんな事なら誰でもいいからエスコートする相手を見つけてこればよかった。そんな風に内心で今更な後悔をしている内に、大して長くない石段を昇りきってしまう。大きく開かれた正面玄関のすぐ内側に、やはり正装をしているレセプショニストたちが見えて、ケネスは足を止めた。
「ランドルフ、招待状は……」
「ああ、これだ」
 マデリーンから離した手をコートの内側へと滑り込ませ、羊皮紙を思わせる手触りのカーボン・ペーパーを取り出すと、彼は当然のようにケネスへと差し出す。それを受け取り、彼は上司夫妻に先立って受付へと向かった。見た目こそ比較的若年に見えるものの、妙な貫禄さえ感じさせる青年の前で足を止め、渡された招待状を示す。
「ランドルフ・モーガンヒル夫妻とケネス・ヒルストンです」
 与えられた名が招待リストに確かに掲載されている事を確認し、レセプショニストの青年は穏やかな笑みを浮かべた。
「はい、承っております。ようこそいらっしゃいました。こちらが入館証になります。コートはこの入り口を入っていただきました両側にございますクロークにお預けください。展示およびパーティ会場は二階の西棟南側の特別展示室にございます。どうぞ素晴らしい時間をお過ごしください」
 淀みない歓迎の言葉に了承の頷きを返し、ケネスはすぐ背後のランドルフたちと一度視線を合わせると、再び彼らを先導するように歩きはじめる。何度も足を運んでいるため、クロークの場所を見つけるのはこれっぽっちも難しくなかった。すれ違う中に見知った顔を見つけ、会釈や軽い挨拶を交わしながらコートを預ける。
 ここでもランドルフは――きっと本人はパフォーマンスのつもりなど欠片ほどもないのだろうが――マデリーンへと実に親密な動作で手を貸し、ドレス姿となった妻を言葉を尽くして絶賛する。それも、周囲に走ったどよめきになどまったく気づいたそぶりは見せずに、だ。
 もちろんこのどよめきは彼の態度に対してでもあっただろうが、彼が連れている女性への賞賛の色も確かにあった。彼女が身に着けていたのは、彼女が身に着けている黒真珠とよく似た鈍い光沢を放つ黒のイブニングドレスだった。胸元が開いていないタイプのホルターネックで、ハイネックのカラーは細くすっきりした首を正しく覆っており、レースで縁取られた小粒の黒真珠がオレンジの室内灯に淡く反射している。その首には耳を飾ると同じく、小粒の黒真珠をふんだんに使ったチェーンが緩やかな螺旋を描きながら胸より更に低いところまで流れ落ちている。
 ランドルフと並んで遜色のない長身であり、それに見合った骨格を保持してもいるのだが、むき出しになっている肩に痩せによる鋭角はない。逆にぎりぎり撫で肩にならない優美なラインを描いており、正しく美を知る目を持つ男なら誰でもその肩に指を這わせたいと望むだろう。大胆に開かれた背中には日に焼けた跡も染みもなく、すっと伸ばされた背筋に天使の翼を想起させる肩甲骨が僅かな翳を作るのみ。余分な弛みの見えない長い腕はシルクのロング・グローブに包まれており、手首はやはり本日の意匠である黒真珠を連ねたゴージャスなブレスレットが飾っていた。
 滑らかな布地にしっかりと包み込まれている豊満なバストは、されどその存在感を隠しきれておらず、アンダーバストから腰にかけてきゅっと引き締まった胴のラインは、女性であれば羨まずにはいられまい。細い腰からヒップに続く線はどこまでも女性らしく、足の形に添うように縫製されたタイトなドレスは彼女の長い脚がどんなに素晴らしい形をしているのかを知らしめている。
 まるで彼女自身が一巻きの黒い巻貝のようだと、ケネスはぼんやりと思う。そうして今更にランドルフがなぜ今夜アスコットタイを選んだのか気づく。何の事はない。初めからマデリーンに合わせていたのだ。本来であればボウタイを締めなければならない正装で、男性が女性の装いに合わせるべきは胸のチーフだ。しかしどうせならアクセントになるだろうピンからして同じものを着けたいと考えて正統な着こなしを捨てたのだろう。想像するに、タイに使われている生地も、きっと彼女のドレスと同種の布地だろう。
「何を呆けてる。さっさと行くぞ」
「……はい」
 青年の内心を読んだのだろうか。どこか勝ち誇ったような笑みを浮かべるランドルフへとしぶしぶ敗北の息を吐き、ケネスは堂々とした足取りでエントランスへと向かう上司夫婦を追いかける。
 展示会場に足を踏み入れてまず驚いたのは、その場にひしめく人々の多さとその顔ぶれだ。一体どのようにして集めたのか、経済誌や大衆紙に一度ならず写真が載った事のある大人物が目を向ける先に必ず一人はいる。もちろんその一人に彼自身の上司も含まれるのだが。
 その事に気づいたのはケネスだけではなかったようで、マデリーンも驚いたように眼を瞠ったあと、ほんの少し表情を曇らせた。そんな些細な表情の変化さえ敏感に見咎めたランドルフが妻の耳へと何事かを囁こうと軽く背中を屈めたところで、とても深い響きを持つ固い声が彼の名を呼んだ。
「おやおや、これは驚いたな。君はこういった催しには興味を持たないと思っていたのだが」
「ゲオルグ・フォン・フォルトナー上院議員。お久しぶりです」
