かぶ

真実の目覚める時 - 53

「ふむ、ようやく美術館の一室らしくなったな」
 ひねくれた物言いをする男へと咎めるような視線を向ける。
「あなた」
「本当の事だろう? 元々ここは観光客が並でなくやってくるが、それでもあんなに人がいてはね。もう一度展示を見るかい?」
「そうね……もういちど、さっきのタイルを見てもいいかしら?」
「ああ、あのホラズム窯のかい? 本当に気に入ったんだな」
 頷きながら、部屋の奥へと向かう。そこでは壁一面に、古典的な幾何学模様の描かれた、青いペルシアタイルの世界が広がっていた。実際の寺院に使われているタイルの緻密なレプリカで、遠くに見ている時から興味を示していたマデリーンは、近くに見た芸術的なその美しさに、文字どおり息を奪われていた。ランドルフに言わせれば、所詮はレプリカでしかないタイルよりもそれを恍惚と見つめるマデリーンの横顔の方がよほど美しいのだが、そんな事を口にして彼女の感動に水を差す事もないし、大した事のない距離とはいえ、彼女をエスコートできる事それ自体が嬉しい。
 何気なく巡らせた視界の中に、今夜引き合わせた相手とケネスが何か話をしているのが見えた。その向こう側で、今夜この場所では見かけなかったはずの鮮やかな色が翻る。遅れてきた客だろうかといぶかしみながら、妻が深く好んでいる青へと視線を戻す。
「そんなに気に入ったのなら、バスルームのタイルをこれのレプリカに交換しようか?」
「それは……ううん、やめておくわ。あの家にこのタイルは、さすがに異質が過ぎるもの」
 一瞬心が揺れたようだが、すぐに気を取り直したらしい。ゆるやかに頭を振って、ため息混じりに言葉を返す。その表情にふと思考の陰が落ちたかと思うと、マデリーンはランドルフへと顔を向ける。
「そういえば、あなたも青色が好きだったように思うのだけれど、これにはあまり興味を引かれていないわね?」
「――俺が好きなのは、もっと透き通った感じの青なものでね。アクリル系の青はまだ比較的俺の好みに合うんだが、こういう透明感のあまりない青はそうでもないな」
「言われてみれば、確かにそうね。あなたが気を引かれるのは、そういったものばかりだったわ」
 納得の頷きを返しながら、彼女はまたタイルへと視線を戻す。またしても自分から興味が逸れたのをまざまざと感じ、ほんの少しだけ寂しく思い、ランドルフは静かに息を吐く。そうして吸い込んだ空気にふと特徴的な香水の匂いを感じて、無意識に眉を顰めた。
「驚いたわ。まさかあなたがこんな場にいらっしゃるだなんて」
 ねっとりと媚を含んだ声が明らかに自分に向けてかけられていると知り、ランドルフは吐き出しかけた苦い息を噛み殺しながら振り返る。
 今宵も絢爛に身を飾り、女王然とした態度で近づいてくるのはつい数日前にも顔をあわせた相手だった。祝典とはいえ落ち着いた雰囲気を主とした催しだというのに、燃えるように赤く、身体のラインをどこまでも強調するセクシーなドレスをその身に纏っている。ゴージャスと評されるであろう金糸の髪を頭の高いところで一つに束ねてから緩やかにロールを巻きながら滝のように流しており、以前とは違うデザインではあるものの、ルビーの豪奢な飾りをふんだんに着けていた。彼自身のスタイルが表すように、今夜は完璧な正装でと定められた会ではないが、だからといって何を着てもいいというものではない。今夜のように落ち着いた雰囲気の場では、それに見合った装いが求められるものだ。
 自分の見栄えしか考えていないだろう目の前の女性に対して呆れを感じつつ、表向きには笑みを浮かべて言葉を返した。
「……同じ言葉を返させていただこうかな、ミズ・ブルネイ。君は来ないと思っていたんだが」
「あら、ランドルフ、どうかいつものようにアリシアと呼んでちょうだい。それより、私の仕事をお忘れになって? 確かにこういった様式を用いるようなお仕事をした事はなかったけれど、それは私の元に届く依頼がそれを求めていなかったからでしかないわ。いざとなっても対応できるように、私はどんな種類の美術展にも足を運ぶようにしているの」
 意識的にマデリーンが死角に入る位置に立った彼女は、その上で全身をランドルフに向けて会話を続けようとしている。彼女が自分に秋波を送ってきていた事には気づいていたが、まさかこの場でこうもあからさまにマデリーンを無視するとは思ってもみなかった。傍らの気配から、妻が居心地悪くしているのがわかり、マデリーンとの時間を邪魔された苛立ちに、彼女ないがしろにされている事に対する怒りが重なる。
「それは知らなかったな。ところで私は、君に妻を紹介した事があったかな?」
 平静を装って出した声は、しかし果てしなく冷たい響きを伴っていた。驚きと怯え、そして欠片ほどの不快感にその作り物めいた笑顔をほんの少し引きつらせながら、アリシアはいいえ、と返した。
