僕と彼女の呼び名へのこだわり
ロビンがそんな事をふと思い出したように訊ねてきたのは、僕の家で二日後に提出しなければいけない社会科の宿題をしていた時だった。
彼女はただでさえ珍しい転校生で、更に新学期に遅れてやってきたものだから、僕らの学年は彼女の噂で持ちきりだ。まあ、噂になる理由はそれだけじゃなくて、彼女の一見男の子に見えるくらいすっごくハンサムな見た目だとか、アイリッシュ訛りのきつい、乱暴に聞こえる言葉遣いだとか、人前で正々堂々とレベッカを振った二人目だからだとか(ちなみに一人目は僕だったりする)、それから、そう、僕とよく一緒にいる事だとかがあったりもするのだけれど。
とにかく、初日から妙に意気投合した僕らは、まだ出会ってから三週間も経ってないって言うのに、すっかりお互いの家を行き来するのが習慣のようになってしまっている。とは言っても、結構早い時間にお暇するものだから、まだ会った事があるのはどちらもお互いの母親だけなのだけれど。
ちなみに僕の母さんのロビンに対する評価は、実に上々だ。
最初こそ母さんは、やっぱり見た目と言葉遣いからロビンを男の子と思っていたみたいだけど、僕がその誤解を解いてからはすっかりロビンを気に入ってくれて、当日になってから誘ってもいいかって訊ねたり、あっちの家に遊びに行きたいって言ったりしても、少し困った顔をするくらいで大体はオッケーを出してくれる。
とまあ、そんな事はさておいて、ロビンの疑問だ。
ほんの少し天井を睨みつけるようにして記憶を辿った僕は、軽く首を傾げて訊き返した。
「えーと……僕、父さんと同じ名前だって言わなかったっけ?」
「それは聞いた。親子二人でランドルフなんだ……でしょ? けど、なら、別にランディじゃなくてもドルフとかあるじゃん」
こっくりと頷いた彼女が続けた言葉に、意図するところを理解して僕は小さく苦笑した。
「……ドルフは母さんが父さん用に予約済みなんだ」
「そうなんだ? あれ、でも、聞いた事ないよ?」
「いつもは他の人たちと一緒でランドだけど、たまにドルフって呼んでるんだ。だから駄目」
その呼び名を耳にするのは本当にレアだからいいんじゃないかな、と思わないでもなかったけど、それで慣れてしまって、母さんが父さんを呼んだ時に反応してしまうのがなんか嫌だったってのが事の真相だったりする。
「ふうん。マデリーンさんって言えば、あの人はランディを『アマデオ』って呼ぶけど、あれは?」
「あー……それは、僕のミドルネーム。これも父さんと一緒だけど、父さんをアマデオって呼ぶ人はいないから」
「だったら、なんでそれを使わないのさ」
ああ、うん、これはまあ、当然の疑問だよね。これまで訊かれた時は適当に誤魔化していたけど……ロビンなら言ってもいいかな。
「なんとなく、なんだけど」
「うん」
「――アマデオって響きがさ、可愛らしすぎると思わない? なんか子ども扱いされてる気分になるから、母さん以外には絶対呼ばれたくないんだ」
数秒、僕の言葉を理解しようとするように考え込んだ後、ロビンはぷはっ、と吹き出した。
「それが理由!?」
「そうだよ。悪かったね。……これだから人には言いたくなかったんだ」
「いや、悪いとは言わないよ。気持ち、わからないでもないし」
ひとしきり笑うだけ笑った後で、ロビンがそんな慰めを口にする。気を使ってくれてありがとう。でもちょっと遅すぎたかも、それ。
「あ、怒ってるな? えーと、笑ったのはごめん。だけどまさかそんな理由と思ってなかったからびっくりしたんだ」
「いいよ別に。笑われるだろうってわかってたし、それでもいいと思ったから教えたわけだし」
「……そ、なんだ?」
「うん。ついでに言うとこの理由教えたの、ロビンが初めてだよ」
これは本気で思いがけなかったらしい。初めて見るくらい目を見開くロビンを見て、ほんの少し気分が晴れる。
「そ、なんだ……へへ、なんか嬉しい」
ふんわりと頬を緩めるロビンに、僕の気分は一気に上向いてしまった。ついニマニマしてしまいそうになる頬を何とか抑えて、僕はこちらもこちらで気になっていた事をこの際だしと訊いてみる事にした。
「そういうロビンだって、みんなにはロブって呼ばせてるよね? ロビンの方が可愛いのに、どうしてなの?」
「かわっ――!?」