 マデリーンの腰は抱いたままで彼女の手を握っていた右手を離し、その手をそのまま上院議員へと差し出す。ドイツ系二世のこの議員は五十間近であり、秀でた額に深い皺を幾つも刻み、グレーの髪は白い部分が増えてきつつあるものの、深く落ち窪んだ眼窩の奥で鋭く光る灰色の瞳やがっしりと鍛えられた身体はその年齢をまったく感じさせない。よく聞かないとわからないが、微かに残るドイツ訛りが彼の容貌と相俟って堅い印象を与えるが、実のところ付き合ってみればかなり気さくな人物で、以前とある催しで言葉を交わして以来、ランドルフはこの上院議員と親しく付き合ってきていた。
「今日はうちのケネスを非公式ではありますが、私の正式な後継者としてこっそりお披露目しようと思いましてね。他のパーティでは利権だなんだが絡みすぎて気安い顔繋ぎの場には相応しくないが、今夜のような場であればそこまで面倒はないのではと思いまして」
「ケネス君を? しかし彼は君の秘書ではなかったかな?」
「ええ、秘書ですよ。ただ、私が彼を秘書にしたのは、そうすれば私の成すビジネスを他の誰よりも近くで見せる事ができると思ったからなんです」
「なるほど。では、元から後継者に設えるつもりだったと?」
「はい。まあ、本人にはつい最近知らせたので、かなり驚かれましたが」
「はっはぁ、それは確かに驚くだろうな。だが、私もいずれは政治家として身を立てたいと望んでいる青年を個人秘書にしているのだからあまり君を咎める事はできそうにないな」
「そうなのですか? それは例の……?」
「ああ。そう言えば君は彼と以前顔を合わせていたね。まあ近い内に正式に引き合わせるよ」
「お願いします。――それはそうと、上院議員。私の妻を紹介してもよろしいですか?」
 ランドルフが「妻」の言葉を口にした瞬間、ざわりと周囲で妙などよめきが起きる。それに気づきながらも、上院議員はもちろんと鷹揚に頷いた。
「マデリーン・カサンドラ・モーガンヒルです。マディ。こちらはゲオルグ・フォン・フォルトナー上院議員。以前にも話した事があるだろう?」
「ええ、覚えているわ。たしか、ニューヨークで一番美味しいザワークラウトを出すお店について、あなたが徹底議論した方よね? おかげさまで私、最近は酸っぱいだけじゃないザワークラウトを食べる事ができてますの。本当に感謝してますわ」
 茶目っ気たっぷりに返された言葉に豊かな声で惜しみのない笑いを挙げた上院議員は、皺の刻まれた顔に満面の笑みを浮かべ、彼女の手をしっかりと握り締めた。
「それはよかった。ランドの口の軽さは否めないが、君の率直さはとても快いね。私の妻はドイツ系ではないが、中々のドイツ料理を作るんだ。今日は下の娘が体調を崩したため同伴していないのだが、一度夕食を食べにきてくれるかね?」
「まあ、光栄ですわ。その際には息子も一緒でよろしいでしょうか? あの子も美味しいものには目がないんです」
「ああ、ランドルフ・ジュニアだね。幼いわりにとても優秀だと聞いているよ。もちろん、歓迎させてもらおう」
「ありがとうございます」
 優雅に頭を下げる彼女をじっと見つめ、上院議員は目線のそう変わらない友人へと鋭い視線を投げる。
「ランドルフ……君がこの美しい細君を隠しておきたかった気持ちはわからないでもないが、どうしてもっと早く紹介してくれなかったんだ? 私が君と知り合ってから一年以上が経っているはずだぞ?」
「紹介したくはあったのですが、妻は息子想いでして……。幼い子供を置いて出かけるなどできないと何度誘っても首を振られてばかりいたんです。ですが息子も十を超えましたし、そろそろいいだろうと説得に説得を重ねてようやくこうして連れ出せたんですよ」
「君が? 説得に説得を重ねた、だって?」
「当然ですが、私は常々イミテーションではなく本当のパートナーをエスコートしたいと願っていましたから。ただ、息子を思う母親を説得するのは中々に骨で、子供を置いて夜に出かける正当な理由をこれまでは見つける事ができず、泣く泣く知り合いに空席を埋めてもらっていたんですよ」
 わざとらしい嘆息にこちらも芝居がかった仕草で頷きながら上院議員が理解を示す。
「それでようやくわかったよ。君と話すたび、噂に聞く君のプレイボーイ振りと実際の愛妻家な面がまったくそぐわなかったのだが、そういう理由だったのか」
「そうなんですよ。ですが、妻もようやく私に理解を示してくれましてね。これでもう、不本意な噂を撒き散らさずに済むというものです」
 満足げな笑みを浮かべたランドルフは、どこか咎めるような視線を投げてくる妻に意味深な視線を向けると、宥めるように白い額へと唇を落とす。しかしどうやらそれでは足りなかったらしく、マデリーンは夫にだけ聞こえる声で囁いた。
「ドルフ、私はごまかされないわよ?」
「ごまかすだなんて。俺はただ、周囲の認識を正しているだけさ。君を見世物にしているつもりもない。こうするのは、ただ単に俺がしたいからだ」
 どこまでも甘く返し、腹の前で組まれていたマデリーンの両手を片手で持ち上げると、その甲へとたっぷりとした口付けを落とした。
「っ――!」
 息を呑んだのはマデリーンだけではなかった。今にもひび割れそうな薄氷にも似た緊張が、広い空間を走る。間近にこの甘い仕草を見てしまったケネスはずきずきと痛む頭を無言で抑え、そして百戦錬磨の政治家でもある上院議員は、
「ランド……君は少し、加減と言うものを知るべきだよ……」
 と、頭を振りながら苦笑を滲ませた。