「なら、紹介しよう。マデリーン、これがアリシア・ブルネイだ。ケネスが発案したレストランを建設する際に使ったインテリア・コーディネーターなんだが……以前に話した事があったかな?」
「ええ、覚えているわ。あなたはレストランの出来にとても満足していて、落成パーティの日には手放しで褒めていたじゃない」
「俺が? 本当に?」
 どうやら本人はすっかり忘れていたらしく、きょとんとした表情で見つめてくる。マデリーンは苦笑を滲ませると、緩やかに頷いた。
「ええ、そうだったのよ。まあ、あなたは才能のある人が好きだし、いつもの事だろうからと思って気にも留めていなかったのだけれど」
「……なんだ。てっきり表面上は何も思ってないように振舞ってはいたものの、本当は嫉妬していたんだと話が続くのかと思ったのに」
「ランドルフ……」
 心底から残念そうな顔でしゃあしゃあと告げる夫に、マデリーンは苦笑を深める。しかしその頬に、焼けるように鋭い視線を感じ、戸惑いながらも視線を移す。すぐに真意の読めない笑みが取って代わったものの、その直前に見えた瞳の煌きから、嫉妬に燃えたクピドは緑の目をした怪物へ身を変えた、という神話の一説を思い出した。
「はじめまして、ですわよね? 私、奥様の代わりに何度も旦那様のお相手を勤めた事がありますの」
 冷たい笑みを貼り付けたまま、アリシアはすっと手を差し出す。言葉の裏に込められた悪意に気づきながらも、ここで握手を返さないのは失礼に当たると考え、マデリーンは躊躇しつつもその手をそっと握った。
「お目にかかるのは初めてですわ。ミセス・ランドルフ・モーガンヒルです。私の代わりに夫の隣が空席にならないよう、気を使っていただいたようで……」
「大した事ではありませんわ。むしろ、役得だと思ってましたから」
 ぎり、と手が軋むほどの強さで握られる。唇から零れかけた悲鳴をマデリーンがぎりぎりで呑み込むのを満足げに見ると、アリシアはぱっと手を放して再びランドルフへ向き直った。
「それにしても、本当に驚いたのよ。あなたがここにいるのを見て。これまではこういう文化事業系の催しには、ずっと欠席するか名代を立てていたというのに……何か心境の変化でもあって?」
「……ああ、変化はあったな。ただし、心境ではなく状況の、だが」
「あら。それはどんな変化なのかしら?」
 またしてもマデリーンを完全にいないものとして振舞うアリシアに、ランドルフの導火線が刻一刻と短くなる。しかし周囲には無関係の者もいるのだ。社交界に再デビューを果たそうとしているマデリーンのためにも、ここで騒動を起こすわけには行かない。
 内心の怒りを長年培ってきた忍耐力で抑え込み、ポーカーフェースを作るとさりげない調子で答えた。
「妻がようやく子離れをしてくれてね。今後、私の出席するパーティにはなるべく同伴してくれる事になったんだ」
「――まあ、それは……」
「そう、とても素晴らしい事だろう? 私としてはその言葉を貰ったその日にでも彼女を連れて出かけたかったんだが、残念ながら、同伴が必要になるパーティがこれしかなくてね。まあちょうど旧知の方々も多数出席されると聞いていたから、これ幸いと締め切りに滑り込む形で参加を決めたのだよ。少しばかり無理を通してしまったが、その甲斐はあったよ。何しろこんな風に着飾った妻を見れたし、更にはエスコートをするという幸運に見舞われたのだからね」
 そっと妻へと視線を落とし、腕に掛けられていた手を取ってその甲に口づける。とたん、薄っすらと青ざめていた頬が薔薇色の輝きを取り戻した。
「ドルフ!」
「うん? どうかしたかい?」
 嗜める声に何事もなかったかのように返し、ランドルフは大丈夫だと告げる代わりの笑みを与える。そのメッセージは正しく受け取られたらしく、マデリーンの身体から、僅かに緊張が解けたのがわかった。そっと安堵の息を吐き出し、改めてアリシアへと向き直る。その目には、たった今まで宿っていた愛情の片鱗すらも残っていない。あまりにも冷たい視線を投げられ、彼女はふるりと無意識に身を震わせた。
「せっかく声をかけてくれたのに申し訳ないが、そろそろ今回の展示にあわせた企画商品を見に行こうと話をしていたところなんだ。失礼させていただいても?」
 言葉の上では疑問の形を取っているが、まさか引きとめはしないなと、その響きが威嚇している。こんな無言の圧力に逆らえるはずもなく、アリシアはほとんど反射的に頷いていた。
「え、ええ。もちろん構いませんわ」
「ありがとう。では失礼するよ」
 慇懃に会釈を交わした上で妻を促し、道を明けられる事を前提としてアリシアの方へと一歩を踏み出す。自分の存在がないがしろにされていると感じたのか屈辱に顔を歪めつつも、彼女はむしろ従順に後ろへと下がった。
 気遣うように頭を下げたマデリーンは、しかし再び憎悪に満ちた視線を向けられ、胃の底に氷の塊を押し込められた錯覚に心を重くしていた。