どうやら僕はよっぽどおかしな事を言ってしまったらしい。思いっきりむせ返った彼女になんだか理不尽なものを感じながらも答えを促す。
「別に大した理由はないんだけどさ……」
ジュースを飲んで呼吸を整えたロビンは、ぽりぽりと鼻の頭を指先で掻きながら口を開く。
「オレ……じゃない、あたしが前に住んでた所は、まあ、こっちで言うハレムみたいな地域の近所にあったんだ。だから学校なんかも結構環境酷くてさ。で、そんな中にいる白人の、まあまあいい暮らしをしている女の子ってのは、結構目をつけられやすいワケよ」
ひょい、と肩を竦めながらちらりと僕に視線を流し、それからまた、遠いところを見つめる顔になる。
「女の子からはやっかみを受けるし、男の子からはからかいの対象になるしで色々うざくて。それを近所に住んでいたアンちゃ……兄さんたちに相談したら、男の子っぽい格好と言動をして、あと一撃必殺の喧嘩技を身に着けたらすぐにどうとでもなるってアドバイスを貰ったんだよな。ちなみにこのどぎついアイリッシュ訛りは彼らから直々に伝授されたものなんだ」
「伝授って……じゃあ、ロビンはアイルランド系じゃないの?」
思わず口を突いた問いかけに、彼女はあっさりと頷いた。
「マムがそうだけど、働いてるのがお堅い銀行だったしこっちで生まれ育ってるから結構綺麗な英語喋るんだよ。それじゃ箔がつかないからって事でがんばって習ったわけ」
「……そうなんだ。ロビンのママ、びっくりしなかった?」
「そりゃあびっくりしてたけど、あの兄さんたちが悪い人たちじゃないって知ってたし、両親を思い出すからって面白がってる方が多かったかな。――で、ロブってのはさ、アイルランド系な上に名前が名前だからってだけの理由でロビン・フッドって呼ばれるのが嫌だったから」
僕の理由も結構アレだけど、正直、ロビンの理由も相当だと思ってしまった。おかげでどう反応すべきかに悩んでしまって、結局出てきたのはどこまでも間の抜けた言葉だった。
「ロビン・フッド……って、アイルランドだっけ? イギリスじゃなかった?」
「その通り。てかあの連中に取っちゃ、アイルランドもスコットランドもウェールズもブリテンも、全部『イギリス』でひとくくりなわけ。そんな事、アイルランド移民の子孫って事に誇りを持ってる兄さんたちにバラしても面白かったかもしれないけど、一歩間違ったらバラされかねなかったから、そこだけは口を噤んでおいたんだ」
苦笑するロビンの意味するところはなんとなくわかったけど、一〇〇パーセントってわけじゃないので、曖昧に頷く。
「そういうわけで、今じゃすっかりロブで慣れてるし、ロビンって呼ばれると後ろに違う言葉がくっついて聞こえるから、今は親しい一部を除いてロブって呼んでもらってるんだ」
「親しいって言うけど、僕、一番最初っからロビンの事、ロビンって呼んでるよね?」
「それは――それこそ感覚なんだけど、ランディにロビンって呼ばれるのはなんか嫌じゃないんだよな。最初にロビンって呼んでもいいかって訊かれた時も、そう呼ばれた事がすとんって落ち着いた気がして」
「そう、なんだ」
なんだろう。なんかこう、すごく嬉しい。僕のために言葉遣いを直すって言ってくれた時もそうだけど、ロビンってこうやって時々とんでもない不意打ちを食らわしてくれるから油断できない。
正直、後になってもどうしてそんな思い付きをしたのかわからないのだけれど、多分僕はすごく浮かれてたんだと思う。気が付けば、
「……ね、ロビン」
「ん?」
「僕の事、アマデオって呼びたい?」
「え、アマデオ?」
その瞬間、さっきロビンが言ってた言葉の意味を僕は正しく理解した。
僕の中で何かがすとんと正しい場所に当てはまった。そんな感覚。母さんに呼ばれるのとも違う、なんだか特別な感じ。だから僕は、自然と浮かんでくる笑顔と共に、はっきりと告げた。
「うん。ロビンがそう呼びたいなら、呼んでいいよ。ロビンになら、呼んでほしいって思うから」
結局ロビンは僕の事をランディって呼ぶ事に決めたみたいだった。僕からすると少し残念だったけど、人前で呼ばれるのも少し恥ずかしいので丁度よかったのかもしれない。だけど二人でいる時、ごく稀にアマデオの方で呼ばれる事があって、そういう時はどうしようもなく嬉しいような、気恥ずかしいような、奇妙な気分に襲われるのがちょっぴり悩み所だ。